「あ、やっと出た」

「律……?おはよう……」

「おはようじゃないっつーの。何やってんだよ。もう梓のライブ終わっちゃったぞ」

眠気が一気に吹き飛んだ。
朦朧からの覚醒じゃなくて、混乱。
寝呆けと変わらない。

全身の血の気が引いていく音が、電話を通して律まで聞こえてるんじゃないかと思った。

外を見ようとして窓の方に目をやる。
カーテンが閉まってて、外の様子は伺えない。
でも隙間からオレンジ色の光が射していて、明らかに、日が傾いているのがわかった。

「うそ……今何時……?」

律の溜め息が電話越しに聞こえる。

「もう4時過ぎてる。何回も電話したんだぞ。今どこだよ」

私は隣でまだ寝息を立てている唯をちらっと見て、言葉に詰まった。

「唯と一緒?」

「……うん」

「まぁもう仕方ないけど。これから梓達と憂ちゃんの家にご飯食べに行くから、ちゃんと来いよ」

「わかった。ごめん……」

電話を切り、私は唯を起こした。


「澪ちゃん、早く仕度しよう?」

膝を抱えて座る私に唯が促した。

「ごめん、唯。私が昨日……」

「ほら、早く行こうよ。みんなに謝らないと」

誰にも迷惑かけていないなんて思っておきながら、のめり込みすぎて後輩の晴れ舞台も見てやれなかった自分が情けなかった。


私と唯は身支度を済ませて、部屋を出た。

唯の実家に着くと、ムギが私達を出迎えた。

「待ってたよ。もうすぐ準備できるみたい」

「ムギちゃん、ごめん。私達寝坊しちゃって……」

「お泊まりしてたの?」

私と唯は顔を見合わせてから、申し訳なさそうな顔を作った。
ムギは眉をひそめて笑いながら言った。

「あ、大丈夫よ。私もみんなも気にしてないし。ちゃんとこうしてみんな揃ったんだし……」

ムギは私達の事情を全く知らない。
たまたま寝坊しただけだと思ってる。
だから怒らないでいられるんだ。

「お姉ちゃんおかえり。もうご飯の準備できるよ」

リビングの奥から憂ちゃんが出てきて言った。

「憂、ごめんね。ライブ見に行けなくて」

「ううん、気にしないで。早くみんなとご飯食べよ?」

憂ちゃんはそう言ったけど、やっぱりどこか寂しそうだった。

リビングに入ると、テーブルにところ狭しと料理が並んでいた。
梓と鈴木さんと、律がそれを囲んで座っている。

私は律に会うのが怖かった。
律とはあの日以来会っていない。
メールも電話も私は無視してしまっている。
さっきの電話の声では伺えなかったけど、律が怒っているんじゃないかと私は思っていた。

「ほら、二人とも早く座んなよ」

そう言う律は、怒っているどころか呆れているように見えた。
何年も一緒にいたけど、こういう律を見るのは初めてだ。
きっと律は、私に心底失望したんだろう。

私は律から離れて座って、梓に謝った。

「ごめん梓。私、寝坊しちゃって……」

梓は顔の前で両手を振って、

「そんな、謝らなくていいですよ。仕方ないですし……」

と言った。

私が悄気たままだったせいで、食事の間中、みんな私達を気遣い続ける事になった。
それが余計に惨めだった。
鈴木さんは終始、私に話しかけてくれた。

「憧れてます」
とか
「今度ベースを教えて下さい」
とか、
色々言っていたけど、私がライブをすっぽかした理由を知ったらこんな風には接してくれなくなるだろう。

打ち上げが終わり、唯はそのまま実家に泊まる事になって、私達は解散した。

帰り道、律と二人だけになると沈黙が横たわった。
律は薄着だったけど、夜道の空気はまだ十月なのにずいぶん冷え込んでいる。
普段は全く気にならない排気ガスの臭いがたまらなく不快。

