意外な事に、唯は自分の将来について不安を口にした。
高校に入った時も大学に入った時も、唯の頭には希望しかなかったように私には思えていた。
唯が話し始めると、今度は私が相槌をうつだけになった。
唯は自分の思考を言葉に換える事があまり上手くないけど、三年以上一緒にいる私には大体の意味が理解できた。
高校に入って部活を決める時、唯は「何かしなくちゃ」というある種の強迫観念に駆られていたらしい。
何をしたらいいかわからなくて悩んだ末の軽音部だったけど、結果的にこれ以上ないくらい楽しかったから、それは良かった、というような事を唯は言った。
大学に入ると、高校の時と違って、やるべき事、やりたい事ははっきり見えていた。
私はそういうものを「ドア」としてイメージしていたけど、唯は「宝箱」と表現した。
それを開けると楽しい事が飛び出してくるのも唯はわかっていた。
唯にとって新しい事と楽しい事はイコールで、それは私も同じだった。
唯は、宝箱を開ける順番が判らないと言った。
普通の人にも、例えば私にはドアという形で、宝箱は見えている。
とりあえず目の前にある宝箱を手当たり次第に開けていけば、真っ当な人生を歩めるようにこの世界は出来ている。
真っ当が何なのかはよくわからないけど。
唯の場合、見える宝箱の数が普通の人よりも遥かに多かった。
人生を何回繰り返しても開けきれないくらいに。
宝箱で埋め尽くされた平原は、唯を圧倒した。
正しい順番で開けていかないと、人の言う幸せを得られないと唯は考えた。
唯の悩みはさらにもう少し複雑だった。
「あずにゃんにね、聞いたことがあるんだ。私に彼氏ができたらどう思う?って」
梓はちょっと寂しそうな顔をしてから、「いいと思いますよ」と答えたらしい。
「私って恋愛しちゃだめなのかな?」
「考えすぎだよ。だめなわけないだろ」
「でも、あずにゃんは寂しそうだったよ」
梓が寂しいと思った理由はなんとなくわかる。
私も、前に律が、彼氏が出来たフリをした時は嫌な気持ちになった。
私に一言も相談してくれなかったこと、律が私の知らない世界に属してしまったこと、私達をないがしろにしたこと、全部嫌だった。
寂しさと不安と恐怖の区別もつかなかった。
嘘だとわかった時は、不覚にも安心してしまった。
「澪ちゃんは、私に彼氏ができたらどう思う?」
答えは梓と一緒だ。
ちょっと嫌だけど、でも「いいんじゃないか」と言うしかない。
女の子はみんなそういう風に出来てるのかも。
唯は言った。
「結婚できないかもしれない」
「一生キスもしないまま死んじゃうかもしれない」
「澪ちゃん、私、どうしたらいいんだろう」
私にはまだ憧れでしかなかったけど、唯には高校の部活と同じように「今やるべきこと」としてのしかかっていた。
「別に急ぐ必要はないんじゃないか?」と私が言っても、唯は納得しなかった。
かたっぱしから宝箱を開けるには選択肢が多すぎて、開ける順番を考えないと本当に楽しい事を取り逃すと唯は思っているらしい。
だから、唯はまず女の子の至上命題のひとつである恋愛、もしくはそれに似たものに絞った。
ところが、どの宝箱の中に入っているのか、唯にはわからなかった。
それが唯を余計に焦らせた。
それ以前に、開けること自体を悪徳だと思ってしまった。
唯の話を聞いて、私も怖くなった。
何かしなくちゃいけない。
私は恋愛できるのかな?
してもいいのかな?
