「ムギ、何をお願いしたんだ?」

「ライブが成功して、新入部員が一杯入ってくれますように、って」

りっちゃんは頑張ろ、と短く答え、澪ちゃんの元へ。

時は流れお正月。練習の息抜きに、皆で初詣。
外に出る機会自体あまり無く、こうして友達と来る事がまた新鮮味があって良い。
お賽銭も少々奮発し、強く、軽音部の事をお願いした。

それと同様の事を絵馬に書く。
おみくじの結果も良かったし、これだけお願いすれば少しは効力があるだろう。
と、何か難しい顔をして絵馬を見る唯ちゃんが見えた。

「唯ちゃん、何書いたの?」

唯ちゃんははっとしたように絵馬を体の後ろに隠す。
あまり良くないことをした、と思い頭を下げる。

「ごめんね、唯ちゃん。あんまり願い事は他人に見せる物じゃないものね」

唯ちゃんは困った顔で居る。
後ろを向こうとすると、肩を掴んで止められる。

「謝るのはこっちだよ、ムギちゃん。
 ……気分を悪くしたら、ごめんね」

差し出された絵馬には、『ムギちゃんの耳が治りますように』と書かれていた。

「ムギちゃん……ごめんなさい……」

どう声を掛ければいいのか分からない。

震える唇で、何とか言葉を吐き出す。

「私は……もう耳が聞こえなくなることを覚悟しているし、その時の為に色々やっているの。
 だから、その……そういう事を書かれるのは、ちょっと辛い……から」

その言葉を聞き、唯ちゃんは強く絵馬を握りしめる。

「で、でも!
 でも……嬉しい。唯ちゃんが私の事、考えていてくれて嬉しい……
 だから、本当にありがとう。唯ちゃん」

何と言えば良いのか分からず、ただ本心を吐き出しただけ。
唯ちゃんは唇をきゅっと結んだまま、流れる涙にも構わずただその場に立っていた。
彼女は、私の言葉をどう受け止めたのか。

「どうした?」

澪ちゃんとりっちゃんが間に入る。
すると唯ちゃんははっとしたように涙を拭い、二人に説明を始めた。
手話を使わず、口の動きを隠すように顔の前で手を振る唯ちゃんが、二人に何と言ったのだろう。
モヤモヤ感は晴れず、はしたなくも屋台の物を食べ歩きいて気を紛らわせた。


「それじゃ、また新学期にね」

三学期までの約一週間を、私は学業に回すことにしていた。
私の学力が落ちてしまうと、私は桜ヶ丘に居られなくなり、りっちゃんは責任を問われる。
ノートテイクを引き受けてくれた彼女の為に、頑張らなくては。

「……またね、ムギちゃん」

車に乗り込み、唯ちゃんと手話を交わす。
結局最後まで気まずい雰囲気は無くならず、唯ちゃんが最後に見せた表情についても問う事が出来なかった。


――――

違和感はすぐだった。
朝、ベッドから起き上がると、異様に静かな部屋。
布団を跳ね除けるも、衣擦れの音すらしない。
慌てて補聴器のボリュームを上げる。上げる。が、それでも変わらない。

涙が流れているのか、視界がどんどん歪んでいく。
歯を喰いしばり、体の震えを止めようとも意味は無かった。
覚悟していたはずなのに、これから頑張って生きていこうと思っていたのに。
そもそも重要な器官を一つ失うなんてこと、想像でしか語れない。私なんて口だけの人間だったんだ。
不安にあっさり押し潰された私は、ただ泣き叫ぶことしか出来なかった。
自分の声さえ分からない状態。悲痛な声は誰かに届いているのだろうか。まるで一人で水底に沈んでいるような感覚だった。


声を聞いて部屋に入ってきた者達を全員拒絶し、ベッドに倒れ込む。
叫ぶだけ叫んだせいで喉は痛む。何度も掻き毟った頭はひりひりする。顔に付着した血は破れた頭皮か、或いは剥がれた爪か。
それでもなお残った爪を顔に突き立て、この悪夢を覚まそうとする。
結局、涙と血液と吐瀉物で汚れたベッドから強制的に引き摺り出されるまで、私の自傷は止まらなかった。


