純「私は子供だ!」
『まあ、ちょっと悲しいこと、なのかな』
彼女の口をついて出たのはそんな言葉だった。それぎり声は続かなくて、待ちぼうけの耳にひゅうひゅうと風の凪ぐ声が流れ込んでくる。春色をした夕焼け空に、まだら雲が小波みたいに揺れた。
4月もすぐそこに迫っているというのに、雪でも降りそうなほど凍える日だった。かじかんだ指先がひりひりと痛み、音も無い吐息が濡れたアスファルトに染みていく。
「あ……純ちゃんには、関係ないことだった……ね」
消え入りそうな声で、必死に笑顔を取り繕いながら、瞼には雨が溜まっていた。
徐々に崩れる表情に自制をして、何度も笑顔を作ろうとしている姿に胸が締め付けられた。同時に高鳴りもした。
こんな弱い彼女を見たのは初めてだったから。
「憂」
吸い込まれそうになる綺麗な黒には、いつも見る透明さと優しさなんてどこにも見つからなかった。ただ、震える瞳の中に不安が揺れている。
愛おしい。助けてあげたい。
今弱い彼女を救ってあげられるのは私だけなのだ。
「駄目……だよ。純ちゃん」
「駄目じゃない」
私の手が指先に触れると、憂はびくりと震えてそれからうごかなくなった。
不安気なまばたきが二度三度、私の顔を捉えて、静かに歪んでいく。
冷たくなった指を手のひらで暖めながら、小作りな口元を丸ごとついばむように唇を重ねた。触れた唇の間から憂の吐息が漏れ出して、湯のように熱く私の頬を暖めていく。息が詰まる。必死だった。必死でキスをした。
憂は――
ブーッ ブーッ ブーッ ブーッ
「……」
目が覚めると、視界が壊れたレコードのように回っていた。乱雑な意識の中、びちゃりと滴る水音や炊飯器の唸る声が耳いっぱいに反響している。見慣れた電球から埃が舞い、朝日に照らされきらきらと光っていた。
(……憂)
容赦ない日差しに肌を焼かれていく感覚に、私は目を細める。
もう数年と会っていない彼女が、あのときのままで現れたことに驚いた。
私と憂、そして梓が高校を卒業して二年が過ぎた。
二人とは卒業以来、会っていないままだ。
「今日も暑くなりそうだなあ」
日焼け止めぐらい塗っておけばよかったか。と後悔しつつ、薄手のカーディガンを引っつかんだまま家を出た。
店に行く道すがら、桜ヶ丘高校の制服を身に纏った生徒達が三々五々学校へ向かっていく。ついこの間までは、私もその一人だったんだけどなあ。
いつも遅刻ギリギリに学校まで走って行ったっけ。
私達が卒業してから、憂と梓は先輩方のいる名門女子大に進学。そして私は訳あって就職という道を選んだ。
就職した、といっても殆どバイトのようなものだけれど。それでも未だ音楽に携わっている。
「鈴木先輩!」
懐かしい声が聞こえた気がして、首を巡らすと、得意げな顔でこちらを見上げている元後輩。
変わらないなあ、この子。
「お、おおう。久しぶり。元気だった?」
「元気も元気ですよ! そんなことより聞いてください、私部長になったんです!」
「へー。おめでとうおめでとう」
「冷たっ」
そんなことはない。盛大に祝っているつもりだ。これでも。
「中野先輩は激励してくれたのに」
「梓は苦労を知ってるからでしょ。がんばれー部長ー」
「先輩からは労いが感じられません!」
「部長、頑張ってね☆」
「それ平沢先輩の真似ですか……似てないにも程があります」
「あ、傷ついた」
というか、さっき何か言ってなかったか、こいつ。
「――ねえ、さっき中野先輩って言ってたけど、梓に会ったの?」
「え? はい。普通に。平沢先輩もいましたけど」
「マジで」
「えらくマジです」
そりゃあ同じ街に住んでいれば会いますよねー……。
すれ違ったことさえなかった私は一体。
「二人とも元気だったかあ」
「特に変わりはありませんでしたけど。……先輩、もしかして二人に会ってないんですか?」
痛いところを突いてきやがる。妙に鋭いし。いつもは無邪気でひたむきで能天気で私と同じ人種だと思っていたのだが、
唯先輩みたいだね、と梓がぽつりと漏らしたのはあながち間違ってないみたいだった。
「うん、その。連絡とってないっていうか」
「あれだけ仲良かったのに……ですか?」
「私だけ働いてるからかなー」
「そんなもので先輩方の関係が崩れるとは思わないんですけど」
なんか私の最後の砦があっさりと砕かれた気がする。
私だって、本当にそうおもっていたわけじゃない。
「わかんないなあ。どうしてこうなったのか」
「これが大人になるってことですか」
「そうだとしたら私は子供でいたいね」
「大人になってください、先輩」
