その日は、私達の初めてのライブだった。
各々大成功の余韻に浸って(一人例外は居たが)、部室で打ち上げ。
正式に放課後ティータイムが形を成した日。


「かんぱーいっ!」

グラスを打ち、ジュースを飲む。
いつもは私が紅茶を入れるのだけれど、さすがにティーカップで乾杯は出来ないようだ。

「皆の衆、お疲れさん! 部長として誇りに思いまっす!」

「そうだな……演奏は、大成功だったよな……」

「み、澪ちゃん、元気出して……」

澪ちゃんは今日のライブの退場時に転んでしまい、スカートの中を大勢の観客に見られてしまっていた。
まぁ、気持ちは分からないでもないか。

「澪ちゃん、失敗は誰でもあるわ。私だってよく転んだりするもの」

「ムギぃ……いやで、私……りかも……」

「だ、ダメだよ澪……ん、そん、言っちゃ……」

「そー……それにファンサー……とかどーよ? な、ムギ!」

ふと、耳に違和感。
そうだ、耳に水が入った時のような。

「? おーいムギー?」

「ご、ごめんなさい、上手く聞き取れなくて……」

「ムギちゃん大丈夫?」

「うん、心配しないで、もう大丈夫だから」

「ライブの後だからか?」

確かに大音量を聞き続けていると耳鳴りが起こったりはする。
でも、ついさっき自らの身に起こった症状は、りっちゃんが言ったようなそれとは違って思えた。
その差は本当になんとなく、の範囲であって、確信が持てるものではなかったのだけれど。

「やっぱり疲れちゃったんだろうねー」

「そーだな、打ち上げも良いけど早めに切り上げるか。ほら澪、早く立ち直れよ?」

未だあうあう言い続ける澪ちゃんを宥めている。
その姿は親友と言うか、むしろ親子と言うか……

それにしても、さっきの耳の違和感は何だったのだろうか。
軽く頭を揺すってみるも、特に変化はない。
やっぱり気のせいか。

「ムギちゃん、私も片づけ手伝うよ!」

「おいおい、唯に手伝わせたら……」

失礼だけど、確かに。
とはいえ断るのもまた失礼で、食器がダメになってもまた新しい物を買えば良い。
唯ちゃんに手伝いを頼むことにした。

「私が食器を洗うから、唯ちゃんはそれを拭いて、棚に戻してくれる?」

「らじゃ!」

びしっ、と言う擬音がピッタリな素早い動作で敬礼する唯ちゃん。
布巾を持ち、洗い終わった食器が私から渡されるのを今か今かと待っている。

「はい」

「いえっさー!」

本当に賑やかな子だ。
お皿を拭く度にあわあわ言いながら落としかけるし、一枚拭く度に食器棚に戻しに行くために、この上無く非効率的。
それでも楽しいし、手伝ってくれるのが嬉しかった。

