時刻は予鈴10分前と行ったところ。
教室へ向かう足取りは軽い。
席には唯ちゃんとりっちゃん、澪ちゃんも居た。
見れば何やら真剣な表情をしていて、どうも私の入室に気付いていないようだった。

「おはよう、皆。澪ちゃんが居るなんて珍しいのね?」

「ちょっと……暇だったからな」

随分間が開いている。
多分昨日の事で、私にあまり話したくないのは分かった。
朝はあんな態度をりっちゃんに取ってしまったし。


「それじゃ、私達も下の名前で呼ぶようにするよ」

「ええ。ありがとう」

先ほどの梓ちゃんとの話を伝え、自分は一人で席に戻る。
皆は気を遣って、何も言い出さないでいるのだろう。
ならばこちらもそうしなければならない。

私達の誰もが口に出しさえしなければ、それは無かったことになる。
きっと最善の策になるはずだ。

「合宿を、しましょう!」


七月――
夏休みも近付き、生徒達が一斉に浮かれ始める頃。
それは私も例外ではなく、今回は既に別荘の予約が済んでいる。
恐らく今年も去年と同じで、遊びが中心になると思うけれど。

『去年は合宿したんですか?』

「ええ。楽しかったわぁ」

そう、去年の合宿は楽しかった。あの時は聴力に何の問題も無かったし。

「合宿には賛成。ムギはいいのか?」

「ええ、もう別荘も手配しているの」

「まさか、前より、大きい別荘なの?」

「去年は皆が『これでも十分』って言ってくれたから、同じ所……梓ちゃん、どうしたの?」

見やると、梓ちゃんが頭を抱えている。

『別荘って、もう別世界のような話ですから。ちょっと驚いてます』

前回は皆も驚いていたし、当然梓ちゃんも例外ではないだろう。
しかし今回は、梓ちゃんの歓迎も兼ねているんだ。
是非来てもらいたかった。

「合宿と言っても、強化合宿とかそういう難しいのを考えなくてもいいの。
 海で泳いだり、バーベキュー、花火も。
 ちょっとした息抜きよ。梓ちゃんも部活を頑張っているでしょう?」

