梓「私が大人の世界に足を踏み入れてから3ヶ月が過ぎた夏の日の夜9時。とあるマンションの803号室。

  大学生活にも慣れ始めて先輩達からサークル加入の許可も得た。一年以上のブランクを経て、放課後ティータイムは復活した。
  まだライブはやってないけど、高校時代より幾分か熱心に練習に取り組む私達。
  先輩達は色々な人との触れ合いを通して音楽に対する取り組み方が変化したみたいだ。私がびっくりするくらいに。
  でも根底の部分は変わっていない。ミーティングと称したティータイムはいまだ健在で、その緩み切った空間は外野を寄せ付けない。
  呆れるべきなのか喜ぶべきなのか。悔しいことに喜びの方が大きいみたい。
  自室でレポートと格闘している今も頭から放課後ティータイムが離れない。期末試験も近いのに、こんなんじゃあの人に説教できるご身分じゃないや。

  頬を軽く叩いて気持ちを切り替えようとしたところで玄関のチャイムが鳴った。こんな時間にこの部屋を訪ねる人は一人しかいない」

唯『こんばんは~、お時間よろしいでしょうか~』

梓『新聞なら間に合ってまーす』

唯『宅配ピザ持ってきましたー』

梓『頼んでませんよ。きっとお隣さんと間違えたんじゃないでしょうか』

唯『お隣さんはお留守みたいでーす』

梓『へー。お姉さんはどこぞをほっつき歩いているのかもしれませんが妹さんはどうしたんでしょうか』

唯『J.S.さんにレポートの応援を要請されたそうでーす。明日提出だそうですがおたくは大丈夫でしょうかー』

梓『たぶん私が取ってない科目ですよ。私は明後日提出のレポートを仕上げているところです』

唯『あら。お邪魔だったかしら?』

梓『もうすぐ終わりますけど……。あなたもレポートや試験勉強で忙しいんじゃないですか?』

唯『さっきまでやっていたのですが……栄養失調で倒れそうなんです。至急このドアを開けてもらわないと生き倒れてしまいます』

梓『それは困りますね。人の部屋の前で寝られては非常に困ります」

唯「たくはいびんでーすっ!」

梓「こんな大きな荷物受け取れませーん」

唯「はかどってるかね、あずにゃん」

梓「ええ、5分前まではすごく」

唯「そんなこと言って、実はバンドのことが頭から離れなくて勉強に集中できなかったとかだったりしてー」

梓「……唯先輩じゃないんですよ」

唯「これは失礼しました」

梓「それで、何の用ですか」

唯「うん。実はね……」

梓「はい……」

唯「トンちゃん分が足りなくなってたんだよ~。お久しぶりトンちゃ~ん」

梓「そっちですか」

唯「おっと、こっちがよかったかな」

梓「いえ、全然」

唯「素直じゃないんだから~」

梓「さてトンちゃん、餌の時間だよ~」

唯「私があげるよ~」

梓「加減してくださいね。……はい、それくらい」

唯「もっと食べたいんじゃない?」

梓「これくらいが適量なんです!」

唯「ご、ごめん……」

梓「用が済んだなら帰ってください。全然勉強進んでないんでしょ」

唯「進んでるよ。見て。レポートと試験対策ノート」

梓「……誤字がいっぱいです」

唯「あれ」

梓「大学に提出するレポートに『あずにゃん』という単語が入ってるのはおかしいと思いませんか」

