家に着き、携帯電話を開くと唯からメールが来ていた。
『今日ちょっと風邪ひいて寝込んでるからえっちできないや~。ごめーん!』
相変わらず身も蓋も無い物言いだ。
メールを開くまであった期待はパッと消えて、私は肩を落としながら返信した。
『いいよ。風邪大丈夫?看病しに行こうか?』
『憂が来てくれてるから大丈夫だよ』
『わかった。お大事に。憂ちゃんに風邪うつしちゃダメだよ』
携帯を閉じようとして、着信がきた。
律からだ。
「もしもし?」
「澪、CD忘れていってるぞ」
「ああ、借りようとしたやつか。今度律の家行くときでいいや」
「そっか」
「それだけ?」
「あ、いや」
躊躇したのか、律は少し黙った後に言った。
「澪さ、明日ヒマ?さっき言ってた林間学校のとこ、行ってみようぜ」
「はぁ?まぁ、暇だけどさ、別にそこに用があってあの話をしたわけじゃ……」
「じゃあ決まり!んじゃな、また明日~」
そう言って律は一方的に電話を切った。
釈然としないまま、私は律に貸すCDを探した。
机の上、本棚、ラック、バッグの中。
「あれ?どこにしまったっけ」
あるはずの物がなくて、ふと、今いる部屋が自分と無関係な空間に思えた。
でも大丈夫。エリザベスはちゃんとあるし、ここは私の部屋だ。
『10月2日』
律に昔話なんてしたのが間違いだった。
律の言う明日というのは日曜で、丸一日時間がある。
唯が風邪を引いて寝込んだままで、あの部屋に遊びに行けないからだ。
あまり気乗りしなかったけど、ここのところ行き詰まってる作詞のヒントになるかもと思い、私は律の誘いに乗った。
朝、バス停で律と待ち合わせをして、一時間かけてその施設の近くまで行った。
車窓を流れる風景はどんどん緑が多くなっていって、目的のバス停に着く頃には山と田畑だけになっていた。
気乗りしてなかったくせに、風景が変わるにつれて私は不覚にもワクワクしてしまった。
降車時に運賃を払う際、律はカードのチャージを切らしてしまっていて、私は慌ててすぐに立て替えた。
他の降車客に迷惑が掛からないようにそうしたつもりだったけど、バスを降りてから、私達以外に客なんていなかった事に気づいて少し恥ずかしくなった。
携帯で番号を調べて、私達はタクシーを呼んだ。
タクシーは20分くらいで到着した。
施設の名前を告げると、運転手は「あそこはもう建物があるだけで、閉鎖されてるよ」と言った。
県営の施設だったため、県の財政が悪化したせいで閉鎖になったらしい。
「あ~、別にいいです。行ってください」
律は構わずそう言った。
運転手は肩を竦めてからアクセルを踏んで、車はゆっくりと走り出した。
車内に煙草の匂いがこもっていたので、私は口で呼吸をしなきゃいけなくなった。
「ん?何口パクパクさせてんの?」
不自然な呼吸をする私を見て律が訊いてきた。
「あ、いや……」
私が鼻をつまんで車内の匂いの事を律に示すと、ミラーで見ていたのか、運転手は笑いながら全部の窓を開けた。
「すみませんね。この子バンドのボーカルやってるから、煙草はダメなんですよ」
律はなぜか嬉しそうに運転手に言った。
煙草の匂いとボーカルは関係ないだろ。
吸わなければ多分大丈夫なはず。
「ていうか律、廃館なんだろ?行く意味なくないか?」
「だってここまで来ちゃったし。それに廃館なんてワクワクするじゃん」
「怖いだけだろ……。私は入らないからな」
「へいへい」
三十分ほどで施設の広い駐車場に着いた。
私達は運転手にタクシー会社の電話番号が書かれた名刺を貰った。
帰りはこの番号に電話すればいい。
山の中だけど、一応携帯の電波は入っている。
山中と言っても、木々が鬱蒼としているわけではなく、施設の敷地内は拓けていて、霧もかかってないから見晴らしがよかった。
空には薄く伸びた雲が少しある程度で、よく晴れている。
想像していたのとは違い、気持ちのいい場所だ。
引き返して行くタクシーが見えなくなり、その車音も聞こえなくなると、辺りは鳥の声と風の音だけになった。
「じゃあ行くか」