ご褒美だなんて偉そうな事を言うつもりは無いけれど、思えば部活中も気を張ったままでいる彼女には、少しでも楽しんでもらいたい。

『私なんてまだまだです。あまり上手く行ってないですし』

「もう、そんなに気にすることはないのよ? それで梓ちゃん、参加してくれる?」

『是非』

笑顔で答えてくれた。

「今のところ梓はどれぐらい手話出来んの?」

『恥ずかしいから、絶対やりません』

「あずにゃん照れ屋さんだねぇ」

「でも梓ちゃん、手話は頭で覚えるより実践の方が早いのよ?」

梓ちゃんは一しきり考えて、俯いたまま書いた。

『じゃあ……ムギ先輩と澪先輩、あとで見てもらえますか?』

これはまた意外な名指しで。
実は教えを乞うならりっちゃんが一番良いのだけど。
でも頼ってくれたのは嬉しいし、それには応えたいと思う。

「なんで私達じゃ駄目なのー?」

『馬鹿にされそうで嫌です』

二人に限ってそれは無いと思うけど。

「じゃあ、部活が終わったら少し残りましょう?
 澪ちゃんもそれでいい?」

「分かった」

唯ちゃんとりっちゃんはしきりにぶーたれている。
まぁきっと、扉から覗いていたりするんだろう。


「指文字は一通り覚えられた?」

『一応は……多分ですけど』

酷く曖昧だ。
となれば何かお題……

「じゃあ、『あずにゃん』ってやってみて?」

「何でよりによってそれなんだ?」

アルファベットを最初に覚える時と同じように、まず自分の名前からだろう。
それに中野梓、より拗音を含むこちらの方がお題としては適切かと思う。

「あ、ず、に……や? ……ん」

断られるかと思ったけど、やってくれる辺り良い子だ。

「小さい『や』は手前に引く、ね?」

反復し、覚えようとする梓ちゃん。
と、軽く息を吐いて筆談を始めた。

『すみません。
 いくらなんでも、覚えるのが遅過ぎ、ですよね』

「……気にしないで。
 梓ちゃんは覚えようとしてくれているじゃない。
 私は、成果主義じゃないわ。ありがとう、梓ちゃん」

そう、本当に感謝している。
もし彼女が望むなら、練習相手になんて何度でもなる。
と、澪ちゃんがこちらをじっと見ていた。

「どうしたの? 澪ちゃん」

「いや、仲が良いなってだけだよ」

「つまりヤキモチ?」

「変な事言うな。
 それじゃ、もう少し会話を続けてみようか。梓」

やはりというか、梓ちゃんは読む方の練習はしていなかったようだ。
発話が無くなれば、ほとんど読めていない。
上手くなる為の練習だけど、梓ちゃんの表情は大分沈んでしまった。

『悔しいです。こんなに、何も出来ないなんて』

声を掛けたくても、掛けられなくて。
何も出来なくて悔しいのはこっちの方だ。

澪ちゃんが一歩前に出たかと思うと、そのまま梓ちゃんを抱きしめる。
そしてぽつりぽつりと梓ちゃんの耳元で何かを呟く。
頭を撫でる手は優しく、表情はまさに聖母のそれ。小さな体は文字通り優しさに包まれていた。


「もう大丈夫だよ、ムギ」

「うん。ありがとう澪ちゃん。
 ……何て話したの?」

「結構恥ずかしいこと言ったからな……内緒、でいいか?」

離れた梓ちゃんの表情は何か吹っ切れたような顔つきで、見ていて安心出来た。
一連の会話を読み取れなかったのが少し残念だけど。

「そろそろ、帰ろうか」

鞄を持ち、立ち上がる。
澪ちゃんと梓ちゃんは扉の方を凝視していた。

「にしても、あいつら覗くの下手だな」

やっぱり澪ちゃんも気付いていたのか。
梓ちゃんも同じ様子だった。


合宿当日。駅前に集合となった。

『お嬢様、行ってらっしゃいませ。道中お気を付けて』

「ありがとう斉藤。行ってくるわ」

斉藤に送ってもらい、到着する。
集合時刻の30分前だけあって、さすがに誰も来ていない、か。

ベンチに腰掛け、目を瞑る。
別荘に着いたら、海へ行って、皆でご飯食べて、花火もして……
この合宿で、もっと梓ちゃんと仲良くなれたらいいな。
もちろん皆ともだけれど。


