唯ちゃんの笑顔がもう一度見たかった。
それは間違いない。
あの一件からどこか心に引っかかっていたものが解けたんだ。
だから唯ちゃんの笑顔は嬉しい。

そういえば……人間は一つの器官を失うと、他の器官がその部分を補う為に進化するように作られているらしい。
例えば目の見えない人は周囲の情報を出来るだけ強く感じ取る為に、耳、鼻、指先の感覚がより敏感になるとか。
指先での点字の読み取りは、晴眼者には難しいと聞いたこともあったような。

それと似たような物かどうかは分からないが、とにかく、今の唯ちゃんの笑顔に心臓が高鳴るのを感じた。
ようやく見られた事の嬉しさを、目からの情報を大切にする私の脳がより強くしたのか。

「ムギちゃん?」

何を難しいことを考えているんだろう。
単に嬉しかった。それでいいじゃないか。

「なんでもないの。行きましょう?」

ニマニマしながら私の腕にしがみ付く唯ちゃんを引っ張り、部室を出た。
でも、悪い気はしない。むしろ嬉しい。
もっと唯ちゃんを抱き寄せて、階段を降りる。

「ムギちゃん、だ・い・た・ん」

「良いじゃない。唯ちゃんと居られて嬉しいんだもの」

何かすごい事を言ったような気もする。
どうも今日はやけに高揚しているようだ。
見回りの先生に見つかって怒られるまで、私達はぴったりくっ付いて歩いていた。



『いよいよ明日新歓ライブだね! ムギちゃん今どんな気持ち?』

授業中。
ノートテイク用の用紙に唯ちゃんのペンが走る。
こういうことはバレたら厳重注意なんだけどな。

いよいよ新歓ライブが明日に迫った。
調子はどうか、と聞かれれば不安じゃないはずがない。
何せ、成功しているかどうかなんて毎回分かっていないんだから。
もし何かのミスがあれば、入部希望の子はどう思うだろう。
仮に入部してくれても、私との付き合いはどうなるだろう。

唯ちゃんは私の返事を待っている。
りっちゃんはノートテイクに取り組んでいるようで、私の様子が気になっているようだ。
文章がおかし過ぎるのが見ていて分かる。

『怖』

その一文字だけ書き、塗りつぶす。
何かを書こうとする唯ちゃんを押し留め、『真面目に授業』と書いた。


私達は二年生になった。
唯ちゃんの話が通ったのか、晴れて同じクラスに。
その代わり澪ちゃんが離れて、また二人態勢だ。
りっちゃんはあれから成績が飛躍的に上がって、先生方も文句を言えないような状況になった。
勉強は大変だろうに、山中先生に因れば今までの独学から、ノートテイクの講習も受けるようにしているらしい。
ただ、それに関しては本人は内緒希望だったようで、私はその事に触れずにいる。

「どうだったかしら?」

「オッケーだよムギ。完璧」

ほっとする。
私たちは明日に迫った新歓ライブに向けて、最終調整を行っていた。
今度は全員で軽音に打ち込んだおかげで、すっかり以前の調子に。
これなら新入部員も十分に見込める……とりっちゃんが言っていた。

「楽しみだね。ワクワクしてるよ」

「あんまり浮かれるなよ。唯はボーカルをするんだから歌詞を忘れたりするかも……」

「失礼だなー澪ちゃん。最近の私の覚えるの早さを見たでしょ?」

「忘れる早さも見たよ」

んがっ。
唯ちゃんが言葉に詰まる。
対して澪ちゃんは何だかリラックスしてそうだ。
ライブが二回目、というのと、前回のボーカルはやっぱり緊張していたんだろうか。
楽しそうに見えたんだけど。
もっとも、私もそんなことを言う余裕はあまり無い。