誰かに怒られたらどうしよう。
「こうでないとダメ」っていうのは私達らしくなかったけど、もう私達の半分は大人で、そういう縛りに従順になりつつあった。
唯は私の手を握って、
「澪ちゃんはこういうこと考えたりしない?私だけ?」
と訊いてきた。
薄暗い部屋で切実な光を放つ唯の瞳には有無を言わせない説得力があった。
考えたことはなかった。
余裕じゃなくて無知なだけだった。
でも唯に言われて、私もその必要性に迫られている事を感じた。
和や憂ちゃんと同じように、私も唯の世話をするのが好きだ。
だから唯を覆う不安を取り除いてあげたくなった。
それに加えて、唯から私に伝染する不安を振り払わないといけないと思った。
暗がりの中で唯は身体を起こして、視線で私にすがってきた。
しばらく無言で見つめあった後、どちらからともなく慰めるような抱擁をした。
唯は、梓やムギ、それに律や和にもよく抱きついていたけど、私が唯とこういうスキンシップをするのはもしかしたらこれが初めてだったかもしれない。
でも私がいつも横で見ていたスキンシップとは違い、この時の唯からは悲痛な感じがした。
身体を離すと、唯はまた私の目を見た。
おでこを突き合わせると、唯の吐息が私の鼻にかかった。
それから私と唯は唇を重ねた。
大袈裟に鳴る心臓も、お決まりの恥ずかしさも、不安から逃げたいという気持ちと唯を助けたいという気持ちには勝てなかった。
後の事を考えられるほど、私も唯も冷静じゃなかった。
恋愛の代理ではなくて、ほとんどやけくそな行為だった。
何度も唇を重ねていると、自分の呼吸が荒くなっていくのがわかった。
最初は深く吸い込むように、それから段々と浅く、速くなっていった。
唯の舌が私の口の中に入ってきた時、もう私は考えるのを止めていた。
舌を吸い合ったり、歯の裏を舐めたり、そうやってお互いが気持ちよくなれる方法を探った。
唯の服の中に手を入れると、唯は一瞬身体を強張らせた後、自分から服を脱ぎ始めた。
私もラグランを脱ぎ捨て、下着を外し、唯と抱き合った。
脚を絡めると、唯の肌の弾力と熱で、自分よりずっと大きな何かに包まれたような安心を得られた。
その安心は、ほとんど快楽だった。
身体中を、あやすように触り、痛め付けるように舐め、自分の身体の新しい使い方を私と唯はひたすら探した。
私はすすり泣くような声を出し、唯は……いつもの明るくて柔らかい声とは違う、鉄琴の低音みたいに耳の奥に心地好く刺さる、少しハスキーな声を囁くように出した。
疲れ果てるまで行為を続けて、私はいつの間にか眠ってしまい、目を覚ましてから冷静になって、そして今こうしてみっともなく洗面所でうずくまっている。
他にやりようはなかったのかな?
不安から逃げて、唯を助けて、それにはああいうやり方しかなかったのかな?
唯を助けるなんていうのは途中から大義名分ですらなくなって、私は自分が気持ちよくなりたい一心で唯の身体を触っていた。
「う、うっ……」
それを思うと私はさらに気分が悪くなり、両手で口を押さえながらトイレにかけこんだ。
便座の蓋を開けてしゃがみこみ、底の溜水を凝視した。
私は咳き込んで、胃液だけを吐いた。
昨日食べたパフェはとっくに消化されちゃってるらしい。
「澪ちゃん?大丈夫?」
唯の声がする。
でも、唯の顔を見れない。
唯は可愛くて優しくて素直で、本当にいい子なのに、私はあんな事をしてしまって……いや、これは罪悪感なんかじゃない。
羞恥心だ。
この期に及んで、私は昨晩私の身体の至るところを触った女の子と顔を突き合わせるのを恥ずかしがっている。
「ごめん……唯……ごめん……」
しゃくりあげながら私が言うと、唯は私の背中を擦った。
「よしよし。澪ちゃん、大丈夫だからね」
「唯……ごめん……」
「はい、ティッシュ」
唯に促されるまま鼻をかみ、口を拭う。
「澪ちゃんは泣き虫だね~」
私は俯き、何も答えなかった。
また涙が流れる。
「うーん、わかんないなぁ」
唯が唸った。
何が……?」
顔を上げて、遠慮がちに唯を見た。
唯はもうちゃんと服を着ていて、頭はボサボサで、でもどこかすっきりした顔をしていた。
「私も澪ちゃんも、悪いことしたわけじゃないよね?」
「……悪いことじゃないの?」
「だってさ、楽しかったんだよ?そりゃあちょっとはおっかなびっくりだったけど」
「でも恥ずかしかったよ……」
「えへへ、私も~」
なんとか笑い返そうとした時、私のお腹が鳴った。
「あ……」
「お腹へったね。何か食べよっか」
そう言って唯は親指の腹で私の涙を拭った。
「澪ちゃん、タイくらい結びなさい」
「タイなんてないだろ……。それに唯、唯のほうこそ寝癖が酷いよ……」
私はようやく笑うことができた。
「コンビニ行く?あ、でも澪ちゃんお腹の調子悪そうだし……」
「大丈夫……。ご飯食べる」
昨晩、唯の開けた宝箱は、私の開けたドアは、正解だったんだろうか?
