……って、訊き過ぎだ、私。
勢い余りがちなこの悪癖は中々治らない。
「え……?ええと……私もまだ大学生だし、人に言えるほど経験があるわけでもないから、ごめんなさい、それはわからないわ」
「そうですか……」
「恋愛したいの?」
「今したいってわけじゃないんですけど」
「しちゃいけないんじゃないか、と思ってるとか?」
「……そう、です。はい。そういうことだと思います」
別に恋愛に限ったことじゃない。
私の行動全てが、重い粘着質の鎖か縄みたいなもので制限されている気がする。
もちろんそれを無視する権利もあるんだろうけど、みんなにそっぽを向かれるかもと思うと……。
「誰かに何か言われたの?」
「いえ、自分で勝手に思っちゃっただけなんですけど」
「しちゃダメってことはないと思うわ。少なくとも、私は秋山さんにはちゃんと恋愛でもなんでもして、いい大人になってほしいって思うから」
子供扱いされてる、と思った。
でも嫌な気はしなかった。
和が頼りにしていただけあって、曽我部先輩には独特の包容力があった。
「あ、じゃあ私の男友達を誰か紹介する?」
「ええっ!?そ、そんな、結構です!は、二十歳になってから!それまでそういうのは、あの、その……」
「……と言っても私の友達には、秋山さんに相応しいような人がいなかったわ」
そう言って曽我部先輩は肩をすくめて笑った。
私は笑っていいものかどうかわからず、俯いてしまった。
結局、私の悩み事は解決しそうにない。
そもそも悩み事の正体がぼんやりしすぎている。
「どうして私に相談したの?りっちゃんとか、バンドのみんなのほうが秋山さんのことはよくわかってそうだけど」
「みんなに言っても茶化されるだけです」
曽我部先輩を選んだのは、この人が一番私を知らないからだ。
知らないのに好意を持ってくれている。
とびっきりの条件付きの好意を。
実際は私が思っていたよりも冷静に私を見てくれていて、きっとそれは私と話す機会が高校の時より増えたからだ。
私は憧れの偶像ではなくて、一人の後輩で、友達になったんだろう。
それと、みんなには訊けなかったから、というのも人選の理由だった。
唯とあんな事になってしまった以上、少しでもそれを匂わせるような事は避けないと。
唯ならうっかり口を滑らせかねない。
「秋山さん?顔色悪いよ?」
「すみません、ちょっと、御手洗いに……」
私は席を立ち、トイレに入り、さっき飲んだ紅茶を吐いた。
これからみんなに対して、隠し事を続けなきゃいけないと思うと気分が悪くなった。
何より、もう一度唯とああいう事をして、不安を解消したいと思う自分に吐き気がする。
私がトイレから戻ると、曽我部先輩はもう帰る準備をしていた。
「秋山さん、大丈夫?」
「はい、大丈夫です」
私はお腹を押さえて、生理のフリをした。
「ごめんね、私この後サークルの話し合いがあるの。続きはメールでも電話でもちゃんと聞くから……」
「いえ、こちらこそわざわざありがとうございました」
「お代はさっき払っておいたから、秋山さんはゆっくりしていってね」
私は慌てて財布を取り出した。
「あ、そんな、悪いですよ。ちゃんと払います」
私が自分の紅茶代を渡そうとすると、曽我部先輩は手でそれを制して、小さく手を振って店から出ていった。
「行っちゃった……」
私は仕方なく席に戻り、冷めきった紅茶を飲んだ。
次に誰かとお茶する時にトイレに行くなら、伝票を一緒に持っていかないとだめだな。
店の中からぼんやり外を眺めると、うちの大学の学生らしき女の子と、その子の彼氏と思われる男の子が楽しそうに歩いているのが見えた。
あの女の子が今どういう気持ちなのか、私にはよくわからない。
ちょっと刺激が強そうだけど、悪いことをしてるようには見えない。
私は窓から顔を背けて、さっきまで曽我部先輩がいた正面の席を見た。
いたずらに怖がってたけど、律の言う通り、いい人だったな、やっぱり。
大人っていうか。
もう苦手意識なんてないかも。
携帯が鳴る。
メールを開くと、曽我部先輩からだった。
『澪タン、またいつでも呼んでね!悩んでる澪タンもかわいかったよ!』
私は返信せずに携帯電話を閉じた。
……やっぱり苦手だ、曽我部先輩は。
バンドの練習まではまだ少し時間がある。
とりあえずここで時間潰すしかないかな。
私はスプーンで紅茶をくるくる混ぜてから、くっと飲んだ。
紅茶を飲み干しても、カップの底には焦げた茶葉が残った。
メニューを手に取り、ケーキを頼むのを我慢して、紅茶をもう一杯注文した。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
唯は私と違って、本当に悪びれない。
喫茶店で時間を潰した後、スタジオでの練習が終わって、みんながいる中、唯はベースを仕舞う私の肩をつつき、そっと耳打ちした。
「ね、澪ちゃん、一緒に帰ろ?」
みんなに聞こえないように私にだけ言うって事は、きっとそういうことなんだろう。
私はどうするべきか迷った。
あの日だけならものの弾みとか何かの間違いとか、そういう言い訳ができるけど、二回目をやらかしてしまったらもう後戻りはできない。
三回目、四回目を唯はせがむようになるだろうし、私もしたくなるに決まってる。
私が何も言わないでいると、唯は顔を曇らせて、
「あっ、ごめん。い……イヤ?」
と申し訳なさそうに言った。
私はあの後、唯としたことを何度も思い返しては恥ずかしさでベッドの上をのたうち回ったけど、その一方で唯からお呼びがかかるのを心待ちにしていた。
