純「ゴールデンガール!」


図書館は少し苦手だ。特にこういう昼休みなんかの、ほとんど人がいない学校の図書館。
あんまり静かすぎて、却って落ち着かない。
ページを捲る音だとか、指で拍子を取る音だとかが不自然に大きく聞こえてきて、どことなく不気味な気さえする。

「あーずさ、帰ろうよ」

私は頬杖をついて、雑誌のバックナンバーを読みながら言う。
長いツインテールの友人は熱心に音楽理論の本なんかを読んでいる。
結構なことで。

「帰れば。私はもうちょっといるから」

自分で誘っておいて勝手なものだ。
独りで帰るのも虚しいし寂しい。
私は立ち上がって、ぶらぶらと本棚の間を徘徊し始めた。

参加した紙の匂いがする。
世界の名著、世界の文学、うんぬん。
誰が借りるのかも分からないような分厚い本が並んでいる。
そのくせ、手にとって貸し出しカードを見ると、誰かしら借りた形跡がある。

「ゴーリキー……トルストイ、A.トルストイ」

随分と筋肉質そうな名前だ。
後ろの二人は別人なんだろうか。

「デカルト、ショーペンハウアー、アリストテレス、ウィトゲンシュタイン……青色本?」

指で本棚の本を追っていると、古目の本の中に、明らかに浮いている文庫サイズの本があった。
タイトル通り、真っ青な表紙だ。
ぱらぱらとページを捲り、中を見てみると、言語ゲームだのメタ言語だの意味が分からない。

むう。

小さく唸って、私はその本を元に戻した。

哲学から文学へ、本の内容は少しずつ変わっていく。
たまに手にとって眺める本文も、だんだんと綺麗な、抽象的でふわふわ浮かぶような言葉になっていった。

「畢竟」

見慣れない言葉を見つけてつぶやいた。
変な感じがする。どこかに迷いこんでしまったようだ。

その瞬間、図書館独特の不気味さが私を襲ってきて、私は慌てて本を棚に戻した。

突き当たりまで歩いて行って、となりの本棚に移ると、現代小説が並べてある。
その中に、目の惹かれるタイトルがあった。

「The body……体?」

棚から取り出してみると、表紙には線路伝いに歩く少年たちが載っている。
隣には"ゴールデンボーイ"と言うタイトルの本がある。
作者は同じで、恐怖の四季とか言うシリーズの本らしい。

読んでみると、なかなか面白そうな内容だ。
頭が良くなったような気がして、気分が良くなり、その本を持ったまま、私はまた古臭い紙の匂いがする本棚に戻った。

やはり、時間と空間の座標を間違えてしまったような気分になる。
けれど、その中に明らかに現代のものがあった。

「あら」

長い黒髪をしたその女性は、物珍しそうに私を眺める。
丸い眼鏡が似合っている。知性を溢れ出させていた。

「この本棚、あまり使う人いないんだよね」

その女性は親しげに私に近寄ってきて、私が持っている本を指さした。

「ステイーヴン・キング、好きなの?」

「いえ、別にそういうわけでは」

私はさっと目を背けた。
女性は胸に分厚い本を抱えている。
ドストエフスキイだとか、三島由紀夫だとか、ガルシア・マルケスだとかいう作者の名前が、
分厚い本の高級そうな布製の背表紙に書かれてある。

「そう。読書は好きなの?」

女性は少し残念そうな顔をした。
背表紙が私を睨みつけているような気がする。

「……いえ、そういうわけでも」

私は、そう言えば彼女がまた落胆するだろうとは思ったが、
時間も空間も超えて貯蔵された叡智と芸術の中で、彼女に嘘を付くことは不可能であるように感じた。
結局、曖昧に濁すことも出来ずに、私は言った。

