「ただいま」
部室に帰ると、三人は椅子に掛けていた。
「ムギちゃん、あの子と話してきたの?」
「何があったのか、聞いてきたの。
それと、これからの事もね?」
私の言葉を聞き、りっちゃんの肩がぴくりと反応する。
まだ、納得が行っていないのだろうか。
「これからって、どうするの?」
「私は梓ちゃんに、ここに来て欲しいって思ってる」
「ムギは、さ」
りっちゃんが俯いたまま手を振り、私の話を遮る。
「ムギは私とあの子の事、怒ってないのか?」
とんでもない。
梓ちゃんは、障がい者の就学制度について質問しただけだ。
りっちゃんに関しては……ちょっと乱暴だったから怒ってるかも。
「もちろん。
梓ちゃんは私達のライブを聞いて、軽音部に入ることを決めたって言ってたわ。
だから、ね? 五人でライブ頑張りたいな」
りっちゃんはそれきり黙ってしまう。
「前に、律と話してたことがあったんだ。
新入部員は、ちゃんとムギと付き合える人なのか見極めないと、ってさ」
同じ部活に所属する限り、会話する機会は必ずある。
そしてそのためには、手話を覚えるか、筆談するか、通訳をしてもらうかの何れかを選ばなければならない。
それを煩わしく感じる人が居るから、読話の習得を目指しているんだけれど……そう簡単に成せることではない。
「律がピリピリしてるのもそれが理由だからだと思う。
あんまり責めないでやってくれ」
「大丈夫よ。
りっちゃんも、ありがとう」
『いい』か。照れてるんだ。
「ムギちゃん。それで、中野さんは何て言ってたの?」
「うん、ちょっと時間を空けさせて、って言ってたわ。
さすがに気まずさを感じているのかしら……」
「それじゃ、私達は来てくれるのを待ってればいいんだね」
どこか引っ掛かる言い方ではあるが、それでいいだろう。
無理矢理部室に引っ張ってくるのも良くない。
「それでりっちゃん、話ってなぁに?」
部活が終わり、唯ちゃんと澪ちゃんを先に帰らせた。
りっちゃんと向かい合わせに座り、彼女の話を待つ。
「ライブの時、何があったんだ?」
「何が、って……どういうこと?」
「ムギ、泣いてたじゃん」
確かに泣いた。
ライブに、意味を感じられなかったからだ。
楽しいのは皆だけ。私は楽しくない。
私にとってライブは自身の作った曲を発表するだけの場となり、どう捉えるかは観客次第。それだけ。
ライブ前から分かっていた距離感は、皆が一体となった瞬間により深く私の胸を抉る。
それを今、りっちゃんに話すかどうか。
即決。話さない。
「そうね……嬉し泣きかしら。
耳が聞こえなくなって、演奏を諦めたこともあったもの。
それがちゃんと実を結んだことが嬉しかったのよ」
「……本当かよ」
「もう、嘘をついてもしょうがないじゃない」
嘘をついてもつかなくてもどうしようもないから。
これで皆が私に気を遣って軽音を止められても困る。
「こうやって入部希望の子も来てくれたし、結果としては上々よね?」
りっちゃんは小さく頷くと席を立つ。
「中野さんに、ちゃんと謝るよ。
どーも、ムギのことになると冷静になれないんだよな。
ちょっと過保護になってるかもしれない」
「ううん、ありがと」
りっちゃんが過保護かぁ。
でも、りっちゃんのようなお姉さんが居たら頼りになるだろうな。
周りへの気配りが上手だし、立派に部長をやっているし。
『ごめん』
とりっちゃんは言葉に出さず、手話だけで伝えてきた。
謝られるようなこと、何もされていない。
むしろ謝るのは私の方なんだけど。
「帰ろうぜ」
すると、りっちゃんはいきなり扉に向かって走り、勢いよく扉を開ける。
唯ちゃんと澪ちゃんが居た。
「えーと……二人で話すっていうから、ちょっと気になっちゃって……」
「私は唯を止めたぞ? 本当だからな?」
……話してしまわないで良かった。
翌朝。十五分ぐらい経っただろうか。
私は学校の玄関で立ち続けていた。梓ちゃんに会う為だ。
時間を空けるとは言ったが、だから会ってはいけないということも無いだろう。
そう考えて梓ちゃんを待っていた。拒まれればそれはそれでだ。
「おはよう、澪ちゃん」
「誰か待ってるのか?」
当然の質問。私は隠す事なく答えた。
それを聞いた澪ちゃんは苦笑い。