またしても耳に違和感。これは何なのだろう。
しかも今回はそれだけでは終わらなかった。

「っ……?」

眩暈に襲われる。
思わず手に持つお皿を落としてしまった。

「ほらーだから言わんこっちゃない」

遠くからりっちゃんの声が聞こえてくる。
違う。唯ちゃんじゃなくて私だよ。そう言おうとしても、言葉が発せない。
眩暈のせいでそれどころじゃなかった。

一体どうなっているのか。
これほどまでに強烈な眩暈は、今まで経験したことが無い。
平衡感覚が完全に崩れて流し台にしがみ付くも、その力すらすぐに出せなくなる。

「ムギちゃん……?」

いつの間にかすぐ隣に居た唯ちゃん。
心配を掛けまいと、咄嗟に「大丈夫」と言いそうになってしまうが、これは本当に辛い。

「ムギちゃん!しっかりして!」

そして何よりおかしかったのは、右側の耳が聞こえなくなっていることだった。
聞こえている左耳では、唯ちゃんの叫び声が突き刺さるように痛い。

「唯ストップ。ムギ、立てないか?」

りっちゃんの声がする。
何とか「無理」と返事をすると、その言葉と共に嘔吐しそうになった。
口を塞ぎ、辛うじて堪える。

「唯、長椅子までムギを運ぶぞ。澪、保健室行って先生呼んできて」

「わ、わかった!」

その指示を聞き、澪ちゃんは部室から出たようだ。
二人に支えられて眩暈に耐えながら長椅子まで辿り着く。

「ムギ、喋れるか?」

「うん、なんとか……バケツ、あったら嬉しいけど」

「ある。出したくなったら言ってくれよ」

なんていうか……部長だ。
りっちゃんが本当に頼もしく思えてきた。

「ごめんね、りっちゃん……」

「なーに言ってんだ。それより、今どんな感じだ?」

しかしまるでりっちゃんは医者のようだ。さっきの素早い行動といい、この応答といい。
とはいえ、今の状況が何かおかしいことは分かっていた。
この強過ぎる眩暈と吐き気、そして両耳に起きている異常。

「眩暈が強い……あと、耳が聞こえない……」

「耳?」

眩暈のせいで顔を見ようとは出来ないが、りっちゃんの声が一気に強張った。
そして、立ち上がる気配と共に、指示を出す。

「すぐにムギを下まで連れて行くぞ」

「え、え?」

「早く」

りっちゃんの声が、いつもと違う。
その声に押されるように、体を二人に支えてもらいながら部室を出る。
私の左肩を支えてくれている唯ちゃんの体が震えているのがよく分かった。

「変更。私達でムギを下まで連れてく。さわちゃんでも誰でも良いから車出してもらえるように頼んどいて」

歩く最中、澪ちゃんに電話を掛けるりっちゃん。
さすがにここまで来ると疑問が大きくなる。

「りっちゃん……?」

「何だ?あんまり無理して喋んなよ」

「これが何なのか、知ってるの……?」

「まだ分かんないよ」

あんまり話すのは良くない……のかな。
ぴしゃり、と短く一言で答えたりっちゃんに圧倒され、黙って階段を下りる。
なんとか一階まで降りると、山中先生が車を用意してくれていた。

「何があったの?」

「ムギの耳が聞こえなくなったんだよ。すぐに耳鼻科に連れて行って欲しい」

その声は、大人である山中先生よりよっぽど落ち着いて聞こえた。


車に乗り込み、背凭れに体を預ける。
そういえば、眩暈の方は楽になってきた気がする。或いはただの慣れだったのかもしれない。

「ちょっと、あなた達!?」

山中先生の声。
車が揺れた辺り、おそらく皆も車に乗ったのだろう。

「車の中で待つから、私達も乗せて」

「……分かったわ」

そして山中先生も運転席に着き、エンジンを掛けた。

「……!……?」

「……」

どうも今度は耳の方が辛い。
山中先生の運転が特別荒いという訳ではないのだが、車の揺れる音やエンジンの音が耳の中で反射しているように感じる。
さらに唯ちゃん達の会話さえ耳が痛くなってしまう為、こうして塞いでいる。
このおかしな症状が怖く、しかも音を遮断してしまうことでより不安が圧し掛かってきてしまっていた。

と、どうやら目的地に着いたようだ。


「突発性難聴、と呼ばれる物です」

告げられた病名は聞いたことは無いけれど、難聴ぐらいは分かる。
聴力が低下し、補聴器を使用しなければならない。
これからの人生への大き過ぎる影響が脳裏を過ぎる。

「ふとした時にいきなり片側の耳が聞こえなくなる病気です。
 現状、明確な原因は不明と言われている難聴ですが、こうしてすぐに治療を受けにきたのは正解ですね。
 難聴は一刻も早い治療が大切ですから」

同伴の山中先生が話を聞いていてくれるだろうけど、私の方は正直頭に入らなかった。
自身の身に起きる現実と不安で一杯一杯だったのだ。

ここでは設備が不十分、ということで大学病院を紹介してもらった。
重度の物らしく、入院も覚悟しておいたほうが良いらしい。
どうやらここからは大きな病院に行ってからの話になりそうだ。
ただ、一つだけ聞いておきたかった。

「……治るんでしょうか」

「発症は今日起きたばかり、それにあなたはまだ若いですから、十分に可能性はあります。
 しかし聴力が戻っても、眩暈や耳鳴りといった症状が残る患者さんも多い病気です……
 まずは、しばらく治療に専念する必要がありますね」

