翌日。一か月ぶりの登校だ。
朝のホームルームで、私の耳について先生から皆へ、簡単な説明がされる。
クラスメイトの反応は様々でりっちゃん達のような子も居れば、あからさまに私を避ける子も居た。
私の事はあっと言う間に学年に広まったようで、廊下を歩けば周囲のひそひそ話が一々目につく。
気にならないと言えば嘘になるが、りっちゃん達がいつも傍に居てくれるお陰で、捻くれることは無かった。


「とりあえず家の者に資料を集めてもらったんだけど……」

放課後。軽音部室にて。
持ってきた手話関連の本を机の上に並べる。
それを見て早くも目を背ける唯ちゃん。

「こ、これは分厚い……!」

「分厚いのは当たり前だろ。手話は一つの言語なんだからな」

澪ちゃんの言う通り。
一応『初心者に優しい手話』『今日から始める手話』など、簡単そうな本から持ってきたのだけれど。
それでもやっぱり苦労することになると思う。

「ここは部長であるりっちゃん隊長に指示を仰ぎたいと思います!」

「部長だか隊長だかどっちだよ……
 まぁとりあえず指文字を完璧に覚えることからじゃないか?
 これさえ覚えたら、時間はかかっても会話が成立するわけだし。
 単語はその後にするかねー」

「な、なるほど……!」

さすがりっちゃん。
全員異議無し、ということで勉強が始まった。
……これじゃまるで、軽音部じゃなくて手話部だ。

「もう駄目だぁ~……お茶にしようよ~……」

唯ちゃんが一番早く音を上げる。
そのままぺにゃっ、と机に突っ伏してしまった。
そういえばまだお菓子を何も出していない。

「皆、そろそろ休憩にしましょ?」

「ありがとう。さすがに頭に糖分が足りなくなる所だったよ」

澪ちゃんも目頭を押さえ、本を閉じた。

ティーセットを取り出しに食器棚へ向かう。
すると、埃が積もっているのに気が付いた。
これはまず洗わなければ、そう思って先に皆のカップを取り出そうとすると、りっちゃんの腕が後ろから伸びてきた。

「わり、洗うの手伝うよ」

聞こえにくいだけであってまだ大丈夫なのだが、もし完全に聞こえなくなっていたら……
今のりっちゃんのように、まず私の視界に入るように行動してくれるのは助かる。
実際、りっちゃんが近付いてくる足音に気付けなかったし、突然声を掛けられたら恐らく驚くだろう。

「ありがとう、りっちゃん」

「敬いたまえよ?」

正直な話。りっちゃんが凄過ぎて引け目を感じます。
普段の様子と、この気遣い上手な一面のギャップがもう。

「もっとちゃんとティーセットも綺麗にしとかなきゃいけなかったな」

「埃積もってたものね……」

まずティーセットを洗うところから始まる。
皆を待たせる事になるけど、仕方ない。

「やっぱり、ティータイムはムギが居ないと駄目だったんだよなぁ。
 で、一ヶ月も使わないからこんなことに」

「そうね、食器洗いも本当に久しぶり」

戻ってきてくれて良かったなぁ、とりっちゃんは大袈裟なリアクションと共に言う。
普通なら何てこと無い会話も、昨日の私の行動から考えたら軽視出来るものじゃなかった。
不意に口から言葉が零れてしまう。

「……ごめんなさい」

「謝んなよ、ムギ。戻ってきてくれてありがとな」

私は黙って頷いて、後は食器洗いに専念した。
言葉が見つからなかったのと、お菓子を楽しみにする唯ちゃんのオーラに押されたからである。


「はい、お待たせ」

「はぁぁ~……やっぱりこれだよねぇ~……」

すっかり蕩けた顔でケーキを口にひょいひょい運ぶ。
やっぱり、皆大変な思いで勉強してるんだ。

「ムギ、どれくらい覚えられた?」

澪ちゃんから声を掛けられる。
やっぱりそういう話が出てきちゃうか。

「えっと、とりあえず15文字ぐらい……」

「ムギちゃん凄いねー、私あ行だけだよ?」

……さすが、唯ちゃん。
でも、確かにこれは覚えるのに時間が掛かりそうだ。
このままのペースで進めるのを含め、忘れないようにもしていたら。
やはりそうそう上手くはいかない。