唯の望んだ宝箱ではなかっただろうけど、でも唯は嬉しそうだから、もうハズレでもいいのかな。
私は財布を忘れた事を思い出して、部屋のドアを開けようとした。
何度かドアノブを捻ったけど、さっき唯が鍵を閉めちゃったから開かなかった。
「澪ちゃ~ん!はやくー!」
唯はもう下まで降りていて、メガホンみたいに両手を口の前にあてて、部屋の前でもたつく私を大声で急かした。
とりあえず、朝食、いや、ランチかな?
そのぶんのお金は唯に立て替えてもらおう。
私は足を踏み外さないように、階段を一歩ずつ降りた。
私が自分の家に帰ったのは夕方になってからだった。
許可なしに外泊した事でパパとママは私をこっぴどく叱った。
夜になって、自分の部屋で机に向かい、私は携帯電話を開いた。
元々唯とは連絡をよく取り合っていたから、メール一覧のほとんどは唯か律だ。
その中から適当に唯のメールを開いた。
『そうそう!あのお店カワイイよね!私も気になってたんだ』
何て事のない内容だったけど、このメールを送ってきた唯にはもう会えない気がして悲しくなり、私は机に突っ伏した。
お風呂に入るのも億劫だしこのまま寝ちゃおうかな、と目を閉じながら思っていると、携帯が鳴った。
起き上がって、メールを開く。
唯からだった。
『今日はありがとう。昨日のことはみんなには言わないから大丈夫だよ!』
みんなに隠すってことは、唯もあれがどういう事だったのかちゃんと理解してるんだ。
「悪いことをしたわけじゃない」なんてのは、都合のいい呪文でしかないんだ。
「泣いちゃってごめん。月曜はレポートの提出だからちゃんとやるんだよ。おやすみ」と返信して、私は携帯電話を閉じた。
落ち着かない。
パソコンを立ち上げ、ヘッドフォンを着ける。
ペンを持ってノートを開く。
ペンで机の上をコンコンと叩きながら、ヘッドフォンから流れる曲に耳を澄ませる。
でも、ムギが書いてくれた可愛い曲に合いそうな歌詞はまるで浮かんでこない。
内腿を擦ると、昨日の唯の顔が頭に浮かんだ。
私はそれをかき消そうとして、音楽のボリュームを上げた。
次に唯に会うのは月曜日。
結局私はお風呂に入らないまま寝て、一日を短くした。
『8月5日』
月曜になり、大学の事務室のポストにレポートを提出したあと、私は大学の側にある喫茶店に入った。
まだ前期試験期間中で、私は先週で全日程を終えていたけど、三限目が終わった直後ということもあって店内はほとんどウチの学生で席が埋まっていた。
ムギの家の系列の喫茶店みたいにオシャレじゃない、安かろう早かろうなチェーンの店だから落ち着いて話せる雰囲気じゃない。
普段なら、私もバンドのみんなもここを利用することは滅多にない。
それが好都合で、私はこの店を選んだ。
「すみません曽我部先輩、遅くなりました」
「ううん、私も今来たところだから」
曽我部先輩は立ち上がって上座を私に譲ろうとしたけど、私は遠慮して下座に座った。
先輩からメニューを受け取ると、私は紅茶を注文した。
「それで、相談って?」
「あ、相談ってほどのことでもないんですけど……」