バス停に着き、時刻表を見ると次発は二十分後だった。

沈黙に耐え兼ねた私が口火を切った。

「律、ごめん」

「ん?」

「ごめん」

「いいって、もう」

「良くないだろ。怒ってるじゃん律」

「怒ってないって」

「じゃあ、呆れてる」

律は頭を掻いて答えた。

「ん、まぁ……それは当たってる」

「ごめん。本当にごめん」

ひとつため息をついて、律は答えた。

「だからぁ、謝んなくていいってば。つーか、これじゃこないだと立場が逆だな」

律は笑いながらそう言ったけど、バス停の空気は変わらない。

「律。本当はどう思ってるんだ?」

「なにがだよ」

「やめたほうがいいって思ってる?」

「別に思ってないよ。澪の勝手じゃん」

「嘘だ。思ってる」

「思ってないってば」

思っててほしかった。
やめろ、と誰かに叱られなかったら、また同じような失敗を私と唯はやらかしかねない。

「律だっておかしいと思うだろ。女の子同士で、その、そういうことするのは」

「いや、それ以前に友達同士でする事のほうがおかしいだろ」

強い口調で、律は即座にそう返してきた。

「女同士とかはさ、私にはさっぱりわかんないけど、ムギが言ってたみたいに本人の自由なんじゃねーの?でも友達同士はそうじゃないと思うぞ。澪、お前、唯のこと今もちゃんと友達として見てるか?」

見てない、というより、忘れていた。

「……律、やっぱり、やめたほうがいいって思ってるだろ」

「だから思ってないって」

私は律から本音を引き出そうと、律の手を握った。
律は咄嗟にそれを振り払った。
ほとんど怯えるように。
それから申し訳なさそうに言った。

「……ああ、うん。思ってるよ」

律は続けた。

「思ってるさ、そりゃ。そんなわけわかんないこと、やめたほうがいいって。当たり前じゃん。澪だってわかってるんだろ?」

私は黙って頷いた。

「じゃあなんでやめないのさ?」

「やめられないんだ……」

「え?あ、あぁ、そりゃそうか。わかっててもやめられない、うん、そうだよな」

そんな、理解したような事は言って欲しくない。
私が律に求めてる言葉は、そうじゃない。
同意じゃなくて議論を、理解じゃなくて否定を、私は求めている。

黙っている私を見て、律はすぐにそれを察してくれた。

「澪、もうやめろ」

「なんで?」

「続けても澪が辛くなるだけだから。まわりが澪から離れるだけだから」

「律は?」

「私も嫌だ。澪がそういうことをしてるのは」

「なんで?」

「さっき澪に触られた時、めっちゃびびっちゃったから。澪がウチに来ても、びくびくするかもしんない。なんでかわかるよな?」

私は頷いた。
私が律をそういう対象として見たことは一度もない。
というか、唯に対してすら、性欲とは違うんだ。
でも律が怯えるのは理解できた。
それで律との間に亀裂が入るのは嫌だ。
律の部屋で、お互いに表情を作るようになるのは嫌だ。

「まぁやめたところで、私がすぐにビビらなくなるわけじゃないけどさ、少なくとも続けられちゃあ風化もしないってこと」

「うん」

「唯も同じ。あいつのためになんないって」

「うん」

「だから澪、唯と変な事するのはもうやめろ」

はっきり言われて、ようやく救いの手が来たような気がした。
子供は叱られると悲しくなるけど、同時に安心する。
その言葉に従えば、間違いはないから。

「うん、わかった。やめるよ。もう、やめる」

へへ、と律が笑うのとほとんど同時に、バスが着いた。

律は私の手を引いて、バスの中に導いた。
暗く寒いバス停から入った車内は、明るくて暖房も効いていた。
走り出してからは酷く揺れたけど、あやされているようで心地好かった。
私は席に座ったまま律に手を握られて、自分が戻っていくのを感じた。
私の片割れを、律が大事に持っていてくれたみたいだ。