「指文字ってさ、例えば50音のローマ字表記みたいな、行の共通性があんまり無いよな。
 だから覚えるのも一苦労だよ」

母音のような物がない、ということか。

「澪はどれくらい覚えたんだ?」

「……律から言ってくれたら答える」

「私は30……35ぐらいかな。いざ使ってみると結構頭から抜けちゃってるんだよ」

りっちゃん、やる。
普段よく何かを忘れたりするし、お世辞にも賢いとは言えない彼女が、予想以上だった。
……いけない。最近失礼な事ばかり考えるようになってる。

「りっちゃん隊長! やってみてください!」

「や、やだよ恥ずかしいし」

またも珍しい。りっちゃんから恥ずかしいなど。
率先して前に出るし、唯ちゃんと二人でよく悪ふざけをするのに。

「りっちゃん、私からもお願い」

りっちゃんはぐぬ、と息を詰まらせると半ばヤケクソのように応えてくれた。

「あ、い、う、え、お、か、き、く、け、こ……」

その動きは、曖昧な習得をした人がやるそれではなかった。
手がスムーズに動き、迷いも無い。
ま行まで終えて席に着くりっちゃんに、拍手が送られる。

「すごいよりっちゃん!」

唯ちゃんからの賛辞に、照れくさそうに答えるりっちゃん。
以前から使えた手話がどれぐらいあったのかは分からないが、本当にすごいと思った。
部長に対抗心を覚えたのか、その後唯ちゃんが思った以上の健闘を見せることになる。


そんなこんなで軽音部としての活動そっちのけで(元よりらしいことはあまりしていなかったが)、私達は勉強を続けた。
特に私の場合、一ヶ月分の授業遅れもあり、毎日のように脳を酷使する破目になった。
それでも頑張れたのは、周りに居てくれる皆のお陰。
2週間も経つ頃には全員が指文字をマスターし、単語の方まで手を伸ばしていた。

そして、私の聴力低下がより顕著に表れ始めたのもほぼ同時期だ。


斉藤に送られ、校門前に降りる。
この日に限って送ってもらった理由は、初めて補聴器を着けて外に出るからだ。
正直何か危険があるとは思えなかったが、斉藤の凄みに圧倒されてしまった。

こんな早い時間に登校したのは、先生への報告が必要だからだ。
おかげで誰も居ない廊下を、職員室に向かって歩くことになる。


「失礼します」

職員室に入り、中を見渡すと山中先生を見つけた。
書類か何かと睨めっこしている先生の元へと向かう。
しかし、妙な気分だ。
まだ補聴器に慣れた訳ではないので、その存在はどうしても意識の中にある。
まるでヘッドフォンで音楽を聴きながら職員室を歩いているように感じられた。

「あら、琴吹さん。おはよう」

「おはようございます、先生。お話があるんですけど、時間、大丈夫ですか?」

先生はちらり、と時計を見ると、手に持つ書類を机の上に裏返した。

「もうすぐ職員会議があるの。長くなりそう?」

「いいえ、すぐ済みますから」

髪を掻き上げ、補聴器を取り外す。
そしてそれを先生に見せた。

「今日から、補聴器を使うことになりました。
 もっとも、いつか要らなくなるものですが……」

「そう……あ、もう着けてもいいわよ」

まだ補聴器無しでも問題は無いのだが。
ただ人に対しては聞き返すことが多くなる。
その事を手間に感じたり、鬱陶しがったりする人はきっといるだろう。

「分かったわ。他の先生方にも知らせておくわね」

「ありがとうございます。話はそれだけですので、失礼しますね」

頭を下げ、速足で職員室を出る。
いけない。今のは少しぶっきらぼうになってしまったかもしれない。
どうも最近イライラしがちだ。
人が少ない校舎故に、歩く音が廊下に響く。
朝日が差し込み不思議な雰囲気を醸し出す校舎に、趣を感じることは決してなく。


「おはよームギちゃん」

「おはよう、唯ちゃん」

軽く手話を交え、挨拶をする。
こうやって日常会話に手話を入れていくことで、体に染み込ませようとしていた。
手話も英語と同じで、それを用いて会話する相手が居れば、上達の速度は飛躍的なものとなる。
もっともその代償として、クラスメイト達と私の距離はより一層遠ざかってしまった。
やはり手話は異質なのか、手話を用いて会話する私達の中には入っていけないようだ。
それは手話が出来るかどうか、ではなく、心の距離感の問題だと思う。