「……大丈夫かしら」

「ムギちゃんまで!?」

「ち、違うの。
 私、ちゃんと出来るかなって……」

「出来ます!」

唯ちゃんの即答。言ってくれるなぁ。

「ムギちゃんはずっと頑張った!
 絶対成功するよ!」

「私達もサポートするから、楽にな」

「難しいことは考えずに行こーぜ、ムギ」

三人からの言葉が心に沁みる。
皆はこういうど、私は皆の為に頑張りたい。
確かに新入部員勧誘の機会だけど、それよりも私はライブ成功にこそ価値があると思っている。
本当に大切な親友達に、恩返しをするんだ。
皆が認めてもらえたらそれでいい。

「ありがとう。皆。
 ライブを 皆で楽しもうね?」

去年の桜高祭ライブの達成感を、また。

「準備は良いか?」

舞台袖にて。
強張った表情のりっちゃんが問い掛けてくる。

「ええ。頑張りましょう、りっちゃん」

なるべく心配させないように、なるべく柔らかく話そうとする。
発声が怖いのはもうずっと変わらない。
上手く発音出来ているかも分からない状況が不気味だ。
それでも自身の頭の中にある音声と口の動きを引っ張り出して話す。

先生方の表情も硬い。
やっぱり私の耳で、成功するのか不安なんだろうか。
耳が聞こえない楽器奏者、か。まるでお話の世界みたいだ。
それでも、私はそれを実現させる自信がある。
皆がいるだけで、頑張れる。

「行くぞ!」

4人で手を繋ぎ、結束を確固たるものにする。
そんな怖い顔をしなくても、すぐに笑顔に変わるから。
精一杯の笑みを先に貼り付け、少しでも前向きな雰囲気へ持っていく。

「おーっ!」


ドラムから演奏に入る。
りっちゃんの動きに合わせるのは、もう何回もやった。
大丈夫、練習通りにやれば全部上手くいく。

一先ず入り出しは成功したらしい。
こちらを見ていた皆の安堵の表情で分かる。
後はミスをしないこと。最悪ミスをしてもしっかり軌道に乗り直すこと。


皆の緊張は解けたようだ。
唯ちゃんも、澪ちゃんも、りっちゃんも楽しそう。
その様子を表すのには『踊っている』という表現が分かり易い。
ボーカルの二人は時々足が跳ねるのが見えるし、りっちゃんなんて特にノリノリだ。

だから、これで良かったんだ。彼女達が楽しめているから。
あとは私は、頭に入ったパターンをただ機械的に実行するだけ。

記憶した通りに指を動かす作業。
皆と目が合った時に、いかにも充実してそうに笑みを返す作業。
全体的に少し走り気味のリズムに対応する作業。

私の鋭くなった感覚が周囲を捉える。
客席の新一年生達も、演奏に乗ってきているのが感じられた。
やっぱり皆の演奏や声は、大衆を飲み込むだけの十分な力がある。
講堂内の人間が一つの塊になり、私はそれを遠くから眺めている。


演奏が終わり、皆は全身から『楽しかった、満足だ』という雰囲気を出していた。
後ろ姿すらまともに見ていられない。
私はもう、彼女達とこんなに離れてしまったんだ。

さすがに時間は厳しく管理されているらしく、早々に私達は袖へ下がる。
客席からの大きな拍手を全身に感じながら。

先生方からも拍手。
『皆の想いがこっちまで伝わってきた』『素晴らしい演奏だった』澪ちゃんから通訳される言葉は、どれも私を皮肉ったものとしか思えなくなっている。
溢れる涙を堪えようとしてもどうにもならず、その場にへたり込みそうだ。

すると、りっちゃんが私の腕を掴み、そのまま講堂を出る。
後ろから唯ちゃんと澪ちゃんがついて来ているのが分かった。

「大丈夫か?」

「ごめんなさい……」

「大丈夫だよ! ムギちゃんの演奏は完璧だったから!」

涙の原因はその満足感を押し出した顔だ。
八つ当たりしそうになるが、強く拳を握り何とか押し留めた。

その後、皆で手分けして機材を部室へ運ぶ。
これがまた大変な事で、ますます私の部活動への疑問を大きくさせる。
アンプを抱えて歩く私に、りっちゃんが一枚の紙を差し出す。
そこには『放課後、話したいことがある』と乱暴な文字で書かれていた。
いつもは、もっと読みやすい丁寧な字で書いていてくれるのに。