語尾を濁して私が何も言わないでいると、気を利かせて先伸ばしにしようとしてくれたのか、曽我部先輩は天気の話、サークルの話、就活の話を始めた。
少しして、店員が紅茶を運んできた。
私はシュガースティックを一本とレモンポーションを入れて、一口だけ紅茶を飲んだ。
レモンの果汁が混ざりきってなくて、私は先輩の前で顔をしかめるのを我慢しなきゃいけなくなった。
「ケーキも頼む?」
「いえ、大丈夫です。こないだちょっと甘いもの食べ過ぎちゃったので」
「あら、ダイエット?」
「……はい」
「そんなことしなくても、秋山さんかわいいのに」
私は曽我部先輩が苦手だったけど、大学に入って律を介して何度か会う機会があって耐性がついたのか、以前ほど抵抗を感じなくなっていた。
でもこういう風に面と向かってかわいいとか言われるとやっぱり反応に困る。
ていうか二人きりで会うのはこれが初めてだし、緊張する。
「あ、真鍋さんは元気にしてる?私、最近連絡とってなくて」
「あ……はい。和はとっても元気です!」
「とっても、なんだ?」
口元に手を当てて、曽我部先輩はくすくす笑った。
「えっと、和とはこないだご飯一緒に食べて、なんだっけ……唯の面倒よろしくって言われました」
「唯ちゃん、危なっかしいもんね」
「そ、そうなんですよ」
なんだこの会話。
何しに来たんだっけ、私。
しばらく和の話をした後、曽我部先輩がまた切り出した。
「……それで、話は戻るけど、相談ってなに?」
「えっと……」
「もう少し世間話する?私は澪タンと話すの楽しいからいいけど」
「あ、いえ、言います。ちゃんと言います。ていうかその呼び方は……」
「ふふ、ごめんごめん」
私は深呼吸してから、曽我部先輩に訊いた。
「先輩は、私に彼氏ができたらどう思いますか」
曽我部先輩は一瞬驚いたような顔をした。
「えっ?秋山さん、彼氏できたの?」
「あ、いや、ちが、違います!そうじゃなくて……ちょっと訊いてみたかったっていうか……」
曽我部先輩はコーヒーを一口飲み、カップを置くと、両手をテーブルの前に置いて困ったように笑った。
「秋山さん、もしかして私のこと同性愛者だって誤解してない?」
「そ、そういうわけでは……」
「秋山さんに彼氏ができたら……かぁ。そうね、嬉しいわ」
「嬉しい、ですか?」
「大人になったんだなぁ、って。しみじみ、ね」
「はぁ……」
「でもちょっと寂しいかな」
やっぱり。
「ファンクラブの子達は、どうなんでしょうか?」
「正直に言っていいの?」
「はい。お願いします」
「私みたいに嬉しい、って思う人もいれば、失望しちゃう子もいるかもね。ファンをやめちゃったり」
多分そうなんだろう。
唯とあの話をして初めて気づいたけど、私が貰っていた愛情は条件付きのものなんだ。
汚れていない私でいる事が条件なんだ。
もっと言えば、「こうあって欲しい
秋山澪」を私が守っているっていう大前提。
それを反古にしたら、しゅるしゅるって消えちゃう愛情。
私が、例えば律に向けていたものも、それに近かったのかもしれない。
「曽我部先輩は、恋愛って汚いと思いますか?」
最終更新:2011年04月28日 00:18