唯「ありゃ……ボーっとしてたかな」

梓「それと、カラフルにまとめるのはいいんですけど、これ自分でも読めるんですか」

唯「読めるよ~。えっと、7003年、目木径斉はみぞゆうの危械を……」

梓「しょうがないですね。手伝いますよ」

唯「面目ないです」

梓「お茶です」

唯「お、ありがとー」

梓「ひと段落ついたみたいですね」

唯「あずにゃんのおかげだよー。ありがと」

梓「こんな調子でよく一年もちましたね。澪先輩達に手伝ってもらってたんでしょうけど」

唯「そうなんだけどね。去年は一人でもある程度はできたよ」

梓「何で今年は駄目になっちゃったんですか」

唯「うーん、まずはこの暑さがね」

梓「確かに今年は例年になく暑いですね。でもそんなこと言ってもしょうがないですよ」

唯「もう一つの理由。これが大きいと思うんだ」

梓「何ですか」

唯「ズバリ! あずにゃんのせい!」

梓「はぁ?」

唯「あとは憂のせい! あずにゃんと憂が来てから私はすっかり安心しきっちゃって、思う存分だらけられるようになったんだよ」

梓「私と憂は引っ越した方が唯先輩のためになりそうですね」

唯「嘘です。言い訳です。ちゃんとします」

梓「少し操縦を誤ったら簡単に谷底に転落しそうな人ですね、唯先輩は」

唯「上手く操縦してね、あずにゃん」

梓「私には荷が重いです」

唯「あずにゃんの方も済んだかな」

梓「ええ。今日の分は終わりました」

唯「それじゃあ……」

梓「嫌な予感……」

唯「映画見よっ」

梓「やっぱり」

唯「TSUYOSHIで借りてきたの。これ見たことある?」

梓「ないです。有名な作品だってことは知ってますけど」

唯「私も名前だけは聞いたことがあったから興味本位で借りてみたんだよ」

梓「長そうですね」

唯「うん、確かに長いね」

梓「もう遅いですからまた今度でいいじゃないですか」

唯「明日返却なんだよ~」

梓「どうしてこんな時期に借りるんですか」

唯「今までずっと貸し出し中だったからつい」

梓「はぁ、明日が休みでよかったですね」

唯「やったぁ。じゃさっそく。うわぁ、いいテレビだね。映像きれい」

梓「……唯先輩。唯先輩!」

唯「んん……むにゃ?」

梓「終わりましたよ」

唯「おおっ。面白かった……ね?」

梓「内容覚えてますか?」

唯「うん、幾多のすれ違いの末二人は結ばれ……」

梓「結ばれませんでしたね」

唯「うん。そうだったね」

梓「長々やってましたけど、結局のところ二人が素直になれなかった、ってだけの話のように思えますね」

唯「もったいないねー。愛し合ってたのに」

梓「ほんとですね」

唯「でも、主人公とヒロインの話よりヒロインと女中さんの話の方が面白かったよね」

梓「そうですか?」

唯「すごくいい関係だと思わなかった? 自分のご主人様であるヒロインに遠慮なく小言を言う女中さんと、それを無視したり反発したりしながらも結局言うこと聞いちゃうヒロイン」

梓「本当の親子以上にお母さんと娘みたいでしたね」

唯「うん。わがままで周りを振り回してばかりなのに、いつも自分の傍にいて世話してくれたお母さん代わりのおばさんには頭が上がらない。こういうの何て言うんだっけ……もえる、よね?」