律は私の手を引いて、施設の入口のチェーンを乗り越えた。
前に来た時は建物の形なんて意識してなかったけど、長方形の建物は洋風でも和風でもなく、ただの容れ物といった感じで、白いコンクリートの壁が無機質な印象を抱かせた。
可愛く造る気なんてさらさらなかった感じだ。
「って私は入らないってば」
「ここまで来てそりゃないだろ」
「律が誘ったんだろ」
「だーいじょうぶだって。なんも出ないから」
律はそう言いながら施設の観音開きの大きなドアを押した。
「ありゃ。閉まってんじゃん」
「そりゃそうだろ。閉鎖されてるんだし」
「よーし!澪!そのへんに石ないか?ガラス割って入るぞ!」
「おい律!」
私が咎めると、律は指で頬を掻きながら笑った。
「冗談だって」
「まったく……」
「とりあえず散歩でもするか」
律は私の手を離すと、勝手にすたすた歩き始めた。
実際散歩以外にここで出来ることなんてなかったから、私もそれに付き合うことにした。
律と並んで施設の周りをぶらついていると、私はなんだか昔の自分が形を失っていくような感覚に襲われた。
廃墟というほど建物が老朽化しているわけではないけど、閉じた窓から覗く内部は、空気が押し込められているみたいだ。
コンクリートの地面の亀裂から雑草が生えている。
車が一台も停まっていない駐車場は、なんのためのスペースなのかもうわからない。
本当に誰もここを管理していないらしい。
青春の一ページというほどの思い出がある場所ではないけど、自分の関わった場所が風化する様を見るのは、あまりいい気持ちにならない。
それでも街を一望できるくらい眺めは良かったから、私はバッグからカメラを取り出して、何枚か写真を撮った。
「そろそろ帰る?」
私が写真を撮っていると、駐車場のチェーンを結ぶポールに座りながら律が言った。
「飽きるの早すぎだろ……」
「だってなんにもねーじゃん」
「だから言っただろ。もうちょっと撮ってから」
「はーいはい」
それきり律は何も言わなくなった。
少しして写真を撮るのに満足した私は、さっき貰った名刺に書かれた番号に電話をしてタクシーを呼んだ。
バス停まで乗せていってもらい、そこからはまたバスに乗り、桜ヶ丘に帰ってきた。
「まだ3時だぜ。どうする澪?」
「うーん……」
「とりあえずさ、お腹空かない?」
律がハンバーガーショップを指差して言った。
遠足みたいなものだったのに、私も律もお弁当を持っていくという発想がなかった。
そのせいで私もお腹がぺこぺこだった。
私達はマックスバーガーに入り、注文したものを受けとると、席についた。
「澪さ、最近よく食べるよな」
「そうか?」
「前ならそんな油っこいのは太るから~とか言って食べなかったじゃん」
特大のハンバーガーを食べ終えてから私は答えた。
「最近太らなくなったからな」
「へえ」
唯と遊び始めるようになって、私は体重があまり変わらなくなった。
唯のそういう体質が、遊びを通して伝染したのかな、なんて考えたこともあったけど、多分単純にベッドの上で運動してるからってだけだろう。
それと、多分心労だ。
二十四時間、唯と遊んで、そのことだけに頭を使うことができれば楽なんだろうけどそうもいかない。
朝起きて大学行って勉強してバンドの練習をして、そういう日常を放り出すわけにはいかなかった。
隠し事をするのにもやたらとエネルギーを使う。
だから栄養はきちんととらなきゃいけないんだ。
へにょへにょってならないように。
マックスバーガーを出て、私と律は楽器屋に入った。
お気に入りのバンドの新譜を買っても、律はどこか浮かない顔だった。
「明後日、学祭だなー」
帰り道、律が言った。
「梓達のバンド、楽しみだな」
「うまくやってくれるといいけどなー」
「梓はしっかりしてるし大丈夫じゃないかな」
「あいつまた上手くなってたな」
「ちゃんと練習してる証拠だよ。誰かさんと違って」
律は聞き流すような笑い方をして、それきり何も言わなくなった。
私は律ともう何年も一緒にいる。
だから律の様子がいつもと違うことにすぐに気付いた。