とんとん


背中を悪寒が走る。
肩を叩いた手を、思い切り振り払った。

「あ……」

梓ちゃんだった。
勢いよく叩き過ぎたせいか、手の甲を押さえている。

『すみませんでした。
 見えない所からいきなり触るなんて、驚かせるだけでした』

深く頭を下げられた。

「違う、今のは違うの。
 謝らないで……お願い……!」

そうだ梓ちゃんのせいなんかじゃない。
目を閉じていた私が悪いんだ。それに時間から考えて誰かが来ることくらい分かっていたはずなのに。

と、視界の端にりっちゃんの姿を見つけた。
手を伸ばし、梓ちゃんの手を取る。

「お願い。さっきのことはもう気にしないで。
 手、痛かったでしょう? ごめんなさい、梓ちゃん」

折角の楽しい合宿なんだ。
これ以上引き摺る必要が無い。最悪、皆の雰囲気を悪くしてしまう。


「どーしたんだよ二人共。手なんか繋いじゃって」

「うふふ、なんでもないのよ?」

よく見れば、梓ちゃんの表情はどこかぎこちないが、恐らく大丈夫かと思う。
いくら相手がりっちゃんでも。

『律先輩、思ってたより早いんですね』

「思ってたより、って失礼だろ……」

「そうだ、梓ちゃんは水着持ってきた?」

こくん、と頷く。
海に出られることを確認して、鞄から防水筆談シートを取り出す。

「今の内に渡しておくわね。これなら海でも使えるから」

差し出すが梓ちゃんは受け取らず、吹き出していた。
何か、変な事をしただろうか?
不安に思っていると、梓ちゃんも鞄から筆談シートを取り出す。

『私も用意していたんです』

同型の筆談シートだ。
さすが、梓ちゃんはしっかりしていた。

「……二人共、息ぴったりじゃないか」

『面白い事もあるものですね。でも折角持ってきてもらったんだから、ムギ先輩のを使わせてもらいます』

「はい、どうぞ」

梓ちゃんは受け取ったペンとシートを鞄に仕舞う。
私は、別にどちらを使っても気にはしないんだけどなぁ。

と、向こうから歩いてくる澪ちゃんと唯ちゃんの姿が見えた。

電車に揺られ、目的の駅に到着する。

「それじゃ梓ちゃん、ここからちょっと歩くわ」

その道中のこと。

『まさか別荘にお手伝いさんが居たりは、しませんよね?』

「そのつもりだったらしいけれど、断っているの。
 さすがに皆も居心地が悪いと思うから」

筆談を待っていると、梓ちゃんの体が歩く勢いそのままに前に浮く。

「梓ちゃんっ!」

踏み込み、手を伸ばして支えた。

「ふぅ……梓ちゃん大丈夫? 段差には気を付けてね?」

なんとか間に合い、地面との接触は避けられた。
彼女はその場に足を止め、ペンを走らせる。

『ありがとうございます。もう、歩きながらの筆談は止めた方がいいですね』

「……危ないし、その方が良いかも……」

鞄にメモ帳を落とし、歩き出す。
何か、一切の発言を許さないオーラが背中から滲み出ていて、なんだか梓ちゃんが怖かった。
地に吸い付いた足がなかなか離れず、何か声を掛けようと口を開いた。
それでも梓ちゃんは歩みを止めずにいて。
それは声が出せていなかったのか、無視をされたのか分からない。


到着。
するやいなや、唯ちゃんとりっちゃんが砂浜に向かって走る。
そして息を吸い込み、二人で何かを叫んでいるようだ。
去年の事から想像するに、「うみだー」といったところだろうか。

「ほら、ムギちゃんも一緒に」

「え? 私?」

戻ってきた唯ちゃんに手を引かれ、足を踏み入れる。
熱い砂に足を埋め、思わず転げそうになった。

「なんでもいーから叫ぼう!」

「せーのっ!」

半ば強制的に連れてこられ、しかも打ち合わせ無しでいきなり始まる。
海だ―っ。
声を張り上げたつもり。
内容は二人と同じつもり。
二人の言いたい事を、私はちゃんと理解出来ていたのだろうか。

「はっ……はっ……!」

一度叫んだだけで、肺が酸素を求める。
あまりに久しぶりのことだったから、驚かせてしまったかもしれない。
なんとか息を落ち着かせた私の肩を、りっちゃんが叩く。

「よし、まずは荷物置いて、海水浴だな」

「私……ちゃんと出来てた、かしら……」

「良い叫びっぷりだったよ。ムギの大きな声なんて久しぶりに聞いた」

それはそうだ。声量を自分で判断出来なくなってからは確かに無い。
いや、正確には失聴直後の一回があったかな。


「梓ちゃん、可愛い水着ね。似合っているわ」

彼女は、可愛いピンクのワンピースだった。

『ムギ先輩も、素敵ですよ』

嬉しいことを言ってくれる。
こういう恥ずかしい事を正面から伝えられるのは、筆談の長所だろうか。

『澪先輩のインパクトが強過ぎて、私達は全体的に霞んでいますけど』

「うん……そうよね……」

あのスタイルにあの水着では、仕方がないか。
私も去年はショックを受けた。
思えば……食事量は減らしているのに体重計は今一つ良い数値を示してくれない。
本当に唯ちゃんが羨ましいな。
それに梓ちゃんだって、ワンピースタイプの水着を着ているくらいだし。

「ムギー、どした?」

「澪ちゃんが凄いってことよ」

なるほどね、と澪ちゃんを見つめるりっちゃん。
そんな彼女の肩を叩き、梓ちゃんは筆談シートを見せる。

『羨ましがるのは分かりますけど、ねぇ?』

笑いを堪えている。顔がすごく引き攣っていた。
正直二人共あまり差が無いような……っていけない。

「よし梓……律先輩と向こうで話そうか」

りっちゃんは梓ちゃんの肩をがっしり掴み、そのまま海へ突き落とした。


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最終更新:2011年04月18日 23:21