「よくやるよ。よっぽど気に入ったんだな」
周囲の生徒達は奇異の目でこちらを見ている。
恐らく一年生だろう。
もうこの目に心を痛めることは無くなった為、私は気にすることなく澪ちゃんと会話できる。
「じゃ、私は教室に行くから。
何か進展があったら教えてくれよ?」
視線を外へ向けると、まさにピッタリのタイミングで梓ちゃんを見つけた。
「おはよう、梓ちゃん」
声を掛けると、軽く一礼してくれた。
そのまま歩き出す梓ちゃんに後ろから付いていく。
『どうしたんですか?』
携帯電話が差し出される。意外に可愛いデザインだ。
「気にしないで。ほら、教室に行かないと」
こうして見てみると、綺麗な歩き方をしている。
きびきびとしていて如何にも真面目そうだ。
そんな全身からのオーラとは裏腹に、二つに結ばれた黒髪がふわふわ靡くのがまた可愛い。
背も小さいし、まさに『後輩』という印象だった。
と、変質者のようなことを考えながら歩いていると、立ち止まった梓ちゃんにぶつかりそうになった。
『私の教室、ここですけど……』
「分かったわ。お昼休みも遊びに行くから」
『私達、まだそういう関係じゃないですよね……?』
疑問形なので問題は無さそう。
これできっぱり言われたらさすがに驚く。
「冗談よ。それじゃ梓ちゃん、またね」
梓ちゃんはいかにもリアクションに困っていそうな顔をしている。
こんなことをして何になるんだろう?これで仮に彼女が入部を取り消したらどうなる?
自身にふと湧いた疑問に答えは出せず。
高鳴る心臓と強烈な耳鳴りに耐えながら、その場を後にした。
唯ちゃんとりっちゃんとで、三人、部室へ向かう。
昨日のことがあってからか、どことなくぎこちない空気が漂っていた。
特に部活と時は。
「ムギちゃんは、あの子のことをどうしてそんなに気にするの?」
「梓ちゃんのこと?」
どうしてかと言われても……なんとなく、としか。
でも、初めて会った時によく声を掛ける気になったものだ。
それは勿論、何か大切な用事を抱えているのかもしれない、という軽音部を想ってのの行動だけど。
「折角、来てくれたんだもの。
軽音部に入部して欲しいし、仲良くなりたいし、友達になりたいから……かな?」
「可愛かったよね」
「ええ、如何にも後輩、ってイメージがあったわ」
部室前の階段に足を掛ける。
もしかしたら。そんな期待を胸に抱き上るが、部室前にその姿は無かった。
思わず足を止めてしまう。
「ムギ、行こう」
りっちゃんの手が背中をとん、と押す。
そんな簡単じゃないとはちゃんと分かっている……けど。
部室に入った私達は、すぐに演奏の準備をした。
誰が言うでもなく、ただ何故かそういう流れになっていた。
演奏終了、と同時に扉が開く。
澪ちゃんだ。
「澪かー」
「えっと、……、ゴメン」
私達からそんな雰囲気が出てしまっていたのか。
澪ちゃんはいそいそとベースを取り出す。
ティータイムを楽しみにしているとはいえ、いつも真っ先に練習を提案していた彼女が、何も言わない。
「よし、私も準備出来たぞ。曲は何から?」
「ホッチキスな」
「ちょっと思ったんだけど」
唯ちゃんがくるりと振り返る。
「『ホッチキス』って、この歌が無かったら多分手話で覚えることはなかった言葉だよね」
「というか、ホッチキスは特に手話というかジェスチャーっぽいけどな」
確かに。
別の動かし方があっても、きっとこちらの方が分かり易く覚え易かっただろう。
何も知らない健聴者同士で使っても分かる。
「うんうん。私こういう言葉が好きだなぁ。やってて楽しいもん」
唯ちゃんの言葉が重く感じる。
私は、手話を楽しんだことはあっただろうか。
これは生活の為に必要なことであって、楽しむなんて感情の領域に持って行ける物じゃない。
その義務を楽しめたら、それはどんなに良い事だろうか。
「早く練習……」
澪ちゃんと目が合ったのでとりあえず苦笑いをしておいた。
翌日のお昼休み。
四限が終了し、私は財布を持って立ち上がる。
「購買?」
「うん。お弁当を忘れちゃってた」
というのは嘘で、単に冒険したくなった。
音が必要な周りの世界に。もしかしたら梓ちゃんに会えるかもしれないし。
「私も行く」
「私も」
