「ずっと何も言わなくて、りっちゃんに甘えててごめんなさい。
 でも私は、もう見てられないの」

「……無理してるのはお互い様」

腕を掴まれ、そのままゆっくりと下ろされる。

「手話に読話に発声訓練に、それに聾学校に補習授業を受けにも行ってるだろ」

「知ってたのね」

確かに、耳の聞こえない私が、ノートテイクだけで授業に追いつけはしない。
皆から教えてもらったり、参考書を片手に自主学習に励む他、通級指導も受けに特別支援学級に通っている。
そちらがバレるとは思っていなかったのだけど……

「カマかけ、だよ」

……やられた。

「私を騙すことはしないんじゃなかったの?」

「時と場合に因る、って追加しといてくれ」

眉間に皺を寄せたキツ目の指摘にも、あっけらかんとしている。
どうも調子が狂うな。

「二人共、少し落ち着いて」

澪ちゃんと梓ちゃんが間に入る。
置いてけぼりの二人に、押し留められた。

「私、飲み物、淹れます」

別段、一触即発という訳でもない。
ただ少々棘のある言葉を交わしただけだったのだけど、普段の私のバランスから、不安がるのも無理はない……かしら。


一旦収束した事態は、そのまま幕を引いた。
結果、私とりっちゃんは「明日から3日間、自宅でダラダラと過ごす」約束を取り付ける事で終了。

「梓隊員。修行が足らんな」

りっちゃんの軽口はいつものように戻り、梓ちゃんとの言い合いが始まる。
一旦のガス抜きは想像以上の結果を生んだ。
私も、今日は椅子の座り方もだらしなくさせてもらう。

「しっかり休むんだぞ」

「ありがとう澪ちゃん。頑張って休むわ」

そう言う間も、私の手はリズムを刻んでいる。
りっちゃんがそうだったように。

「今日はこれから二人はどうするんだ? 私は梓と練習するけど」

「まだやるよ。休むのは明日からだし」

「私は一人で基礎練習をやろうと思うの。さすがに皆と合わせられないから」

立ち上がる。
それに続くかのように、皆も準備を始めた。

三人とは合わせないまま、ただ手首を振るう。

こんなに距離が近いのに、それをまるで遠くからのような心の距離があった。
それが新歓ライブの時の疎外感とよく似ていて、思わず目頭が熱くなってしまう。
涙ぐんでいることを気取られないようにか、顔がうつむきがちになる。
気分を紛らわせる為に入れた力が反って悪い方向に行ってしまったようだ。

「あっ」

スティックが私の手から滑り落ち、足元に転がった。
慌てて拾おうと屈むと、前方のタムへと頭を打ち付ける。

「なにやってんだムギ……」

「う、ううん、何でもないの。気にしないで続けて」

さっき、初めてドラムを叩いた時はどんなだった?
音が聞こえて、これから練習を頑張っていって、文化祭ライブを成功させるんじゃなかったのか。

頭を振り、目の前のドラムにスティックを跳ねさせたが、その動きはすぐに鈍くなった。
良くない傾向だ。形の上では練習していても、何も頭に入っていない。
目はメトロノームの動きを機械的に追っているだけで、腕と連動させてはいない。
手は確かにスティックを握っているけど、その動きは無意味な記号か何かであるように錯覚してしまう。

もう皆とは、一緒に音楽を楽しむことは出来ない。
本当に分かっているのに、いつまでも割り切れない。
それは私が子供であり、自分が障がい者であることと未だに向き合えていないからか。

「ムギ先輩、お疲れ様です」

「ええ。梓ちゃんも、お疲れ様」

本日の練習はここまで。
りっちゃんから貰ったスティックを鞄に仕舞いこむ。

『ムギ先輩のドラム、すごく安心して聞いていられました。
 今日始めたとは思えないくらいでしたよ』

「そうかしら……リズムの基礎練だけだったし、実際の演奏とはまた違うと思うの」

『それでも、ですよ。
 私はドラムの経験無いですけど』

良い出来かどうかは自分で判断するものじゃない。
やるからには成功が必須条件で、その可否は狭い視野で決めてはならない。
だから練習するんだし、正直「休め」と言われても困っている。
りっちゃんとの約束は、守るつもりだけれど。


