「おかえりなさい」
『律先輩ひどいです……』
「でも、二人があんなに、お互いに遠慮の無いことをし合ったのは初めてじゃないかしら?」
……梓ちゃんなりに、先輩と距離を縮めようとしたのだろうか。
私にはそう感じ取れたのだけど。
『そんなに深い考えは無いですよ。ただの、普段の仕返しです』
それは何て良い事だろう。
つまり仕返しが出来るほどの関係なんだ。
『安心してください。律先輩が嫌いってわけじゃないです。
時々だらしないなぁって思うことはありますけど、そこそこ尊敬はしていますから』
それは仕方がないことだと思う。
私の考えでは、りっちゃんは普段はもっと気を張っているんだ。
羽を伸ばせる軽音部だからこそのんびり出来て、それが真面目な梓ちゃんの目にはだらしなく映ってしまうだけだろう。
「そこそこ、ね。私はこの合宿で梓ちゃんの考えが変わればいいと思うの。
こういう場を設けた以上は、私達はもっとお互いの事を知り合わなきゃ。ね?」
『そうですね。それじゃ、ムギ先輩も海に行きましょうか』
差し出された手を掴む。
小さな手だ。触れてみるとやっぱり違うな。
パラソルの下から離れ、二人で砂浜を歩く。
少し前を歩く梓ちゃんの表情は、あくまで平坦で、何を考えているのか分からない。
私はこんなにドキドキしていて、顔はきっと強張っているし、手が汗ばんでいるのに、彼女は平気だなんて何か嫌だ。
軽く声を掛けた。ちょっと口が震えてしまったかも。
向けられた表情は今まで通りで、それが一瞬で驚嘆の物に変わる。
横から飛び込んできた影に、梓ちゃんは押し倒された。
「ゆ、唯ちゃん……?」
いつもの光景だけど、屋外で、しかも水着で行われているのはちょっと……刺激がある。
ヒドイよあずにゃん! ムギちゃんとばっかりいちゃいちゃして!
違います! っていうか背中が痛いです! 離れてください!
あずにゃん分が足りないんだよぉ~!
なーんて。
ちょっと想像。読めないけど、きっとこういう流れだろう。
この二人の、この絡みは何度も見てきたから。
梓ちゃんが先に折れるのも分かってる。
梓ちゃんは押し倒されてがっちりとホールドされている。
あれでは唯ちゃんが満足しない限り逃れられない。
さすがに可哀想に思えたので、とりあえず助けてあげよう。
「唯ちゃん、梓ちゃんが困っているわ」
「いや、これぐらいでは足りません!」
と、私に伝える為に両手を離す唯ちゃん。
その隙を突いて、梓ちゃんの反撃。
逆に唯ちゃんが押し倒されるようになった。
「梓ちゃん、大胆……」
なんだろう、唯ちゃんの顔が心なしか色っぽく見える。
それに反応したのか、梓ちゃんは見る見るうちに真っ赤になり、海へ向かって全力疾走。
「あはは、逃げられちゃったぁ。あずにゃんはやっぱり照れ屋さんだね」
多分あれは、咄嗟の行動故に予想外の結果になってしまって驚いたんだろうな。
何にせよ、唯ちゃんとの仲は相変わらずだけど、それでも安心できるものだった。
「それじゃあ皆、使ったお皿とかは簡単に纏めておいてね。あとで私が洗っちゃうから」
夕食が終了し、あとはしばらく休憩して練習再開となる。
その間、後片付けをしていようかと思った。
『わたしも』
「本当? ありがとう梓ちゃん」
簡易手話で伝えてくれた。
小さな事でも、意思の疎通が出来るのは嬉しいものだ。
食器を持ち、梓ちゃんと共にキッチンまで向かおうとした私を、りっちゃんが引き止める。
「折角だから、じゃんけんで負けたヤツ、二人にしないか? ムギばっかりにやらせるのは悪いよ」
あくまで自分がやるとは言わない。
勝負の結果、言い出しっぺのりっちゃんが負けるのもまた面白いだろう。
「じゃんけん――ぽん!」
「悪いな。結局ムギがやることになって」
「気にしないでね。じゃんけんだもの」
「まー、私も負けた訳だけど」
結果として、私とりっちゃんが皿洗い担当。
しかも一回で勝負が決してしまったのだから面白い。
食器を洗い始めると両手が塞がる為、会話が無くなる。
と言っても、皿洗いは個人作業であるし、それで問題はないのだけど。
「面白いように分かれたわね、りっちゃん。
もしかしたら裏で何か仕組まれてたりして」
彼女は手に持つお皿とスポンジを置く。
それもなんだか乱暴に見える動きで。
「それはないだろ。いつもそういうのを言い出すのは私だし、
……少なくとも、私達がムギを――――ありえないから」
いけない、読めなかった。
「ごめんなさい。私を、何って?」
「ムギを、騙す、裏切る、絶対しない。
それだけは絶対にしないし、アイツらにもさせない」