初めてベースを触った時みたいな、世界が一新されたあの感覚を反芻すると、どうしても嬉しくなってしまう。
「うぅ……ダメでしょうか?」
唯は指をもじくさと弄りながら伏し目で言った。
『悪いことをしてるわけじゃない』と自分に言い聞かせてから、私は答えた。
「いいけど、みんなとご飯食べてからな。せっかく梓もいるんだし」
唯は笑顔を見せると、ギターケースを肩にかけ、梓のほうに駆け寄っていった。
梓は私達が卒業したあと、鈴木さんと憂ちゃんと一緒にバンドを組むことにしたらしい。
新入部員も入り、なんとか廃部を免れ、ごたごたが落ち着いた最近は、梓も時々私達に混ざってスタジオで練習するようになった。
「梓ちゃん、学祭のほうは順調?」
唯にまとわりつかれる梓に、ムギが訊ねた。
「はい。ばっちりです」
梓はムギにそう言ってから、律の顔を見て意地悪く笑った。
「ちゃんと練習してますし」
「なにぃ?まるで私達はロクに練習してなかったみたいな言い方だな?」
律が梓の肩に腕を回しながら言った。
「してなかったじゃないですか」
「ほぉう?だらけても怒らないから~って泣いちゃったのは誰だったかなー?」
「そ、そんなの覚えてません!」
「写真に撮っておけば良かったな~」
「もう!しつこいですよ律先輩。そのネタ何回目ですか」
卒業式の日に梓が泣き出してしまったことも、今となっては冗談にできた。
それくらい梓は今の軽音部を楽しんでいたし、いつでも私達と演奏できるという事が梓を安心させたみたいだ。
梓の当面の目標は10月のライブで、私達との練習は気晴らしというか息抜きというか、きっとそんな感じ。
「ほら、もうスタジオ出るぞー」
スタジオの重いドアを開けて、私はみんなを急かした。
ムギがどうしても食べてみたいということで、私達は最近駅前にできたもんじゃ焼き屋に向かった。
事前に調べておいたのか、ムギはもんじゃ焼きの焼き方を知っていた。
キャベツベースの具で鉄板の上にドーナツ状の堤防を作り、火が通ったところで真ん中に汁を流し込む。
ムギが嬉しそうにその作業をしているのを、私達は感心しながら眺めた。
「はい!完成!……だと思う」
お好み焼きと違って、もんじゃ焼きははっきりとした型にならないから、完成のラインがよくわからない。
「じゃ、食べようぜ」
「お~」
唯と律は小さい金属のヘラで、具と汁を混ぜ、鉄板に押し付けて焦がしてから、それを口に運んだ。
「おいしい~!ムギちゃん上手だね」
ありがとう、とムギは笑顔で返した。
梓とムギも食べ始めたので、私もヘラを使って具を焦がした。
「……熱っ!」
口に入れると、熱した汁で私は舌をヤケドした。
「ははは、食い意地はってるなー澪は」
うるさい。
律には言われたくない。
それから四玉ほど追加注文をしたけど、お腹はほとんど膨れなかった。
「美味しかったけどなーんか食った気しないなぁ」
店を出たあと、律がぼやいた。
帰り道、途中で私と律は唯達と別れた。
律と内容のない会話をしながら歩いてると、バッグの中で携帯が震えた。
唯からだ。
「もしもし?」
「澪ちゃん、今ひとり?りっちゃん隣にいる?」
私は律のほうをちらっと見てから、何食わぬ顔で「うん」と答えた。
「えっと、今日どうしよっか。りっちゃんと別れたあと、私の部屋に来れる?」
唯は声を潜めた。
「うん。大丈夫。じゃあ」
私は事務的に聞こえるように意識して言ってから、電話を切った。
「ん、誰から?」
私は律の顔を見ないで答えた。
「ママから。早く帰ってきなさい、だって」
「そっか」
適当についた嘘だったけど、そのおかげで律は少し歩みを早めてくれて、私にとって都合が良かった。
律と別れた後、私は駆け足で家に帰り、ベースを部屋に置いて、ママに「友達の家でレポートやってくる」と言って、自転車に乗って唯の部屋に向かった。
あれほど悶々としていたのに、いざ唯のところに行けるとなると、私の心は躍った。
「えへへ、いらっしゃい」
息を弾ませた私を、唯は笑顔で出迎えてくれた。
シャンプーの匂いがする。
唯はもうお風呂も済ませたらしく、あの変な文字が書かれたシャツの寝巻きを着ていた。
「あ、ジュース飲む?お菓子、えっと、チョコとかあるけど食べる?それともテレビ見よっか?何か欲しいものある?」
憂ちゃんと違って、人をもてなす事に慣れていないんだろう。
唯はキョロキョロしながら、頭に浮かんだ事をかたっぱしから口にするような聞き方をした。
「ええと、水でいいよ」
唯は私からもてなしの答えを貰えて安心したのか、少しだけ落ち着いた様子でグラスに水を入れて私に手渡した。
私はベッドの横に座り、水を一口飲んだ。
高校の時から、唯の作る部屋が私は好きだった。
ベッドの形や布団の柄、照明の形、カーテンの色、置かれた人形、その全部が可愛い。
私も可愛いものは大好きだし、こういう部屋にしてみたいけど、自分にはちょっと合わない気がしてなかなか踏み出せない。
自分の好きなものを迷わず置ける唯の素直さが、少し羨ましい。
表向きの私と唯は真逆の性格だけど、可愛いものと楽しいものに対する感覚はよく似ていた。
初詣で唯に「可愛い」と言われた時は、証明書でも貰ったような気持ちになって嬉しかった。
「澪ちゃん、テレビ観ようよ」
唯はリモコンでテレビをつけたかと思うと、チャンネルを回し始め、それからまたすぐに電源を切った。
落ち着かない唯を見て、私もそわそわし始めた。
なんでこんなに急いで来たんだろう?