多分、バレたんだろうなぁ。きっとりっちゃんは怒っているんだ。



放課後、部室の扉に手を掛ける。
と、視界の端に一人の女子生徒が入った。

その生徒は、艶やかな黒髪を二つに結び、整った顔立ちは緊張の色に染まっていた。
伏し目がちで視線が床のあっちこっちを行き来する彼女に、正直あまり自信は無いものの声を掛けてみることにした。

「もしかして、軽音部の入部希望かしら?」

「……!」

肯定の返事と頷き。扉を開けて入室を促す。
中を覗くと誰も居ない。これは正直参った。
せめて誰か一人くらい居てくれても良かったのに。

「……!……。」

と考えている間にもその入部希望の子はぺこぺこ頭を下げたりして、口が忙しく動いている。
じぃっ、と口の動きを見つめてみるも……全く読めない。
ゆっくり喋ってもらって、且つ短い単語程度ならまだ読めるかもしれないが、このままでは会話など到底不可能だろう。
とりあえず彼女を止めることした……のだが向こうから止まってくれた。
そして、今度はぶつ切りに話し始める。
少し力の入った喉の動きに、「今度は私の補聴器に気付いて難聴者だと思っているのだろう」と推測した。

「ちょっと待って!
 えっと……言いにくいんだけど、私、実は耳が全く聞こえないの。
 この補聴器は飾り、これがあると人に分かってもらえ易いからしてるだけ。だからこういう目立つ色にしてるの。
 ……それでね、すごく手間を掛けちゃうんだけど携帯のメモ帳か、紙に書いてもらうか、して欲しいの。
 紙とペンは備え付けの物があるけど……」

メモ帳とペンを差し出すと、それをゆっくりと受け取ってくれた。

「じゃあまずは……初めまして。
 放課後ティータイムのキーボード担当、二年の琴吹紬です」

『一年の中野梓です』

まぁこういう内容になることは分かっていた。やっぱり文章だと今一つ気持ちが分からないのが不便だ。
メモ帳に書かれた、可愛さの抜けきっていない綺麗な文字を見て思う。

「可愛い字ね。梓ちゃん、って呼んでも良い?」

『はい』

「そんなに緊張しないで? 紅茶も遠慮せずに飲んでね」

ぺこり、とこれまた可愛く頭を下げ、紅茶に口を付ける。
そこで会話が途切れる。
意地の悪い言い方だとは思うが、言ってみた。

「どうしても会話のテンポが悪くなってしまうけど……ごめんなさい」

梓ちゃんは構いません、気にしないでください、と書くがどうもやりにくそうに見える。
紅茶を飲んでいる時も、メモ帳にペンを走らせる時も、彼女の目線は頻繁に扉の方へ向いていた。
誰かが来るのを待っている。それは他の部員でも、他の入部希望の生徒でも構わないのだろう。

やっぱり、私との会話はやりにくいんだ。


半年でも付き合った友達ならともかく、高校入学してすぐに初対面の先輩と二人きりなら当然か。

「私達のライブ、どうだったかしら?」

『すごく良かったです。あれを見て入部を決めました』

軽音部の人以外との会話。私はそれが嬉しくて夢中で話をした。
澪ちゃんが部室に入ってくるまで、私は彼女の表情が晴れずにいたことに気付かなかった。


「ひょっとして入部希望?」

『はい。 一年の中野梓です。 よろしくお願いします』

そんなに嬉しそうな顔をしなくてもいいじゃないか。
もちろん本人に悪気が無いのは分かっているけれど……辛いものがある。

『他の方は? 日が悪かったですか?』

「……えっと、後二人いるけど、掃除かな? もうすぐ来ると思うよ」

澪ちゃんが梓ちゃんとの会話を全部訳してくれている。
ひどくやりにくそうだったので、それを遠慮しておいた。
何か言いたそうな顔をしていたが、私が見ようとしない限り手話は意味が無いからか、そのまま手話無しの会話を始めた。
手話を使わないで会話する澪ちゃんなんて、久しぶり。
二人は話が弾んでいるようで、澪ちゃんも心なしか饒舌。初対面の相手なのに珍しい。