ひどく真面目な表情。いかにりっちゃんが真剣か、それに怒りが読み取れた。
「だからさ、そういう事を言うのはやめてくれよ。
そりゃあムギは耳が聞こえないんだから、内緒で打ち合わせなんて簡単だし、疑うのも分かる。
でも、やらない。信じてくれ」
「そう、ね……ごめんなさい」
私だって信じていたい。
でもそれは本心か。根の性格が歪んでしまっているんだから、疑わしいものだ。
無神経でぶっきらぼうな発言も増えたし、何度も皆を傷付けてきただろう。
りっちゃんが、洗ったお皿を手に取る。
「話の続きは、要らないよな」
この話を続ける意味は無い。
どんどん雰囲気が悪くなるし、唯ちゃん達も怪しむだろう。
軽くこくん、と頭を振る。それを見たりっちゃんは食器を拭き上げ、棚に戻しだす。
「ムギのおおばかやろー、か」
りっちゃんの言葉を思い出す。
間違ってなんていない、確かに私は馬鹿だ。あの時よりもっと馬鹿になった。
なんでこうなるんだろう。
今日は特に、危ないバランスで居続けている私。親睦会はただの綱渡りになってしまっている。
不意に口を突く卑屈な言葉は、皆の表情を沈ませ、気まずさを演出する。
自傷の渦は一向に終着する気配を見せてはくれない。
肩に置かれた手が、私の意識を引き戻す。
そうだ、確か今は練習中だった。
「ムギ、具合が悪いのか?」
もちろんそのようなことはなく、どちらかと言えば問題があるのは内側で。
無意識を意識するあまり、反って不自然に、それは表に出てしまう。
時計を見やる。練習を始めてからまだ10分ぐらいしか経っていなかった。
「私……先に休ませて」
これじゃ、駄目なんだ。
水面から顔を出そうともがけばもがくほど、沈んで行ってしまう。
濁った水。音もなく何も見えない世界はそんな底無し沼のようで。
「皆、ごめんね。練習、出来なくて」
随分自然に出せるようになった、笑みを貼り付ける行為。
足取りも軽く見せ、皆に心配は掛けまいとする。
言われても聞こえない。背を向ければ後は振り返らず歩くだけだった。
扉を乱暴に開ける。
部屋に用意された5つのベッドの内1つへ倒れ込んだ。
あの時以来の、思考を放棄する為の睡眠だ。
泥のように眠る。とはまさにこのような事を言うんだろうな。
ふかふかの生地は私の体を優しく包んでくれ、眠りを促す。
よほど疲れているのだろうか。あっと言う間に意識が薄れていった。
夢を見た。
それは先ほどまでの私の、巡る思考の続きのようだった。
居るのは水の中。
夢だからだろうか。何も疑問に思わず、私はただそのままぼーっとしていた。
ふと、目が覚めた。
いつの間にか布団が掛けられ、頭は丁寧に枕の上にあった。
誰かがしてくれたんだろうか。
時刻は、午前4時を過ぎたところ。
天井の明かりが点いている。
皆を起こさぬよう、そっとベッドから降りて部屋を出た。
大きく伸びる。
昨日の分を取り返さなくては。
結局合宿初日、私は少しも練習をしていない。
さすがにこれでは皆に怒られてしまうだろう。
早く寝た分早く起き、その時間を練習と、朝食の準備に充てよう。
それくらいはしてもいいはず。
スタジオには既に先客が居た。
「りっちゃん……?」
「もう大丈夫か、ムギ」
「ええ、心配掛けてごめんなさい」
りっちゃんは軽く笑みを返し、またドラムに向き直した。
音を立てないようにしているのだろう。ドラムセットには布が掛けられていた。
「ここは防音設備がしっかりしているから、音を出しても大丈夫よ?」
「……だろうと思ってたけど、なぁ」
ぺいっ、と布が放り出された。
「りっちゃん、早いのね」
「昨日は早く寝たからな。目が冴えちゃって」
「それでドラムを演奏しに? りっちゃんって楽しそうに叩くものね」
「私は、き、っ、す、い、のドラマーってヤツだからな」
りっちゃんはにへら、と笑う。
その笑みは唯ちゃんに似ていた。
「ちょっと合わせてみるか。さすがに一人じゃ心細くて」
「だったら、皆より一足早く新曲をやってみる? 譜を持ってきているの」
聴力を失ってから、ずっと考えていた物。
聞こえない音を記憶を頼りに引き出して、頭の中で組み立て続ける。
それを一曲分。
家の者に何回も感想を貰って、何回も修正を繰り返した。
自信があるとは言えない。そんなことは間違っても言えない。
こんな風にあっさりと出せた理由は分からないけど、りっちゃんならしっかりと答えを出してくれるだろう。
「お、桜ヶ丘のベートーヴェンの新作発表だな」
聴力を失った身なら分かる。あの人が偉人なのは当たり前だ。
耳が聞こえないという境遇が同じだけで、やっている事が同じであるだけ。