『お目覚めですか』

「……迷惑を掛けたわ」

気を失ったのか、気が付けば別室の綺麗なベッドに移動していた。

周りからすれば迷惑な話だが、一通り発散したことで多少冷静に考えることが出来た。
以前のような音の内容が理解出来ない、というものではなく、音を完全に拾えなくなっている。
補聴器の最大ボリュームでも効果が無かった。
ついでと言ってはなんだが、先程の一悶着のおかげか体中包帯が巻かれている。
爪が剥がれた指がこの上なく痛い。さすがに丸々一枚剥がれたとなると違う。


『何があったのですか?』

至極尤もな問いだ。
他の人ならばいかれでもしたかと思うところだろうけど、私の場合なら大体の事情は向こうも察していてくれるだろう。

「耳が聞こえなくなったの……」

机の上に置かれている薬が目に入る。
恐らくは精神安定の類だろう。突発性難聴を発症してすぐの頃を思い出す。
それを飲み、布団を被る。

「もう少し一人にさせてくれる? 大丈夫よ、もう暴れたりはしないから」

失礼します、と手伝いの者は部屋を出て行った。
以外にあっさりと出てくれたものだ。
一人になりたいのは確かだったし、物分りが良いのは助かる。

当然そんな簡単に眠れるはずはない。
目を閉じれば浮かんでくるのは、これまでに聞いてきたいろんな人の声。
全部が全部、私に残るその人の最後の声だった。
だけど、嫌になってすぐに思い出す事をやめた。
「もう少し話をしておけば良かった」という後悔が、思い出に一つ残らずくっ付いてくるから。

思考を止めるために睡眠をとり続けた冬休み。
着信を告げる携帯電話のランプにも気付くことがないまま、新学期の開始は、私の逃避を待たずにやってくる。


新学期。
斉藤の運転する車に揺られ学校へ向かう。
今日は朝から少々耳鳴りがする。
聞こえなくなったらなったで、このくぐもった感じも一緒に消えてしまえば良かったのに。
と、いきなり信号でもないのに車が止まる。

「斉藤、どうしたの?」

『あちらは、お嬢様のご学友では?』

ちなみに私の隣に居るのはもう一人のお付の者。手話の心得があるとかで、私の通訳を買って出ている。

「……行くわ」

本当ならば、まだ皆と顔を合わせる心構えが出来ていなかった。
けど、斉藤の気遣いだ。仕方ない。
そもそも目立つ車故に皆の視線はこちらに集中している。時既に遅し。
皆の所へ向かおうとすると、二人はわざわざ車を降りて私に頭を下げていた。
……大切な「紬お嬢様」をよく任せる気になったものだ。


「おはよう、ムギ」

「皆、おはよう」

「今日はお手伝いさんも車に乗ってたんだな」

……だから何故そういう細かいことに気付くのか。
そうね、とあくまで些細なことのように短く答えると、会話はスムーズに別の方向へ流れた。


こうして皆と歩いていると、思うことがある。

私は、どうやって演奏すればいいのだろう。
聴力を完全に失ってしまった今、何が楽しくて軽音をやるのだろう。
私が居ることで、新入生が入部を躊躇ったりしないだろうか。

今まで軽音部の皆と頑張ってきたのは、これからも軽音部に居続けられるからだ。
皆が「良い」と言ってくれて、私もそれが嬉しかったからだ。

「ムギ、なんでメール返してくれなかったんだ?」

気付けばりっちゃんが私の顔を覗き込んでいた。
皆にもう話してもいいのか考えるが、結局その勇気は出なかった。
それに恐らく気付かれることはないだろう。
用事が、とその時は誤魔化した。