梓「確かに微笑ましい関係ですね」

唯「女中さんの出番が減ってきたから終わりの方は寝ちゃったよ」

梓「極端な人ですね。他にも見所はありましたよ」

唯「でも女中さんがいないとつまんない」

梓「一応最後の方も出てはいましたよ、女中さん」

唯「結局どうなったの? 女中さん」

梓「どうって?」

唯「ヒロインとの関係は? そのまま?」

梓「ええ、ヒロインにずっとお仕えするみたいでしたけど」

唯「そっか。うん、それでいいんだよね」

梓「何を期待してたんですか」

唯「うーん、えっとね。もう少し踏み込んだ関係にはならないのかなーって」

梓「踏み込んだ関係ってどういう関係ですか」

唯「私にもよくわかんない。ただ、あれだけ一緒にいて、信頼し合っていても全く関係が変わらないってちょっとさみしいかなーって」

梓「身分も歳もまるっきり違うんですからしょうがないです。それに女同士なんですから。あれが最高の関係だと思いますよ」

唯「そうだよね。ごめん、変なこと言って」

梓「いえ、そこまで変じゃないと思います」

唯「そうかな。ならいいけど。……うぅ」

梓「唯先輩?」

唯「おなか、ペコペコだよ……」

梓「私もです。カップ麺でも食べますか」

唯「おぉ、すまないねぇ。遅くまで付き合わせて、その上お夜食までいただいちゃうなんて」

梓「いいですよ。面白かったですから。○ちゃんでいいですか」

唯「うん、赤いき○ねだね」

梓「私は緑のた○きを。アイスもありますよ。カップ麺の後に食べましょうか」

唯「大盤振る舞いだ。なんかあずにゃんってさ」

梓「あの女中さんに似てる、ですか」

唯「ばれちゃった」

梓「生憎私は唯先輩のお母さんでもなければ奴隷でもありませんよ」

唯「わかってるよ。私もお嬢様でもなければ悲劇のヒロインでもないからね」

梓「そうですね。でも……でももし私があの物語の女中だったとしたら」

唯「どうなるかな」

梓「私だったら……欲におぼれるかもしれないですね」

唯「欲におぼれる?」

梓「唯先輩の言う『踏み込んだ関係』を目指すかもしれません」

唯「あずにゃんが?」

梓「変ですか?」

唯「変じゃないよ。でもイメージできないや」

梓「私、物事に優先順位をつけるのが苦手なんです。できることなら目の前にあるもの全部手に入れたいと思ってしまう」

唯「不器用なんだね」

梓「未熟なんですよ」

唯「ううん。誰だってそういうところはあると思うよ。私だって」

梓「唯先輩も?」

唯「私だって好きな人とはずっと一緒にいたいって思うもん。特別な関係になれるならなってみたいって思うもん」

梓「もし唯先輩があの物語のヒロインだったら男主人公の立つ瀬がないですね」

唯「いいじゃん。そっちの方が面白そうだよ」

梓「唯先輩が将来映画監督になって女中さんメインのスピンオフを制作したらどうですか」

唯「スピンオフって何?」

梓「わからないならいいです。カップ麺できましたよ」

唯「ありがとー。いただきます」

梓「召し上がれ」

唯「あっちっち」

梓「もう、気をつけてくださいよ」

唯「えへへ、お腹がすくとつい、ね」

梓「いやしんぼですね、唯先輩は」



―――――

梓「真夏の太陽が笑顔でこんにちはする8月21日。

  私達はガラガラのバスの後方を陣取っていた。目的地は海。
  律先輩、澪先輩、ムギ先輩、憂、純、ドラ美、鍵子、軽音部の新入部員二人、そして私と唯先輩の総勢11人。他の乗客はお婆さん2名。
  今年の合宿はムギ先輩の家の別荘ではなく一般の旅館に泊まることになった。
  後ろからは律先輩が今後の予定を提案する声が聞こえる。私は寝たふり。
  律先輩やら純やら鍵子やらが私に声をかけてきても寝たふり。
  別に面倒だから寝たふりをしているわけではない。律先輩ならこの大所帯を取り仕切ってくれるという信頼の表れだ。
  リーダーは一人でいい。

  もう一つ理由を挙げるとすれば……声を出したら肩にもたれかかるこの人を起こしてしまいそうだから……」


梓(午前中は遊ぶぞー、って例年通りですね、律先輩。と言いつつ夕方まで遊ぶであろうことは目に見えてるけど)

唯「…すー…すー…」

梓(新入生がビビってるのが声だけでわかる。彼女達からしたら大学2年のOGなんて中学校の生徒指導の先生並みに畏怖すべき存在に違いない)

唯「…むみゃぁ…」

梓(ムギ先輩と澪先輩は美人で近付きづらいし律先輩はドラムのパワーアップのためなのか前より若干がっしりした体になった気がする)

唯「…ん…」

梓(……唯先輩は別か)

唯「…ぃ…」

梓(でもこの合宿が終わる頃には先輩達とあの子達も打ち解けているだろう。だって軽音部なんだから)

唯「…ぐびー…」

梓(憂が言うには唯先輩が昨夜布団に入った時刻は10時らしいけど……)

唯「…すん…」

梓(肩がしびれてきた)

唯「…ぅ…」

梓(なんかお婆さん達がこっちを見てる)