決まってる。
この前と同じことを唯と出来ると思ったからだ。
恥ずかしさと罪悪感に苛まれていたはずなのに、私はそれが楽しみで仕方ないんだ。
で、ここに来たはいいけど、どうやって事を運べばいいんだろう?
ていうか運んじゃっていいのかな?
今日もああいう事をしちゃったら、それはもう常習化するのを許したのと同じになってしまう。
唯はどうするつもりなんだろう?
ベッドに腰掛ける唯を見ると、唯もどうしたらいいのかわからないらしく、指先を弄ったり携帯を開いたり足をぱたぱたさせるだけで、何か言ってくる様子はない。
こうなった以上、私から何か言うべきなんだろうか。
でも何て言えば?
いきなり触るのもどうかと思うし、ていうかそんな度胸私にはないし、恥ずかしいし。
この前と同じ状況を作るとか?
将来の話をして、自分を不安に追い込む、みたいな。
……なんだ、もうする事を前提に考えちゃってるな、私。
「あ、マンガ読む?」
唯は棚にあったマンガの中途半端な巻を私に差し出した。
「うん、読む」
私はそれを受け取って、ページを開いた。
マンガの内容は全く頭に入ってこない。
なんで唯相手に緊張しちゃってるんだ私は。
唯は手持ち無沙汰を感じたのかスタンドからギー太を取り、ベッドの上で演奏を始めた。
いつも以上に間違いまくって、気恥ずかしそうに私の顔を伺う。
私もただ苦笑するだけ。
ページをパラパラめくっているうちに、口の中が渇いていくのを感じて、私はまたコップの水を飲んだ。
「あっ、シャワー!」
私は立ち上がって言った。
「え?」
「シ、シャワーかして!」
声が上擦る。
「あ、うん」
唯にバスタオルをもらい、洗面所で服を脱ぎ、私は浴室に入った。
シャワーヘッドから出るお湯を、目を閉じながら顔に浴びる。
そう言えばこの前は身体を洗ってなかったな。
どうしよう、汗臭くなかったかな。
唯は何も言ってこなかったけど。
途端に叫びたくなるくらいの恥ずかしさが襲ってきた。
んーっ、と外に漏れないように口の中で私は叫んだ。
ハンドルを戻してシャワーのお湯を止め、滴る水の音に耳を澄ませると、少しだけ落ち着くことができた。
ふぅ、と息を吐いてからシャンプーを手にとり、掌で泡立たせた。
浴室にハーブの匂いが広がる。
唯の匂いだ。
私は髪を洗った後、シャンプーの入れ物を手に取った。
よくわからない言語……多分フランス語で書かれたラベルを見て、ムギに貰ったと唯が言っていた事を思い出した。
身体を洗って浴室から出て、唯に借りた高校のジャージを着た後、私はタオルで髪を拭きながら部屋に戻った。
「澪ちゃん、ジャージも似合うね」
「いや、同じのつい最近まで着てただろ……」
「ドライヤーここにあるよ!乾かしてあげよっか?」
「え?あ、ええと……自分でできるから……」
「えー」
「自分で乾かすからっ!じ、自分で」
私はひったくりみたいに唯からドライヤーをもぎ取った。
私が髪を乾かしている間、唯はベッドの上で寝転がったり起き上がったりカーテンの隙間から外を見たり、とにかく落ち着かない様子だった。
乾かし終わってドライヤーのスイッチを切ると、部屋には何の音もしなくなった。
私はベッドの横に小さく体育座りをして、いよいよどうしていいかわからなくなった。
唯はベッドから起き上がり、部屋の中をうろうろし始めた。
いっそこのまま帰っちゃおうか。
こんなんじゃ、もう今日はできそうもない。
そう思うと、身体が萎んでいく感じがした。
最終更新:2011年04月28日 00:19