「……ムギちゃん、それって」

気付いたみたい。

「うん、補聴器よ。もうこれが必要な所まで聴力が落ちたみたいなの」

「……っ!」

と、唯ちゃんがいきなり抱き着いてきた。
一瞬驚いてしまったが、その震える肩を見て、頭を優しく撫でてあげる。

「それじゃ、ムギぢゃん……もう……」

必要無いのに、本当に私の為によく泣いてくれる子だ。

「大丈夫よ、唯ちゃん。私は大丈夫。もし駄目でも唯ちゃん達が助けてくれてるもの。
 だから私は、ちゃんと頑張れるの」

ほんとに、と私に涙目で上目遣い。
思わず抱きしめ返してあげたくなったが、堪える。
誤魔化すように頬をむにっ、と摘んで軽く引っ張ってあげた。

「もう、そんなに泣かないで」

貴女に悲しんでほしくない。自らの顔に笑顔を貼り付ける。
私の体から離れ、目をぐしぐし擦る。

「な、泣いてないもん」

「……ありがとう、唯ちゃん」

何もしてない、とそっぽを向かれてしまう。
やっぱり唯ちゃんとりっちゃんはどことなく似ていた。



「桜ヶ丘高校の教師として、皆に大切な話があるの」

その日の放課後。山中先生が、ひどく真面目な顔をして言った。
さすがに皆も茶化したりはしない。

「琴吹さんの耳について、ね。
 もう、お医者様も言ってらしたの?」

「はい。いつかは聞こえなくなります」

あっさり。
何故、ここまで簡単に言えるのか。自分のことなのに分からない。
逃げているのか、諦めているのか、受け止めているのか。
現実を聞いて反応する皆は、私よりもショックを受けているようにも見える。
そんな皆を置いて、先生は話を続けた。

「もし琴吹さんの聴力が失われれば……普通校に通うのは厳しいわ。
 聾学校に行くことも場合によってはあるの。
 でも、学校長の理解もあるし、何より琴吹さん自身がこの学校に居ることを望んでいるの。
 あなた達と、別れたくないって」

そんなことを言っただろうか。
本心だけど、それを言った憶えは無い。
すると目が合った。先生は小さく微笑む。
その顔には私への気遣い、分かり切った感情を代弁してくれる先生の優しさがあった。

「その時に何より必要なのがクラスメイト達の理解と助け。
 助けというのは、具体的には学業面でのものね」

そう、耳が聞こえないということは、学生の本分である授業を受けることがまともに出来ない。
先生だって一言一句黒板に書く訳じゃないし、黒板の方を向くことで読話も出来ない。
そこで必要なのが……

「要約筆記奉仕員と呼ばれる人達よ。
 先生の言った事を分かり易く、それを例えば授業ノートやパソコンにまとめて、それを失聴者にリアルタイムで見せる。
 ノートテイカ―とも呼ばれるわね」

「そ、それなら私がやりますっ」

澪ちゃんが身を乗り出す。

「秋山さん。
 これは『友達に授業のノートを見せる』というのとは訳が違うわよ。
 ノートに丸写しするだけの速記とは違って、他人に分かり易くノートに取らないといけない。
 本来なら資格が必要な、れっきとした仕事なの。
 あなたを介しての『通訳』がもし機能しなかったら、どうするの? 
 大袈裟に言えば、琴吹さんの人生を預かっているようなものなのよ?」

少し言い方が過ぎるのではないか。
押し付けられるプレッシャーに、すっかり澪ちゃんの表情は沈んでしまった。

「私がやるよ」

今度はりっちゃんが名乗りを挙げた。

「……あまり言いたくはないけど、田井中さん。
 あなたはあまり授業の成績が良くないわよね。
 とてもじゃないけど、そこまでの余裕は無いはずよ」

思わず席から立ち上がる。
何故今そんなことを言うのか。
さっきの澪ちゃんの時といい、人の心を抉って……

「先生……そんな言い方、酷いです……
 澪ちゃんもりっちゃんも、私を助けてくれようとしてるじゃないですか……」

「いーんだよムギ」

けろりと言うりっちゃんに、思わず大声で「よくない」と叫んでしまいそうになる。
が、りっちゃんの顔には今の部室の空気に全く似合わない表情があった。
その表情に此方の力が抜けてしまう。

「さわちゃん。だったらそれまでに成績上げれば良いんだろ?
 それに分かり易くノートをまとめる仕事なんだから、やればむしろ賢くなれると思うんだよね。
 第一そんな脅し入れなくても、ちゃんと覚悟はしてる。責任も私が負うよ」

りっちゃんの反論を聞いた先生はあっと言う間に表情を解き、どかっと背凭れに体を預けた。

「やっぱりあなたには見透かされるわよねー……
 酷いこと言ってごめんなさいね。澪ちゃんも」

……先生は試していたのか。

いけない、思わず涙が出そうになる。

「先生、ごめんなさい……」

「いいのよ。ここの教師である以上は……表向きだけでも言わなくちゃいけないことだもの」

今までの先生への認識を少し改めよう。
ありがとうございました、先生。
となると後は……

「律……大丈夫か?」

「何とかなるだろな。その時までの勉強は、お駄賃としてムギに教えてもらうか」

もちろん、と即答。
私の補助を請け負わせた。私はそれに対して報酬を払わなければならない。
「そんなの要らないよ」と返されることを想像していた私にとっては、りっちゃんのように遠慮無しに、それでいて気を遣った提案は嬉しいものだった。

「さわちゃんサンキュー。汚れ役ご苦労さんっ」

「慣れないことやったから喉がカラカラよー……ムギちゃん紅茶をー……」

いけない、最初はとてもそんな雰囲気じゃなかったから出していなかった。
その後の軽音部は明るく、これから問題なんてまるで何もないような、そんな雰囲気だった。


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最終更新:2011年04月18日 23:08