「あ、そうだ澪。これ」

律はバッグからCDを一枚取り出して、私の膝の上に置いた。


「こないだ澪が貸してって言って忘れてったやつ」

「あ……」

膝の上に乗ったCDのジャケットを眺める。

男の人が書斎のような所で、涙みたいなものを目から出している絵。
全然可愛くない。
悪趣味なジャケット。

「ありがとう、律。大切にする」

「いやいやいや、あげないからな!貸すだけだって!」

「あ、そっか……。あはは……」

私は律にCDを貸す約束をしていたことなんてすっかり忘れていたのに、律はちゃんと覚えていた。
私がこんな風になっても。
律が友達で良かったと心の底から思った。
そんな事は口が裂けても言わないけど。

「あ、澪。こんな話知ってるか?バスの客がいつの間にか一人一人消えていって」

私はすぐに耳を塞いだ。

「最後は二人と運転手だけになって、その後はなんと……」

律は嬉しそうに私に顔を近づけて、話を続ける。


友達で良かったなんて、私は言わない。
絶対にからかわれるから。



『10月5日』



雨が屋根を打つ音が聞こえる。
今はまだシトシトといった感じだけど、天気予報によると夜には強くなるらしい。

風が窓を叩く。

急かしてるのか、それとも脅してるのかな。
今日は自分の部屋から出たくないな。

私の決意を唯にどう伝えようかあれから考えたけど、結局直接言う他ないという結論に至った。

でも唯から連絡は来ない。
自分からメールでも電話でもして都合つければいいんだろうけど、私の臆病風速は外の風といい勝負だ。
もしかしたら、唯もこの前の一件でもうやめようと思ったのかも。
だから連絡をよこさないのかも。
それならそれで都合がいい。
自然消滅ってやつだ。
はっきり拒絶するよりウヤムヤにしちゃったほうが、今後の関係への影響も少なくて済む。

でも私のそういう浅はかな考えは、あっさり打ち破られた。
夕方になって、思い出したようなタイミングで唯からメールが来た。

『遊ぼうよ~!雨降ってるけど来れる?』

気が重いし、滅入るし、引ける。

だけどそうも言ってられない。

『わかった。今から行くよ』

淡白に返したつもりだったけど、私の返信なんていつもそんな感じだったから、唯は何も思わないんだろうな。


家を出て傘を差し、バスに乗って、唯のマンションに着く頃にはブーツの中まで濡れていた。

「わっ、澪ちゃんびしょびしょ!」

唯はいつもと変わらない調子で私を迎えた。

「先にタオルと……あ、やっぱりシャワー貸して。風邪引いちゃうし」

「どうぞどうぞ~」

唯は嬉しそうに言った。

私は「先に」って言ったけど、唯の考えてる意味とは違う。

悪びれない唯を見て、少し動揺する。
ここでほだされちゃ駄目だ。

シャワーを浴びて、唯に髪を乾かしてもらい、私は唯の部屋に置きっぱなしの自分の服を着た。

「あれ?服貸すよ?」

「いや、いいよ。今日はこれでいいから」

「そう?」

首を傾げながら、唯は私に渡そうとした服をタンスに戻した。
ベッドに座ると、早速唯は私の手を握って顔を近づけてきた。
私はそれを無視して立ち上がり、部屋に置いてあった他の自分の服をバッグに詰めていった。
ヘアゴムと講義の参考書とノートとペンと、あと、エリザベスもこの前から置きっぱなし。

「澪ちゃん?どうしたの?」

窓を打つ雨の音が強くなる。

言え。
もう言っちゃえ。
時間をかけたって余計言い辛くなるだけだ。

「澪ちゃん?持って帰るの?」

参考書を拾いながら、唯を見ないで私は言った。

「唯、もうやめようよ」

ベッドに腰掛けている唯の方を私は見る。

「梓のライブすっぽかして、みんなに迷惑かけてさ。やっぱり悪いことなんだよ、私達がしてきたのは。
 バチが当たったんだ。だからもうやめよう」


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最終更新:2011年04月28日 00:25