わかってるよ。でも受け入れたくないんだ。変化って、怖いんだよ。
気づかないうちに私達は変わっている。口調だって、考えだって、行動さえも。
あの日。
憂にキスをしたあの日、私は変わってしまった。そして憂を変えてしまった。
だからもう、変わらなくたっていいのだと、そう思い込むことにしたのだ。
――――
「はよざいまーす」
「おはよう。あ、鈴木さん。ちょっと表掃いておいてくれる?」
「うーい」
私の仕事場は実家から二駅ほど離れた小さな楽器店。ああだこうだと御託を並べておきながら、まだ彼女らと近い場所にいる。
諦めが悪い人は嫌われるって言われたなあ。
「ま、嫌われても仕方ないことしたし」
箒とちりとりを巧みに操り、散った桜の花びらやらゴミやらを集めていく。
何とってるんですか?って聞かれたら、夢の欠片を拾ってるとでも応えようか。
そんなこと聞いてくる人なんていないけどね。
なんてことを考えながら箒でゴミを集めていると、突然白い手がにゅっと伸びてきて私の手首を掴んでいた。
冷たすぎるほど冷えた手。私の手で暖めていた指先。
この感触には覚えがある。
相手の顔も見れないまま、ひゅうと喉から息が漏れた。
「お勤めですか?」
「ま、まあ、その。そんなところです。はは……」
内心かなり焦っているが、冷静になろうとしてみる。
いや、ちょっと無理かなこれ。
「じゃあ、終わってから時間ありますよね?」
憂はニコニコ笑っている。約二年ぶりの再会だった。
あの日から二年も経ったのに、憂は私と同様変わっていないみたいだ。
いや、違う。ちょっと大人っぽくなったかな。
彼氏でもできたのかも。
「あ、まあ。はい」
「じゃあ待ってますから。ここで。終わるのを」
握られた手首に力が篭る。
逃げられないのだと、その冷たい手が物語っていた。
「あの、憂。わたし」
「待ってますね」
あれ。憂ってこんなにしたたかな子だったっけ。
昔は自分の欲望なんて二の次三の次だったのに…。
憂もまた、1人暮らしになると言っていたから、強くならざるを得なかったのかもしれない。
「じゃあ。また」
ぱっと右手が開放されて、どこまでも他人行儀な笑みを向けられた。
憂の姿が見えなくなるまで手を振って、それから一気に脱力する。
体中の気を吸い取られるような気分だった。
「……はぁー」
店前でしゃがみ込んだ。かさを増す通行人の目にも気づけない。
体が火照っている。温い風が頬を叩く。
口許を手で押さえながら、長細いため息をついた。
「綺麗に、なってたな」
変わらない私と違って、憂はどんどん大人になっていくみたいだった。
「惚れそう」
惚れそうじゃなくて、惚れてたんだけど。
惚れ直すってたぶんこういうことなのだと思う。
「仕事どころじゃないなあ」
まだ心拍数が跳ね上がったまま戻ってくれない。
ぺちぺちと頬を叩いて気合を入れる。仕事だ、仕事。社会人だ。仕事せねば。
仕事しろ、私。
って、意気込んだのはいいものの。
辺鄙な場所に立てられた店に客足なんて数えるほどしかないわけで。
早めに上がらせてもらった私は、早足で店を出た。
待たせるよりは待つほうがマシだ。
というのは建前。
遠足の前日みたいに、心が躍って仕方がなかったのだ。
私だって一人前に人肌恋しくなるときがあるから。
相手が憂でも、偶然旧友に会えたことに心の奥では喜んでいた。
「お待たせ」
「ううん。今きたとこ。――なーんて」
にやりと唇を吊り上げて笑う。にっこり笑いかけるつもりだったのに、気づけば口許が緩んでいた。
「純ちゃんったら」
やんわりと微笑む憂の横顔が春色に温まった夕焼け空に融けていく。
「少し歩こ」
「うん」
憂は笑ったまま私の手を取った。それから指を絡めてくる。吹き込んだ風の隙間を埋めるように、憂の冷たい指先が私の指の間をぬるりと這って、きゅっと締め付けた。
「恋人つなぎ。なんて、ね」
いたずらっ子みたいに意地悪な笑みを浮かべる憂の瞳は、炯々とした瞳をたたえて、奥に沈んだ勝気な感情がたゆたっていた。
私は無言のまま憂に手を引かれていく。流れていく風景が映写機のようにカタカタと音をたてて変わっていくだけで。
私の目は憂の表情を追うのに必死だった。
「ここ、なんだか懐かしい感じがする」
「地元と似てるからかもしれないね」
「だから純ちゃんはここに来たの?」
「そうだとも言えるし、そうじゃないとも言える」
「ヘンなの」
ふらふらと大した目星もないまま放浪していた私の目に止まったのは。
やっぱり彼女らと同じ空気を感じる、どこか懐かしいところだった。
ノスタルジィって、こういうこと?