その功績や実力まで同じようにはなれない。
「あくまでお試しよ。部長の立場から見て、これが使えない物だったらそれでも構わないの」
「そんなのやってみなくちゃ分からない。やる前からマイナスに考えてどーすんだよ」
それから、ちょっと二人で簡単に流してみて。
真剣な顔のりっちゃん。この曲に関して色々考えていてくれるんだろう。
そして休憩。
「はい、どうぞ」
「さんきゅー」
りっちゃんの前にカップを置く。
いつもはすぐに口を付ける彼女が、それより先に行ったこと。
「新曲な、良い感じだよ」
「本当? お世辞じゃなくて?」
「当たり前だろ。きっと皆も納得してくれるよ」
納得してくれるのは嬉しい。
でも、何かおかしい所があれば、ちゃんと指摘はして欲しいと思っている。
「ま、この曲に関しては大丈夫だよ。後で皆にも見せようか。
それで、別の話があるんだ。ちょっと真面目な話になるから、出来ればしっかりした返事が欲しい」
話、なんだろう。
今までのどんな時も、りっちゃんは今のような表情はしていなかった。
真面目と言えば真面目な表情なんだけど、どことなく緊張のような物が混じっているように見える。
「……明々後日、な。ちょっと場所は遠いんだけど、夏祭りがあるんだ。
一緒に行かないか?」
「ええ、勿論!」
別におかしくもない話。即答できる。
そんな私をりっちゃんが手で制した。
「違うんだ……その、二人で行きたい」
二人、で。
「それでも構わないけれど……どうして?」
「その時に、大事な話があるからで……」
なんだかよく分からないけれど、わざわざこうして言い出すということは、とても大事な話であるのだろう。
そして、それは今言えない事。
「分かったわ。そのデートの誘い、お受けします」
「……」
「だって、二人きりで祭りに行くのよ? デートでしょう?」
りっちゃんは照れくさそうに頭を掻く。
軽く溜め息をついて、立ち上がった。
「もうそういうことにしといてくれ。朝食の準備しよーぜ」
「りっちゃんって、料理出来たの?」
「梓といいムギといい、本当に失礼だな……」
朝食の準備は、どちらかといえばりっちゃんがメインで進む。
手際が良く、かなり出来るようだ。
その姿はやっぱり意外な物で、感心出来るものだった。
有能な人間、というのはやはりいるもので。
「お嬢様、本日はどちらまでお送りすれば宜しいのでしょうか」
「いいえ、今日は徒歩で駅まで向かうわ。ありがとう斉藤」
「左様でございますか」
現在、私の知る限りで最も手話が上手い人物。
ここまで、どれだけの努力と研鑽を重ねてきたか、想像に難くない。
それも私の為に、だ。
「……もう行くわ。今日は大切な、約束の日だから」
「はい」
服装髪型確認良し、忘れ物は無し、お金も勿論ちゃんとある。
「お気を付けて、行ってらっしゃませ」
結局、今日の事に関しては何も聞かれなかった。
大切な用事であるが故に、無関心――と言えば語弊があるかもしれない。
そうだ。詮索はしない、というやつだろう。
夕暮れ時とはいえ、夏場。気温は決して低くない。
が、優しく吹く風は髪を運び、体に纏わりつく嫌な感触を飛ばす。
清々しい気分が頭一杯に広がり、今日という日を良い思い出にしてくれそうだった。
勿論、りっちゃんの言う『大事な話』を気にしていないわけじゃない。
でもわざわざ祭りに誘うぐらいだから、きっと暗い話ではないのだろう。
電車を乗り継ぎ、現地到着。
少しでもデートという雰囲気を出すために、敢えて現地集合にした。
規模の大きそうな祭りで、辺りはたくさんの人で賑わっている。
りっちゃんを待たせる事がないよう、それなりに早く着くようにした。
しばらくは、このままぼーっと待っていよう。
……時折、敏感になった鼻を突く良い匂いが辛いけど。
すぐにお腹が減ってしまいそうだ。
およそ5分くらいだろうか。
手鏡を覗いて髪を整えていると、前方に影が差す。
「りっ」
ではない。通りで影が大きいと思った。
やっぱり祭りだけあって、こういう人はいるものだな。
如何にも素行が悪そうな、恐らく年は同じくらいだろうか。男性が1人、私の前に立っていた。
「――? ――?」
私が中途失聴であることを知らないその男性は、話し方も滅茶苦茶で読もうと思っても読めない。第一読みたくない。
とりあえずこの場を離れてしまわなければ。
無視して背を向け、歩き出す。
と、肩を掴まれた。
「離して、くださいっ」
突然の事に驚いた私は、つい声を荒げてしまう。
それが彼にとって不快だったのか、状況が悪化する。
最終更新:2011年04月18日 23:23