二人も立ち上がるが、それを止める。
「大丈夫。多分、買い物だけならなんとかなるし、メモ帳も持っていくから」
購買のパン売り場は意外に人が多い。
万が一に備え、あまり人が並んでいない時に注文することにした。
敢えて補聴器を見せるように髪を一つに縛る。
それがまるで敵陣に特攻するようで、少し怖かったりもする。
目の前に並ぶパン。
種類は多く、目移りしてしまう。これではぐるぐる見回るだけで時間を取ってしまいそうだ。
悩んだ結果、クリームパンとバターロールという無難な線に到達した。
そして問題なのが……値段表示がされていないこと。
とはいえ値段を聞かなくても、五百円玉一枚で解決するだろう。さすがにこれを超える値段なんてことは有り得ないだろうし。
まあお釣りの手間を取らせることは申し訳ないけど。
「これとこれ、お願いします」
「――。 ――、―――。」
五百円玉を渡そうとすると、目に映ったのは指を立てて数字を表す、購買の小母様の姿だった。
この人は私の耳に気付いて、それをしっかり伝えようとしていてくれた。
取り出した硬貨を財布に仕舞い、金額ピッタリで支払う。
耳、バツ、首を傾げる。
「はい、もう全く聞こえません」
少し考え、笑顔で手を振ってくれた。『また宜しくね』かな。
ありがとうございます、とこちらも笑顔で返し、教室へ戻ろうとする。
すると、パンを手に一人立っている梓ちゃんを見つけた。
「梓ちゃん」
彼女は相変わらずぺこり、と軽く頭を下げるだけ。
「誰かと一緒に来てるの?」
頷くと、ポケットの中を探り始めた。
恐らく私がいつものメモ帳を差し出さないから、その類を持っていないか探しているんだろう。
私は持ってきているのだけど……でも、これはチャンスかもしれない。
「ごめんなさい、実はメモ帳を持ってきていなくて」
会話が出来るかちょっと期待していた。
意地悪な話だけれど、真面目そうな彼女が、先輩からの話を無視するようなことは無いと思ったから。
それこそ先ほどの購買の人のように、何かしらの方法で伝えようとしてくれないか、と。
私、書く、首を振る。
梓ちゃんの動きがそう示す。
「うん、でも、無くても会話出来たわ」
何故か梓ちゃんは固まってしまう。
そしてそのまま見詰め合うこと十秒。
不意に彼女の目線は私の横を通り過ぎて。
後ろを振り返ると、そこには……梓ちゃんとは違う意味で二つに髪をまとめている女の子が居た。
「――。 ……――――?」
当然、読めるはずもなく。
恐らく私の事だろう。
梓ちゃんが隣に並び、横の子を指す。
口の動きが一文字ずつだから、名前の事だろう。
で、肝心の中身なんだけど……訳が分からない。えーとーえーと。
ちょっと気まずくなり目線が泳ぎ始めた私。隣の子もまた微妙な表情……
さすがに名前を聞き間違えるのは宜しくない。
メモ帳を出すべきか……と思ったその時、梓ちゃんの手が動く。
首の前に十円玉サイズの小さな輪。それを振る。
大きな輪に小さな輪を付けて、被って……?
「鈴……? 鈴木……?」
どうやら合っていたようだ。
そうそうそう、鈴木さんが首をぶんぶん縦に振る。
そして下の名前。
「 、 、 」
丸。小さい丸。丸。
真ん中は拗音の『ゅ』か。最後は口を閉じているから『ん』。
最初は……いきしちにひみ……
「じゅん……?」
きゃー、という声が真っ先に思いついた。
二人は抱き合っている……梓ちゃんが覆い被さられているようにも見えるけど。
それでも、彼女の表情は柔らかく、こうして手間を取らせたことを迷惑がっているようには見えなかった。
「準備? 純粋?」
思いつく二つの『じゅん』を挙げると、純粋の方に頷く。
鈴木、純さんか。
彼女はいきなり携帯電話を取り出し、文章を打ち始める。
『実は五限の宿題をまだやっていないのでこれで失礼します!
ちなみに携帯を出さなかったのはわざとですから、怒ったならすみません!』
怒っていない。むしろ嬉しかった。
梓ちゃんの手を引き、教室に戻ろうとする鈴木さんに、お礼の言葉を述べる。
そして梓ちゃんにも。
「ありがとう。すごく分かり易かったわ」
その言葉に笑顔で応え、二人は角を曲がっていった。
最終更新:2011年04月18日 23:17