可能性はある、か。
正直なところ「治る」と断言してほしかった。



「ムギちゃん! どうだった!?」

車まで戻ると、唯ちゃんが身を乗り出して尋ねてくる。
その甲高い声に、思わず顔を顰めてしまった。

「ばか、唯、声を抑えて」

「ご、ごめん……」

「ううん、気にしないで。
 ……とりあえず、もっと大きな病院で診てもらうの」

「一旦学校に寄るから、あなた達三人はもう帰りなさいね」

確かに、長くなってしまいそうだから、それでいいと思った。

「大丈夫だよさわちゃん、私達待ってるから」

「ダメよ」

「だってムギちゃんが心配だよ……」

唯ちゃんがこう言うだろう事は、想像しないでもなかったんだけど。
私は大丈夫だから、と声を掛けようとすると、またしてもりっちゃんの声が飛ぶ。

「唯、もうやめとこう。
 私達素人だから、病院に任せとくしかないだろ?
 私達は居なくてもいいし、結果は後で連絡してもらえば良いんだから」

私が言うのもなんだけど、正論だ。
原因不明、早期治療が大事、と言われている以上、何も起こさずただ専門家の知識に頼るしかない。
そして何より、皆にこれ以上迷惑は掛けられない。

「りっちゃん……さっきから変だよ……! ムギちゃんが心配じゃないの?」

「……心配に決まってるだろ」

まずい。
車内の空気が一気に重くなる。

「二人共、やめなさい。これ以上ムギちゃんを刺激しないで頂戴」

今まさに口を開こうとしたその時に出された山中先生の声によって、唯ちゃんも口を噤む。
車内は無言のまま、学校に到着。
車を降りる際にりっちゃんが、「ごめんなムギ、唯とはちゃんと話すから」と声を掛けてくれた。

「ごめんなさいね、ムギちゃん。皆貴女の事を心配して、心に余裕が無いんだと思う」


大学病院へ向かう際、二人きりの車内で山中先生が優しく言う。
そんなことを言われると、りっちゃんも、先生も、二人共に謝られたのが申し訳無く思えてくる。
言葉が見つからず、ただ「気にしないでください」としか返事が出来なかった。

この状況でも他人の事ばかり考えてしまうのは、単なる現実逃避なのか。
相変わらず機能しない右耳、回る視界に止まない音の反響。
一瞬でもそちらに気を逸らしてしまうと、一気に不安に駆られ、目の奥がじわりと熱くなる。
皆の事が気掛かりでないなんてことはない。
ただ、他のことを考えていたかった。


不意に肩を叩かれ、飛び上がる。
その様子に驚いたのか、肩を叩いた張本人の先生は目を丸くしている。

「声、掛けたんだけど……耳大丈夫……?」

「大丈夫です、ちょっと考え事していて……」

「そう、着いたわよ」

見れば大きな病院だった。
周囲の風景に全くピンと来ない。どうやらそれなりに遠い所のようだ。
ここでなら、きちんと治療が受けられるのだろうか。

静かな病室。腕にチューブを繋ぎ、点滴を受けていた。
最初に尋ねた耳鼻科の先生が言っていた通り、入院治療になるようだ。
どうやら初期症状が重かったらしい。

山中先生には帰ってもらった。
一週間か二週間程の休みを貰う、ということと、軽音部皆への連絡をお願いして。
軽音部といえば……さっきの唯ちゃんとりっちゃんのやり取りが、未だ頭を離れずにいた。
それと、何故りっちゃんは、あそこまで冷静に行動が出来たんだろうか。

医師からの説明によれば症状の重さに合わせて、点滴を行う入院治療か、内服の通院治療をするかに分かれる。
およそ一週間から二週間で治癒、あるいはそれの兆しが見られるらしい。
原因に関しては、主にウィルス説や内耳循環の障害、ストレス説が上がっている。
その両方を見た治療法を続けていくようだ。


消灯時間になった。
自分でも、よくここまで冷静に話を聞けたものだ、と思っていたけど、いざ布団に潜るとどうしようもなく不安に駆られる。
消えた電気と聞こえの悪い耳。まるで世界が失われたかのように感じられた。
それは大袈裟な喩かもしれないけど、暗闇では五感の内二つが失われてしまう。
周囲の情報をここまで感じ取れないなんて思わなかった。
今までの、聾者に対する考えがどれだけ他人事だったかを、私は思い知ることになる。


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最終更新:2011年04月19日 20:13