始業式はこの上なく退屈だ。
校長先生の有難いお話は当然聞こえず、無音の時間を過ごすことになる。
普通なら誰かに通訳を頼まなくてはならないのだろうが、全く興味が湧かない内容をわざわざ訳してもらう訳にもいかなかった。
隣に座るりっちゃんの手が『何か話そうか?』と動くがお断りしておいた。
失聴者のサポートを考慮して、事ある毎にりっちゃんか澪ちゃんと隣同士の席になる。
この耳を使って得をするのは出来るだけ遠慮したいし、周りの生徒もあまり良い思いはしないだろう。
授業も席をくっ付けて受けているのだから。


部活では演奏練習に励む。
元より皆はスランプがあっただけなので、すぐに演奏できるようになったけど、問題は私だ。
もう何回も繰り返すしかない。

「ムギ、そこちょっとズレが大きくなってるな」

本日一緒に練習することになった澪ちゃんから指摘を受ける。
主に精神面の問題が理由なんだけど。


正直に言って、演奏している実感が湧かない。
何か分からない内に終わり、自分では全く分からない所を指摘され。
きっと皆で合わせてみてもこうなるんだろう。

「山中先生だ」

と澪ちゃんが言う。
扉の方を見ると山中先生が腕をぶらぶらさせて入ってきた。

『練習頑張ってるね、そろそろ休憩したら?』

先生は手話は使えない。
私もまだ読話を習得していないため、こうして誰かに通訳してもらう。
さすがに私も疲れた為、休憩することにした。

休憩中。
山中先生が小さな紙に何かを書いて渡してきた。

『ご家族の方から聞いたんだけど、
 皆に、完全に耳が聞こえなくなったことを話した?』

文字を素早く読んで、隣から見られないように紙を握り潰した。
そして黙って首を横に振る。

「どうしたんだよさわちゃん」

山中先生は手を振る。何でもない、だろうか。
何を白々しいことを。皆に聞かれないようにわざわざ紙に書いた時点で怪しまれるに決まっているじゃないか。

「私の両耳ね、完全に聞こえなくなったの。
 お医者様ももう無理だって言ってた」

私が言い出さない限り、山中先生が話すことはしないだろう。
あのまま放っておいたら喧嘩が始まりそうだった。
淡々と告げる私。と、視界に唯ちゃんの姿が入る。ただ無表情だった。

「でも私達がやることは変わらないだろ?
 学校、やめちゃわないよな?」

心配がるのも無理はない。
ほとんど聞こえていなかったものを改めて言い直しているのだから。
失聴を伝える事が、そもそもの意味を持っていない。

「それは無いわ。
 ただ、もう後ろから呼ばれても何の反応も出来ないことは、分かっておいて欲しいの」

「りょーかい。こっちも気を付けるよ」

りっちゃんは相変わらずの調子だ。
これ以上このことについて話すのはあまり良い気がしない。
少々強引かとも思ったが、別の話題にすり替える。
皆も私の気持ちを汲んでくれたのか、特に何も言わずにいてくれた。

「ムギ、そろそろ切り上げようか」

時計を見ると、もう完全下校時刻が近い。

「ありがとう、澪ちゃん。練習見てくれて」

澪ちゃんはどういたしまして、とにこやかに答える。
最初の頃は顔を赤くして照れていたのに。
皆には感謝してもし切れない。多少の耐性は付いてもらわないと大変だろうから、これで良いのだけれど。

