翌日。携帯の画面とひたすら睨めっこ。
軽音部の皆にメールを送ろうと思ったのだが、その内容に悩んでいた。
入院について皆に説明してもらうように先生に頼んでいたけど、自分からも話しておきたい。
それと、りっちゃんと唯ちゃんのこともどう聞くべきか。

結局、メールは部長であるりっちゃんだけに。それに内容もまるで業務連絡のように堅苦しい。
まぁ……いいか、となあなあに送信ボタンを押す。
うひゃっ、と病室の前の廊下から奇声が上がる。
どこかで聞いたような声、と思ったら、またしてもどこかで聞いたような「病院では携帯を切れ!」という声。
りっちゃんと澪ちゃんだ。

「来てくれたのね」

廊下に声をかける。
すると照れくさそうに頬を掻くりっちゃんが顔を覗かせる。
その後ろには澪ちゃん……そして唯ちゃんも居てくれた。

「……」

黙ったままの三人。
何かと思っていると、りっちゃんがA4サイズのメモ帳を見せてきた。

『耳、大丈夫? 今、私達の声聞いても問題ない?』

確かに安静にしていないといけないのだが、さすがにそこまでの遮音は必要ない。

「問題無いわ。だけどあんまり大きくて高い音を出されると耳が痛むの」

「そっか、じゃあ気を付けろよ澪」

「それは私の台詞だよ」

「うるせー」

と、二人の後ろを見ると唯ちゃんは俯いている。
思えばさっきからこんな様子だ。

「唯ちゃん、来てくれてありがとう」

「う、ううん……別に、当然だよ」

唯ちゃんは所々吃り、表情は浮かないままだった。
一体どうしたのだろうか。
何度も口を開いては閉じ、スカートの裾を握り締めた唯ちゃんは、終いにはしゃくり上げ始めてしまった。

「ごめ、ごめんなさい、ムギちゃん……!昨日は、迷惑掛けて……!」

「私も。ゴメン、ムギ」

「唯ちゃん、りっちゃん……いいのよ」

違う。そもそも昨日の事を私は迷惑だなんて思っていない。
ミラー越しに見えた二人の本気の表情。私をただ心配していてくれた。
そのことを喜びこそすれ、疎むなどあるはずがない。

「嬉しかったの、心配してくれて。だからありがとう」

「こっちこそありがとな……それで、どうなんだ? 突発性難聴だったんだろ?」

りっちゃんの口から出た病名は、私のそれと同じだ。
話しただろうか、少なくとも私にその記憶は無い。
あるいは山中先生からか。

「なんでそれを?」

「聞いた訳じゃないよ、ただ何となくそうかなーって」

「なんとなく、って……」

……まるで誤魔化すような言い方をする。
するとりっちゃんは、いやいや、と顔の前で手を振って言った。

「私な、親戚に突発性難聴を発症した人が居てさ。
 だから昨日はあんだけ有無を言わさず、ってなっちゃったんだよ。
 昨日のムギと、聞いてた話が同じだったからそうなのかもなーって」

だからあんなにてきぱき行動していたのか。
昨日から疑問だったのだが、いざ聞いてみるとなんてことないものだった。

「そうだったの。ありがとう、りっちゃん」

りっちゃんはよせやい、と顔を赤くしてそっぽを向いた。
周囲への気配りがちゃんと出来て、それでいてお礼を言われると照れくさい、だろうか。
一度も見たことのないそんな一面が、とても可愛らしく見えた。

それからしばらく皆と話していた。が、もうそろそろ夕食の時間だ。
時計をちらちら見る私に気付いたのか、またしてもりっちゃんが一番に鞄を手に取る。

「あんまり長居するのも良くないから、そろそろ帰るな」

「ええ、今日はわざわざありがとう」

「ムギちゃん、またね」

病院での夕食は夕方6時から。
確かに入院生活は退屈で、こうして皆が来てくれるのは嬉しい。
しかし学校帰りに来るとなると、この病院が学校から離れているのもあり、あまり時間が取れないのだ。

こんな僅かな時間の為に来てくれる事が、皆の負担になっている気がしてならなかった。


それから一週間が経ち、再検査。
これで聴力が戻っている傾向にあるならば、ここから快復まで薬の量を減らしていくらしい。
受けた検査はお馴染みのヘッドフォンをつけてのものだったのだが、どうも医師の表情が良くない。
そしてそれは私も同じだった。
聞こえない右耳はそのままに、左耳までもが以前より聞こえにくくなっているような気がしていたからだ。

「……検査の結果は良くありません。
 やはり、初期症状が重かったと思われます」

「それじゃあ、私の耳は……」

「まだ諦めてはいけません。
 他の治療法もありますので、そちらへの移行を行いましょう」

確か早期治療が大切だと言っていなかったか?
その他の治療法も駄目だったら、また別の?
そんな悠長な事を言っていられるのか。こんなことじゃ、一ヶ月なんてあっと言う間に過ぎてしまう。