……すぐにっていうのは違うか。
よくよく思い出してみると、律は朝からどこか上の空だったんだし。
律が行き当たりばったりで行動するのはいつものことだけど、それにしたって一貫性がない。
強引に私を誘ったわりにあの施設に対してもあまり興味がなさそうだった。
しばらく黙ったまま歩き続けて、私は切り出した。
「今日の律、なんか変だぞ」
「え?そう?どこが?」
「どこがってわけじゃないけど」
「別に変じゃねーし」
そう言われると、余計に変な気がした。
でも律が言いたくないなら無理に問い詰めるのも良くないか。
はぁ、と息を吐いて、律が言った。
「あ、そうだ。澪さぁ」
思い出したような言い方がわざとらしい。
なんだ、結局言うのか。
「何?」
「ええと……怒るなよ?」
律が口ごもると、私はじれったくなった。
「何だよ」
律は私の顔を見ないで、前を向いて歩きながら言った。
「澪さ、最近唯の部屋に通ってんの?」
急に頭の中が真っ白になった。
思考が全部風に吹き飛ばされて、身体の真ん中に点いた火が延焼して全身の皮が一気に焼け上がった気がした。
私がなんとかひり出した返事は、
「は?」
と、ただ一言。
歩くペースだけはどうにか律に合わせ続けることができた。
律は声を震わせて、でも飄々とした感じなるように言った。
「いや、悪気はなかったんだよ。なかったんだけど、あー……ごめん。メール見ちゃってさ」
私は口を開けたまま何も言えなくなった。
タクシーの中でしていたような、口呼吸。
いや、息を吸えていないから、本当にただ口を開けているだけ。
「前に澪がウチに来た時にさ、澪がトイレ行ってる間に携帯が鳴って、唯からのメールで、えっと、それからなんだったっけ」
律の歩くペースが少し早くなる。
「知らない人だったらさすがに勝手に見たりしないけど、唯だったし、何も考えないで見ちゃったんだ」
私は律の腕を引っ張り、歩くのをやめさせた。
「何て書いてあったんだ」
気圧されたのか、律は私と目を合わせようとしない。
「何って……」
「言えよ」
顔を赤らめて、律は答えた。
「いや、その……エッチがどうとか……」
怒鳴り付けてやりたくなった。
顔を殴って組伏せて、「何で勝手に見たんだ」とか「デリカシーはないのか」とか「最低だ」とか、言葉の限りを尽くして律を罵倒してやりたい衝動に私は駆られた。
それと同時に、今すぐ地面に頭を擦り付けて許しを請いたくなった。
「隠しててごめんなさい」、「いやらしいことをしてごめんなさい」と、なりふり構わずに謝りたくなった。
結局そのどちらも出来ずに、私は黙って律の腕を掴み続けた。
「ごめん澪。ホントにごめん」
私が腕の力を強めて、睨むわけでも泣き出すわけでもなく律の顔をじっと見ていると、律は慌てて話し出した。
「あ、違うって!別に責めてるわけじゃないんだ!えぇっと、唯と澪が付き合ってんなら、私はそーゆー趣味はよくわかんないけど、ちゃんと応援するし!」
は?付き合ってる?
そんなんじゃない。
私も唯も恋愛がなんなのか、まるでわかってない。
「付き合ってるとかじゃないって」
声が震えて、自分が情けなくなった。
律は、メールを勝手に見た事に対して私が怒ると思っていたんだろう。
実際の私の反応が律の予想と違って、律は明らかに動揺しはじめた。
「あ、そ、そっか!よくわかんないけど、私はそういうの気にしないし、なんていうか、相談にも乗るし。あー、でも梓には言わないほうがいいかも……」
私は何も答えなかった。
律の腕を離して、私は勝手に歩き始めた。
「ちょっ、待ってってば澪」
律はパニックになってるけど、私も今何か言おうとしても、頭にデタラメな単語が浮かぶだけで会話になりそうもなかった。
「ごめんってば。誰にも言わないし、あー、そうだ、唯にも気付いてないフリするし!」
律は私の肩を揺すりながら、何度も謝罪の言葉を口にした。
律のそれは家につくまで続いた。
律が今にも泣き出しそうになっていたので、私はなんとか
「怒ってないよ」
とだけ答えた。
最終更新:2011年04月28日 00:23