食器を片付け下校の準備をしていると、後ろから肩を叩かれる。
振り向いた先には、唯ちゃんが俯いたままで立っていた。

『この後、ちょっと部室に残ってもらっていいかな』

震える手がそう言っている。
何か変だ、そう思った私はその申し出を受けることにした。


りっちゃんと澪ちゃんはもう鞄を担ぎ帰宅態勢に入っている。

「ムギ、帰んないのか?」

「りっちゃん。私、ちょっとムギちゃんと話したい事があるから先に帰っていいよ」

「……分かった。もうすぐ完全下校だから気を付けろよ」

さて、唯ちゃんの話だけど……何だろう。

「まず、謝らせて……。 ごめんなさい」

と、唯ちゃんは二人きりになるなり深く頭を下げた。
突拍子もない展開に焦る。

「やっぱり、私のせいかな……
 初詣の時、あんなことお願いしたから……」

「唯ちゃん。それは違うの。誰のせいでもないわ」

つい言い聞かせるような口調になってしまう。
それにしても、唯ちゃんは以前から少々卑屈に考え過ぎだ。
思えば、彼女の笑顔を最近見ていない気がする。

「聴力はずっと落ち続けていたんだし、そろそろかなって私も思っていたの。
 本当に、唯ちゃんは何も悪いことはしていないのよ?」

「ムギちゃん言った……その願い事はイヤだって……」

確かに、言ったけども。

「私は手話を覚えるのも遅かったし、クラスが違うから授業の手伝いも出来ない。
 ムギちゃんの役に立ったことが、あったかなって……
 迷惑な事が多かったんじゃない……?」

そんなことがあるものか。
唯ちゃんが居てくれて嬉しかった事の方がよっぽど多いのに。
例えば今こうして会話出来ていること自体が、彼女の努力のおかげだ。
その努力がどれだけ大変なものだったのかなんて考えなくても分かる。

「私は、唯ちゃんと友達で良かったと思っているの。
 迷惑なことなんて何もなかったわ」

だから、これ以上自身の責を作らないで欲しい。

「でも……でも、私は何も出来なくて……」

どうやらまだ言うつもりらしい。
謝罪も賠償も懺悔も要らない。そんな行為に何の嬉しさも感じない。

「私は唯ちゃんのことが大好きよ?
 だから、これ以上大切な唯ちゃんの悪口を言わないで」

びくり、と唯ちゃんの肩が震える。

「質問に答えるとね? 私は唯ちゃんに感謝しているし、何も出来ない奴だとか、迷惑だとかは一度も感じたことがないの。
 そうやって卑下することこそ私に対して失礼だ、って分かって」

「……!」

拳を強く握り、俯いてしまった。
鼻をすする唯ちゃんに気付き、慌てて言葉を繋げる。

「ち、違うの。責めてる訳じゃないのよ?
 ただ、お願いだからそんなに自分を苦しめないで欲しいの……!
 私はこれからも唯ちゃんと友達で居たいから」

『ありがとう』

一言。唯ちゃんの手が言葉を紡ぐ。
ふとりっちゃんがしてくれた事を思い出す。
確か、優しく手を包みこんでくれていた。
強張ってぶるぶる震える唯ちゃんの拳に、そっと手を添える。

「ありがとう、唯ちゃん……」

そのまま強く抱き着いてくる唯ちゃん。鳴り響く完全下校のチャイム。
急ぐ事を諦めた私は、唯ちゃんの頭を優しく撫でつつ、澪ちゃんといい唯ちゃんといい女の子を泣かせてばっかりだなぁ、とそんなことを考えていた。

「唯ちゃん、もう落ち着いた?」

唯ちゃんは照れくさそうに、礼の言葉を述べる。
目は真っ赤で少し腫れているみたいだけど、多分今日中に治まるだろう。
りっちゃんと澪ちゃんに気付かれることは恐らく無い。

「来年は、同じクラスになれるように先生達にお願いしてみるよ」

「そうね……事情が事情だし、もしかしたら聞いてくれるかもしれないわ」

ノートテイクは集中力が要るものだから、一般的には二人一組で障がい者の補助に回る。
今はりっちゃんと澪ちゃんが二人で見ていてくれるけど、それでも二人は休み無しで助けていてくれる。
そういえば一度、澪ちゃんが高熱を出しながらも「ムギの為に」と登校してきた時は大騒ぎだったっけ。
授業中に倒れて、あの時は本当に申し訳ない気持ちになった。
人数が増えることで、各負担は減るだろう。

「よし、早速行ってきます!」

「唯ちゃん、もう完全下校過ぎてるわ」

ダッシュの体勢のまま、ぴたりと停止する唯ちゃん。
気持ちは分かるけど、それはさすがに先生に怒られてしまう。
出来るだけ教師陣は味方につけておきたいので、明日にした方が賢明だ。

「帰りましょう?」

「うん!」

笑顔。


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最終更新:2011年04月18日 23:12