医師は、新しい方法を持ってくる。
思い詰めるな、とはいつも言われるが、どうやって落ち着けというのか。
長くても2週間の入院のつもりだったのに。
検査をする度に芳しくない経過を聞かされ、治らないかも、という不安に幾度も駆られ。
他の病院に何度セカンドオピニオンを求めても結果は同じで。
そもそもこの病気は、タチが悪過ぎる。
ストレスを感じてはいけないのに、ストレスを感じさせられてしまうなんて。
もっとも、ストレス云々は全病気に言えることではあるんだけれど、
この病気で失うのは聴力だ。これからの人生に与えるダメージがあまりに大き過ぎる。


一ヶ月が過ぎ、私は退院した。
無論、完治したからではなかった。

斉藤の運転する車に乗せられ、学校へと向かう。
一ヶ月ぶりの学校ではあるが、気は全く進まなかった。
何せ、今日は授業を受けに来たのでは無いのだから。

医師の話では、「現代医学では、現状固定、あるいは失聴」という結果だった。
実質「もう無理です」と言っているようなもの。医者である以上、そのような言葉は言ってほしくなかった。
その後様々な治療を試してきたが、結果は全てダメだった。
聞く話では治療の為にもっと長い時間をかけ、闘い続ける患者もいるそうだ。
それなのに僅か一ヶ月。
たったそれだけの期間で、私の中では諦めの感情が強く芽生え始めてしまっていたのだ。
我ながら、なんとも情けない話だ。

校長室へと向かう。思えば入室するのは初めてだ。
行われた話は当然、私の耳のこと。この学校に居られるかどうか。
自分の事でありながら居た堪れなくなりそうだったが、学校側の回答は、最大限のサポートをさせて頂きます、とのことだった。

「しかし、これからの難聴の進行があり、仮に聴力を失ってしまった場合。
 生徒達の協力が必要不可欠となります。
 もし理解者が少なければ……」

その時は……学校を去る、か。

まだ一年も居たことのない学校で得た、かけがえの無い友達。
失いたくなかった。
それとも、いかにも私の事を理解してくれそうな彼女達を手放す事が惜しいだけなのか。


軽音部室前。
皆にも、顔を見せなければならない。
治療に専念する為に面会拒絶になっていて、皆と会うのは久しぶりだった。
会いたい。でも皆は今の私を知ってどう思うだろうか。
扉をノックする。
中から辛うじて聞こえた覇気の無い返事を受け、震える手で扉を開けた。

「ム、ムギちゃんっ!!!」

椅子が倒れるのも御構い無しに唯ちゃんが、こちらに走ってくる。
そして、思いっきり私に抱き着いた。

「治ったんだね……良かったよぉ……!」

「……ううん。違うの」

ほえ、と唯ちゃんが私のお腹に埋めた顔を上げる。
あぁもう、こんなに鼻水垂らして。

「今日はね、皆に大切な話があるの」

部室の中にはりっちゃんと澪ちゃんも居た。
そして山中先生も居るとは好都合。
お茶会が中心になってしまっているとはいえ、名前は軽音楽部だ。
その中に耳の聞こえない私が所属してしまっていること。
それを皆はどう思うのか、聞いておかなくてはならない。

「まずは……長い間入院してて、迷惑掛けてごめんなさい。
 お菓子も持ってこれなかったわ。
 ……それでね、私の耳はこれからどうなるのか分からないの。
 今右耳が聞こえなくて、左耳は聞こえにくくて……近い内に補聴器も使う予定よ。
 お医者様は、『今のままか、左耳も聞こえなくなるか』って言ってた。
 今の医学じゃ、治療法がもう分からないんだって」

とんでもないことを言っているのに、妙に落ち着いて話せた。
唯ちゃんと澪ちゃんは、もう涙を零してしまっている。

「私は最悪の事を考えて、これから手話と読話の練習をしようと思うの。
 あ、読話っていうのは、相手の口の動きで言葉を読む事ね?
 それに耳が聞こえなくなったら、発話……喋る事の訓練も受けないといけない。
 なにより、耳が聞こえない私が、音楽なんてきっと出来ない……」

「もう、やめてくれよムギ……なんでそんな事言うんだよ……」

澪ちゃんの気持ちも分かる。
でも私は、ちゃんと病気の事を受け止めて、現実を見なくちゃいけない。
逃げてなんかいられない。

「病院で言われたんだろ!? 今のままかもしれないって……
 もし今のままだったら、そんな練習、しなくてもいいじゃないか……!」

「でも、もし耳が聞こえなくなったら、コミュニケーションの方法がほとんど無いまま、放り出されることになるわ。
 とてもじゃないけど、そんな状態じゃ生活が難しいの。
 現実を見なさい、澪ちゃん」