「澪ちゃん、梓ちゃん、これ。新曲作ったの。良かったら家に帰ってからでも、簡単に目を通してもらえないかしら?」

渡された譜を見つめ、驚きの表情を見せる。

「すごい、すごいですよムギ先輩!」

「ふふ、ありがとう」

「放課後ティータイムの曲は全部ムギの作曲だよ。才能なんて言葉じゃ片付けられないくらいだろ?」

いつの間にか居たりっちゃんが、梓ちゃんの背中から顔を覗かせる。

きっと梓ちゃんなら、家でもしっかり確認を入れてくれるはずだ。
もしかしたら御両親にも意見を貰えるかもしれない。

「じゃあムギ、しっかり休むんだぞ。唯のことも私達が何とかしておくよ」

下駄箱にて澪ちゃんからの言葉。
さっさと靴を履き替えたりっちゃんに対しても、律もだぞ、と声を掛ける。
いつものように。

「だーいじょうぶだって。ちゃんと休むっての」

りっちゃんもいつものように、軽く答える。
そのやり取りにおかしい所など無かった。梓ちゃんも大した反応も示していない。

上手く言えないが、どことなくカッチリと噛み合っていないというか……
私が初めて会った時の二人は、もう少し息がぴったりだったような気がした。

「どうしたんだよ? 今日はぼーっとしてる事が多いぞ?」

「そ、そうね。もしかしたら疲れてるのかもしれないわ」

顔を覗き込むりっちゃんに、思わず答えてしまう。
彼女はにっこり笑い、言った。

「そう。そんな風に疲れた時には、疲れた、って言っていいんだよ」

柔らかい笑顔。それと言葉に思わず泣いてしまいそうだった。
が、腑に落ちない。

「……りっちゃん、自分の事を棚に上げるのは駄目よ?」

バレたか、とけらけら笑う。いつものりっちゃんだ。
私は、先ほどの疑問を気のせいと思うことにした。


自宅待機が解けた朝。早速練習の為、登校する。
ちゃんと約束通り休んでいたので、今は遠慮する必要が無い。

――おはよう。早いのね――

「練習、頑張らないといけませんから。
 私がドラムをやることにしたんです」

部室の鍵を取りに行くと、山中先生と出くわす。
申し訳ないとは思いつつ、時間も惜しいので早々に部室へ行こうとしたが、鍵が無い。

――りっちゃん、いるわ――

「みたいですね。それじゃ、失礼します」

考えていることは一緒のようだ。
誰か居てくれるのはありがたかった。

ちなみに山中先生との会話は、練習がてら補助無しで行っている。
本人曰く、「現役から遠ざかり過ぎて、手話を覚えられるほど脳が働かない」そうで。
それを利用させてもらっていた。

――頑張って――

会話が成り立たないことも多いけれど、自分が失聴者であることを極力感じさせない会話は、嬉しいと思う。

「おはよームギちゃん」

部室にはりっちゃん含め、全員集合していた。
皆は演奏の手を止める。

「皆おはよう。どうしてこんな早くから?」

「りっちゃんとムギちゃんの事だから早く来るだろうし、ってあずにゃんが」

梓ちゃんの予想は大当たり。
実際私達は早くに登校し、こうして捕まったわけだ。

「ムギちゃんドラム始めたんでしょ?
 早速だけど合わせてみよう!」

唯ちゃんに手を引かれる。
でも、私はまだ人と合わせるどころか、一曲丸々演奏するだけの技量すら無い。

「待った待った。ムギも私も始めたばっかりだから、合わせるのは無理だって」

「私は確かにそうだけど、りっちゃんは弾けるでしょう?」

「……そうなんだけどさ」

がっくりと肩を落とすりっちゃん。
そのまま唯ちゃんに引っ張られていった。
何かあったのかしら?

「ほらムギ、いつまでも鞄を持っていないで」

「そうね」

荷物を長椅子に置き、スティックを取り出す。

「しばらくは基礎練習が中心?」

「ええ。まだ曲の練習もほとんど出来てないの」

そっか、とベースを肩に掛け直す。
戻ろうとした彼女を呼び止め、先ほどの疑問について聞いてみた。

「りっちゃん、弾けないことにしていたの?」

「最初からな。唯には二人が交代したことしか話してなかったんだ」

「なんでわざわざ……?
 早い段階で皆と合わせた方が良いのに……」

澪ちゃんはくす、と口に手を当てる。

「きっと、ムギを置いてきぼりにしたくなかった、ってところだろうな。
 一人置いて、皆で合わせているってことを避けたんだと思う。
 ――――」


何かをぽつりと呟いたみたいだった。
そして目の色には、先ほどとは違う暗い感情が混じっているように見える。

「澪ちゃん……りっちゃんと何かあったの?」

私の踏み込みに、視線が床に落とされる。

「……何かあったわけじゃない。私がどうしたらいいか分からないだけ」

「どういうこと?」



「今まで、私が一番律を知っているはずだったんだ。小さい時から一緒だったんだから」

「確か小学校の頃からだったかしら?」

「そう。あの頃から律は本当にだらしなくて、私も結構苦労してたよ。
 本当振り回されてばっかりで。
 それでも、好きだったし、一緒に居た」

好き、という言葉に思わず反応してしまいそうになった。
そんなことを言い出せる雰囲気じゃないのに。
そして、続きも大体予想出来てしまった。

「今は……勉強も真面目、テストは学年でもトップクラス、宿題を見せてあげることも無い。
 そればかりか部活も練習優先で、書類はちゃんと生徒会に提出するし……」

一旦、話を止めて大きく息を吐く。

「キーボードを……演奏するようになった。
 それこそ、今までの律がやってた軽音とは違うんだ」

つまりは、変わってしまった……ということ。

「別に、ムギを責めてるわけじゃないんだ……
 だらしなくて手の掛かる、って思ってたけど、そういう律はもう居ないんだ。
 こんなこと、律には言えないけれど……ちょっと寂しいな」