唯「…ふ…」

梓(騒いですみません。うるさいようでしたら注意しますから)

唯「…ぁ…」

梓(ものすごい笑顔で見られてる……)

唯「…じゅ…」

梓(私達って周りの人の目にはどんな風に映ってるんだろう)

唯「…にゃん…」

梓(そろそろ起きてください)

唯「だ~る~い~。ま~ぶ~し~い~」

梓「寝過ぎなんですよ。しばらく休んでたらどうですか」

唯「ダメだよあずにゃん。こんなきれいな海を前にしたら、私、もう、我慢できない!」

梓「転びますよ~。待ってくださ~い」


唯「新入部員①ちゃんその水着かーわいいっ」

梓「唯せんぱーい。嫌がってますからよしたらどうですかー」

唯「あ、あずにゃんも今年はついにセパレートなんだ」

梓「今気付いたんですか。まあ大学生ですからね。さすがに去年までのはちょっと……」

唯「でもあんまり成長してな……ぶべぇ!?」

梓「すいません、手が滑りました。このビーチボール磨き方が足りませんね。ズルズル滑ります」

唯「ビーチボールは磨くものじゃないよ……」

梓「そうですね」

唯「あ、新入部員②ちゃん、水着のお尻破れてるぅ~。あはは、うそうそきゃうんっ!」

梓「あ、ムギ先輩がネットを用意してくれたみたいですね。みんなでバレーしましょうか」

唯「うん……そうだね……」


梓(負けたチームが昼食をおごるという罰ゲームを設けて、第一回軽音部対抗ビーチバレー大会が始まった。チーム分けは、澪先輩、唯先輩、憂、ドラ美、新①、新②チームと律先輩、ムギ先輩、純、鍵子、私チームで分かれたのだが)

唯「とぉっ! あれっ?」

梓(唯先輩は置いとくとして、澪先輩と憂のコンビネーションが意外にもぴったりハマっていた)

唯「うぉっと」

梓(ドラ美と新①、新②も運動が得意のようで、そつのないプレーを披露した。一方私達のチームは……)

唯「憂、澪ちゃん、ナイス!」

梓(運動が比較的得意なのは律先輩だけ。しかもチームとしてのまとまりも向こうと比べるとイマイチ)

唯「あ……」

梓(しかし私達だってみすみす昼食をおごるつもりはない。穴は徹底的に突くのが勝負の定石だ)

唯「いいよいいよドラちゃ~ん!」

梓(それでも点差はなかなか縮まらず律先輩はタイムアウトを取った)

唯「みんなこの調子!」

梓(罰ゲームなんて関係ない! このままで終わるのは悔しいじゃないか! あっちの真面目軍団(一人を除く)の鼻を明かしてやろうぜ! 律先輩は熱く檄を飛ばす。私とムギ先輩はどちらかといえば向こう側の人間だと思いたいものだが)

唯「みんな!もう一息だよ!もうひと踏ん張りでタダ飯にありつけるんだよ! ハンバーグもオムライスもスパゲティもパフェもドリンクも好きなだけ頼めるよ! 前部長さんと前々部長さんは太っ腹だからねぇ~」

梓(いえ、今月はピンチです。というか何で唯先輩が円陣の中心にいるんですか。キャプテン気取りですか)

唯「さぁ行こーか」

梓(15対18……。21点先取した方が勝ちであることを考えると中々厳しい。でもこのまま諦めるつもりはない。チームフリーダム(律先輩命名。私も含まれるんですか?)は諦めない)

唯「ほっ」

梓(!? 唯先輩の動きにキレが……。そうだ。この人の上達の速さを侮ってはいけなかった。でも負けるわけには)

唯「さぁもう一点だよみんな!」

梓(19対20……。通常のバレーのように2点差がつくまで試合を続けるタイブレーク方式だからまだ望みはある)

唯「ふおおおおおおおお!」

梓(間の抜けた叫び声ですね! 万事休す!です……)

唯「いくよあずにゃぁぁあぁあん!!」


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最終更新:2011年04月15日 23:48