唯ちゃんとりっちゃんも部室に到着し、梓ちゃんと話している。
私はそんな四人を背に、全員分のお茶を用意していた。

……耳の聞こえる人と聞こえない人で、話し易さは変わるもの。
当たり前の事を、今になって気にしてしまう。
今までは皆がいつも隣に居てくれて、通訳をしていてくれた。
そんな彼女達は私の後ろで、私を置いて楽しくお喋りをしている。
新歓ライブの時と同じ、距離感があった。

最低だということは自覚している。
でも、少しくらい寂しいと思ってもいいじゃないか。

軽く息を吐き、後ろを振り返る。
りっちゃんが拳を振り上げ、机に叩き下ろしていた。
その表情から強い怒りが読み取れる。

「りっちゃん、落ち着いて。どうしたの?」

「何でもない。ムギは黙ってろ」

「何でもない訳ないじゃない……」

本当に何がなんだか分からない。
さっきまで楽しく話して、新入部員を歓迎していたんじゃなかったのか。
それが今では、その新入部員に殴り掛からんばかりだ。

梓ちゃんが鞄を掴み、立ち上がる。
そしてそのまま扉に向かって歩き出した。

「梓ちゃん! 待って!」

呼び掛けにも応じず、深く一礼をして梓ちゃんは出て行ってしまった。

「唯ちゃん、澪ちゃん……何があったの?」

二人も私から目を逸らす。何かあったんだ。それは間違いない。
皆が話してくれないのなら仕方がない。
メモ帳とペンを掴み、梓ちゃんを追いかける為に部室を飛び出した。

何度も人と衝突しそうになりながらも、廊下を駆ける。
周りの状況が分からないまま走るのは非常に怖いが、そうも言ってられなかった。
と、ギターケースを持った後ろ姿を見つけ、声を掛ける。

「梓ちゃんっ!」

声を掛けたのは遠くからだったが、特に逃げられるようなこともなく追いつけた。
メモ帳を差し出す。

「あの……何があったの?」

『部室に居る先輩方に聞けばいいじゃないですか』

聞けるならとっくに聞いてる。
だからわざわざ全力疾走してきたんじゃないか。

「私……梓ちゃんが話してくれないと納得出来ない」

進路を塞ぐようにする私を見て、梓ちゃんは溜め息混じりにペンを走らせる。

『失礼なこと書きますから』

「構わないわ」

『普通、そういう学校に通うものじゃないんですか → アイツがこの学校に居るのがおかしいって言いたいのか
 こういう流れです』

「……それだけ?」

こくり、と頷く。
これが失礼なこと、なのか。
通常あまりない方法を取っているのは自覚しているし、別段ショックも受けない。
でも、これなら十分じゃないか。
まだやり直せる。そういう所を怒ってくれたりっちゃんには申し訳ないが、私は何の問題も感じていなかった。

「部室に戻りましょう? あなたは何も悪くないわ」

『無理ですよ。あの先輩すごく怒っていましたから』

「私が何とかするから」

この子は入部を希望して、部室に来てくれたんだ。
それが無くなるなんてあってはいけない。部室から退く必要が無い。

「私は、梓ちゃんに軽音部に入って欲しい。
 もちろん決めるのは梓ちゃんだから、別に強制はしないし、何か脅しを掛けるつもりもないの。
 でも折角話せた相手だから、もっと梓ちゃんの事が知りたいな……」

躊躇いがちに差し出されるメモ帳。

『せめてもう少し、日を置いてからにさせてください。
 私も頭を冷やさないといけないです』

礼儀正しく頭を下げ、梓ちゃんは私に背を向けて走って行った。


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最終更新:2011年04月18日 23:15