「素直に伝えたら、良いじゃない。
 りっちゃんはきっと、嬉しく思ってくれるはずよ?」

りっちゃんに引っ張られて、ということは過去に何回もあったんだろう。
そして、それを嫌に思う事はなくて。
私は、もっと素直に甘えてもいいんじゃないかと思っている。
りっちゃんなら、そんな気持ちをしっかり汲み取ってくれるはずなんだ。

と、りっちゃんがこちらの様子に気付き、近付いてきた。

「なーんのお話?」

「澪ちゃんが話がある、って」

背中を押してあげた。
多分こうでもしないと澪ちゃんは一歩目すら踏み出せない。

「澪ちゃん。りっちゃんは、りっちゃんよ。きっと大丈夫だから」

「……んじゃ、外行くか。澪」



顔が真っ赤になった澪ちゃんの手を引いて、りっちゃんが部室に戻ってきた。

「ムギ、サンキュ」

「どういたしまして」

満足して頂けたようでなにより。


一段落付け、スティックを置く。
ピアノとはまた違う、手と足を同時に動かす感触も大分掴めてきた気がする。

「そろそろ演奏やってみるか?
 もう私より正確だし、それに基礎連だけじゃ飽きるだろ」

「そんなことないわ。これでも十分楽しいもの」

音の無い世界に沈み溶け込んだ私にとって、このドラムは特別だった。
腕を伝わり、中心で広がる音。それが最高に心地良い。

「でもりっちゃんがそう言うなら、やってみようかしら」

「案外唯みたいに、けろっとやってみせたりしてな」

さすがにそんなに簡単にはいかないだろう。まだ二日目だ。
それでもやっぱり、一つ先のステップに進むことの嬉しさを感じられていた。


結果はさっぱりだったのだけど。
もうまるで訳が分からない。
両腕と足で違う3つの動きをする。リズムは単調だし、言葉にするのは簡単。
しかし、この3つ同時が厳し過ぎた。

「唯ちゃんみたいにはなれないのね……」

「気にするなムギ。律よりずっと素質あるって」

澪ちゃんの励ましが辛い。

「これは練習あるのみだからなー……
 でも慣れさえすれば、勝手に手足が動いてくれるものだしな」

「りっちゃんも、そうだった?」

力強く頷く。
不思議と、そんな気がしてくる。

「始めたばっかりなんだ。それにムギが凄いことは知ってるよ」

ただ元気を出させる為の一言であっても。

「私なんて、凄くないわ」

「そりゃ本人には分からない事だからな。
 少なくとも、私にそう思わせたんだから、ムギは凄いんだよ」

多分、りっちゃんはいつだって正しいんだ。
嘘が私をこんな気持ちにさせるわけない。
心に染み込むのは、彼女の言葉が真っ直ぐだからだ。

いつの間にか遠くに離れた澪ちゃんが、りっちゃんに見えないように手を動かす。

『律は、不思議だよな。何故か、そんな気持ちになってくるんだ』

だから澪ちゃんも、好きになるんだ。
この幼馴染コンビが羨ましい。


「それじゃ、私はここで」

皆と挨拶を交わし、別れた。
最近は練習に多く時間を取るようになり、完全下校寸前でバタバタすることも少なくない。
夏休みということもあり、電車内の人はいつもの顔ぶれとまた違う。

そのせいであるか、人の目は必ず一回は私の補聴器に向く。
今ではあまり気にすることでもなくなったけど、やっぱり不快なものは不快だ。
椅子にもたれ、目を瞑る。
目を開けていては、外を眺めようにも窓に反射してしまうからだ。
被害妄想と言われればそれまでだけど。

頭の中で今日の練習を反復しようとする。
自然に動く足に違和感を覚える。
公共内であるにも関わらず、自身の足が、はしたなく開いていた。

思えば、りっちゃんの座り方はいつもこんなだったような。
これがドラマーの性というものなんだろうか。
それが自然に出るということは、それだけの努力を今までしてきたからであって。
彼女は決して不真面目なんかじゃない。

知ることが無かったであろう彼女の一面を知れた事、ほんのちょっとだけ、この身に感謝したい。
ほんのちょっとだけだ。
生活はもちろん不便になったし、外を出歩くと一々心臓に悪いことばかり。
そんな私をサポートしてくれる仲間が居るのは、本当に幸せだと思う。


目を開け視線を窓に移すと、目的の駅まで着いていた。
慌てて降り、一息つく。


そう、感謝している。皆が大好きだ。


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最終更新:2011年04月18日 23:28