「通学路に、似てるね」
「うん」
「寒くはないけど」
「……うん」
高校三年生の春。春なのに、その文字すら遠く薄らぼんやりとしていたあの日。
場所と気温さえ違うけれど、確かに私はここにいて、憂は隣に立っている。
「憂、あのさ。あの日、あの日にさ、」
「?」
「い、いきなり。……しちゃって、ごめん」
「何を?」
「キ……キス、とか」
「とか?」
「とか、抱きしめたり、とか」
言ってるうちに恥ずかしくなって、柄にもなく赤面した。
あの熱が舞い戻ってくるような気がしたのは、今繋がっている憂の手が、湿ってしまうほど熱かったから、
ということにしておく。
「憂の気持ちも考えずに、その、私だけが昂っちゃって」
「そんなことないよ」
憂は表情一つ変えずに、繋いだ手をきつく握り締めた。
「そんなことない。純ちゃんは優しかった。そしてね」
そして……と繰り返し呟いて、
「好きだったの。純ちゃんのこと」
えっ。
「…………えっ、マジ?」
「えらくマジだよ」
嘘だ。という言葉が出てこなくて、池の鯉みたいに口をぱくぱく開閉させるのが精一杯だった。
好きだった? 憂が、私を?
んなアホな。
「え、だってそんな女同士だし」
「私のこと好きになった純ちゃんも同じだよね」
「若気の至りだったとしても」
「まだ若いよー」
「その場のノリとか」
「そうだったら私、純ちゃんのこと嫌いになるなあ」
「嘘嘘、今のなし」
否定しようとして振りかぶった手は、憂と繋がったほうの手だった。
苦笑いしながら憂が言う。
「純ちゃん。顔、近い」
「あっ。ごめ――」
顔を上げると、憂の顔はすぐそこまで迫っていた。吸い込まれそうになる綺麗な黒。憂の性格とかその優しさが混ぜ込まれた、それでも綺麗な透明が水面でのたりのたり揺れている。
「駄目だよ、純ちゃん」
くすくす笑いながら、憂が言う。
私も思わず笑っていた。
「駄目じゃない」
憂が目を閉じた。ぎゅうと締め付けが強くなる右手を、離さないまま。
私の心も、締め付けられていくようだった。
かがみこむようにして、憂の唇に、自分のそれを重ね
「私もいるんだけどね」
「――どああああっぱぱああああああ梓!?」
「久しぶり。万年発情期犬」
ギターケースを肩に引っさげた、不機嫌そうに歪められた顔も変わらない。揺れるツインテールも相変わらずだ。
「ほんとは憂と一緒についてきてたんだけど、なかなか割ってはいるタイミングがつかめないし、もたもたしてたら二人は公衆の面前でキスしようとするし」
愚痴をおくびもなく出すのも梓らしいや。
「梓変わらないね。胸が」
「よし死ね」
「梓ちゃん。どうどう」
私がからかって、梓が怒って、憂が宥める。
なんにも、変わってなかった。
「ほら、いいから行こう。予約してるんでしょ?」
「……うん」
「え、なに? 予約って」
置いてけぼりも、変わらず。
「純が元気そうだったら、みんなで飲みに行こうって話してたんだけど」
舐めるように私を見上げて、じっとりした口調の梓はまた不機嫌そうに、
「まあこんな調子だし、意地でも連れてく」
「じゃあ私も意地でも行くわ」
「意地でも着いていくー」
梓を先頭にするという、ちょっとシュールな光景。
周りから見たら、面白おかしく見えただろう。
「ほんとはね、梓ちゃん、一番楽しみにしてたんだ。純ちゃんと会うの」
「分かってるよ。わかってるつもり」
「なら、いいんだ」
あの。そろそろ手を離しませんかね、憂さん。
手汗がやばい感じになっておるのですが。
「駄目だよ、純ちゃん。今日はこのままだよ」
「んー。うん。ま、いっか」
やり直そうなんざ思ってないけど。
ちょっとばかり、今後の展開に期待してみる。
成就した恋愛ほど記するに値すべきものはない、ってね。
「ねえ。まだ居座るつもりなの?」
騒がしかった飲み屋もいつしか人もそぞろになって、酒を飲んではくだを巻くサラリーマンのおっちゃんらが蔓延る時間帯になってしまった。
「まだまだ。あと、最低でも10分」
「なにそれ。というか、未成年は夜出歩いちゃ駄目でしょ。特に梓」
「未成年だからこそだよ、純ちゃん」
「保護者もいないのに、補導されても知らないからねっ」
19歳で補導もどうかと思ったが、梓ならありえる。
「保護者ならいるじゃん。ねえ、憂」
「うん」
え。
どうして二人とも私を見るの。
「「誕生日おめでとう。純」」
あ。
「ああ、私誕生日か!」
「ほらやっぱり忘れてると思った」
「へへー、梓ちゃん缶ジュース奢りー」
遊園地にいるみたいな高翌揚感に包まれていく。どうしたって、私はこの二人と縁が切れないらしい。
ああ、どうも。
どうしても無理みたいだ。
「ね、ほんとは私純のこと思って純が覚えてるだろうって方に賭けてたから私じゃなくて純が奢るべきだよねってなんで純泣いてるのほら久しぶりに会えて嬉しいのはわかるけどそんな号泣とかじゃなくてその、
よっしゃーじゃあ元部長の私の胸に飛び込んで来いってなんで憂なのよ、胸か! 胸の差か!」
明日で私は、二十歳になる。
最終更新:2011年04月24日 02:06