山中先生が澪ちゃんの言葉を遮る。

「皆の為に、軽音部に名前は置いておくね。廃部になっちゃうから。
 でも、もう部活にはほとんど参加出来ないと思う。
 だから今日はその挨拶に来たの」

周りの雰囲気は沈んでしまっていた。
私の話はこれで終わり。
最後の最後に、皆にお茶でも淹れてあげようかな。
席を立とうとすると、りっちゃんが私を呼び止めた。

「ムギ、ちょっと待った」

「なぁに?」

「読める?」

と、りっちゃんはいきなり胸の前で手を動かし始める。
その動きは、まるで手話のようだった。

「えっと……」

「……『最悪のこと考えて』ってことはわざわざ高い金払って勉強するつもりじゃないよな?」

確かにそうだけど……りっちゃんの言いたい事が分からない。

「私の親戚に居るって言っただろ? 私だってちょっと、単語をちょっとだけだけど知ってるんだよ。
 だからここに居て一緒に勉強すれば良いじゃん。
 読話だって私達と話している間に意識してればある程度身に付くと思う」

つまり……軽音部の皆に勉強を強いろ、と言いたいらしい。
そんなことをする意味が無い。
私一人が読話を身に付けさえすれば、皆との会話に問題はほぼ無くなるのだから。

もっとも私が在学中に習得が出来るかどうかも疑問だけど。

「やる……私もやるよりっちゃん……!」

「良い案だよ律……!」

何で唯ちゃんと澪ちゃんはやる気を出しているんだ。
私と居ても苦労が増えるだけなのに。

「あなた達、そんなに軽々しく決めないで頂戴」

「でもさーさわちゃん。私達はいつも英語を勉強してるだろ?
 つまり第二言語の習得なんて今更ってことだよ」

言ってることが滅茶苦茶だ。
皆は私と、障がい者と居ることを避けようとしない。
むしろ向こうから歩み寄ろうとしてくれるのは何故だろう。
普通は遠慮や気遣いがあるだろうに。

「……皆、ありがとう。
 でもいいの。私なんかの為に、皆が苦労することなんてない」

「何が『なんか』だ。いいからここに居ろって」

何なんだ。

「大丈夫だよ、何とかなる」

人の話を聞いてよ。

「ムギに居なくなられることこそ困るんだ」

……その一言に、頭に血が上る。

思わず椅子から立ち上がる。

「……本当にただの我儘じゃない……!」

対してりっちゃんも立ち上がる。

「我儘で結構」

「開き直らないで……!」

「うるせーこのやろー! 逃げようとしたら無理矢理連れてきてやるからな!」

感情の昂りに合わせ、互いのボリュームも上がる。
耳はギンギン響いて、頭もフラフラしていると言うのに。

「ムギは……どう思ってるんだよ……
 さっきから耳が悪いからやめる、って……それなら少しは残念がって言えっての……
 ここに居たくないのかよ……!」

一筋。りっちゃんの頬を涙が伝った。
弱弱しい声に一気に顔から熱が引く。
足に力が入らなくなり、そのまま椅子にぺたんと座り込む。

「ムギちゃん。正直に言えばいいのよ?
 想い合ってる者同士、互いに歩み寄っても良いじゃない?」

「……さわちゃん、反対派じゃねーの」

「失礼ね。そんなわけないじゃない。少なくともりっちゃんとは同じ気持ちよ」

「私もムギちゃんともっと一緒に居たい! 放課後ティータイムはこの四人じゃなきゃやだよ!」

「勿論私もだぞ。ムギの為に頑張りたい」

みんなみんな我儘だ。
揃って私の決意を壊そうとして、私の考えを台無しにして。

かつて他人の身勝手をこんなに嬉しく思った時があっただろうか。
涙が止まらない。
こんな私を、障がい者をここまで想ってくれる。
私一人で行くはずの道で、手を繋いでくれる人がこんなに居てくれるんだ。

「……ありがとう……」

そして今。唯ちゃんと澪ちゃんに飛びつかれ、離してもらえそうにない。
この二人はいつまで泣き続けるつもりだろう。

「ムギ、わりーな。耳大丈夫か?」

「大丈夫じゃないわ。だから責任取って一緒に手話勉強してね?」

「だから最初からそのつもりだったよ」

妙に紅潮した顔でりっちゃんは言う。
と、ふと疑問に思った事を聞いてみた。

「そういえばりっちゃん、さっき手話で私に何て言ったの?」

「ムギのおおばかやろー」

こちらが読めないのをいい事に好き放題言ってくれる。
というか、本人曰く『ちょっとだけ知ってる単語』によくそんな言葉が含まれていたものだ。
……りっちゃんらしいと言えばらしいけど。

「……そう」

「まーまー。そんなに怒るなってムギ」

怒ってない。
りっちゃんのために怒るなどあってなるものか。
そっぽを向いた私に、りっちゃんのちょっかいが収まることはなかった。


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最終更新:2011年04月18日 23:07