「好きじゃないです。というか、漫画くらいしか読みませんね」

しかし彼女は優しく微笑むだけだった。

「そうなの。ちょっと残念」

そう言って、女性は柔らかい足取りで私から離れていった。
髪の毛が無風の屋内でも揺れている。
私は自分の癖毛を触って、溜息を付いた。

梓のところへ戻ると、怒られた。

「どこ行ってたの。帰るよ」

酷い。
私は少し苛立ったけれど、気を取り直して本をカウンターへ持って行った。
さっきの女性が分厚い本を借りている。

「あら、それ、借りるの?」

「あ、はい。ちょっと読んでみようかと」

へえ、と女性は嬉しそうに笑った。
図書委員が読み込んだバーコードに、高橋風子と書いてあった。

「はい、どうも……じゃあね。図書館、割合楽しいでしょう?」

彼女は分厚い本を抱えて、ひらひらと手を振る。
私はやっぱり、その本の厚みに気圧されて、子供のように実直な言葉で返してしまう。

「どうでしょう」

高橋さんはまた、長い髪をなびかせて帰っていった。

ピッ、と電子音がする。
大人しそうな図書委員の子が、遠慮がちに私に本を差し出している。

「あ、どうも」

私が本を受け取ると、後ろから梓が襟元を引っ張った。

「ほら、帰ろ。次の授業は音楽だよ、おんがく」

とても楽しそうだ。
梓の紙も真っ黒で、長い。
当然彼女の髪もふわふわと揺れているのだけれど、どこか、高橋さんとは違うような気がする。

「はいはい、分かったから引っ張らないで欲しい」

そう言って、梓についていく。
図書室を出ようとしたとき、後ろから声をかけられた。

「あの」

振り向いてみると、図書委員の子だった。
恥ずかしそうに、拳を握りしめて、精一杯笑っている。

「ゴールデンボーイ……同じ作者の。あれも、ちょっと方向性は違うけど、面白い小説ですよ」

この短い会話だけで、彼女が引っ込み思案だと分かる。
なんとなく私も恥ずかしくなって、頭を掻いていった。

「そうですか」

図書委員の子はぱあっと笑った。

「そうです」

なんとなく、ほんのちょっぴりだけれど、図書館も面白いかも知れないと思った。
図書委員の子の髪も、短く結われているけれど真っ直ぐだった。

梓に急かされてとっとと音楽室へ向かう。
梓はすごく楽しそうだ。
私の背中には、梓に言われて部室から持ってきたエレキベースがかかっている。

「梓ちゃん、すごく活き活きしてるねえ」

憂がポニーテールを揺らして歩きながら微笑む。
全くその通り、私がついていけない程のスピードで歩くせいで、長い髪はぶんぶんと揺れている。

「だって、憂も純もなんだかんだで真面目にセッションしてくれるし」

「あんなの、適当に合わせてるだけだよ。あれで真面目って……」

私がそこまで言うと、梓は心底悔しそうな顔をした。

「痛い所突いてくるね、純……」

私は、軽音楽部は普段どんななんだ、という言葉は飲み込んでおいた。

授業が始まると、梓は早速ギターをじゃかじゃか鳴らし始めた。
指のストレッチだの運指練習だのはすっとばして、楽しそうにコードアルペジオをしている。
私は適当にベースを弾いて、窓から図書室のほうを眺めた。

なんとなく、やはりあそこだけは違う時間が流れているような感じがする。
今までは嫌いだったのが、ちょっとうっとりしてしまう。

「……純」

梓が寂しそうな声を上げた。
気がつくと、私は演奏をやめてしまっていた。

「部活で練習しないからさあ……授業中くらい真面目に音楽したいよ」

「ごめんごめん」

私は梓に向き直り、またベースを弾きだした。
憂は相変わらずにこにこと微笑んでキーボードを演奏している。
私は指の動きと、溢れ出る音とに身を埋めて、その授業中過ごした。

ついでに、そのまま放課後の部活も過ごした。

なあ。
猫が鳴いている。梓に、勝手に二号扱いされた可哀想な奴だ。

「私は読書に勤しんでるんでーす」

ごろり、と一つ寝返りを打って、猫を追い払った。
猫は不満げに、も一つ鳴いて、私から離れていった。

読んでいる本は当然、今日図書室で借りたスティーヴン・キングのThe bodyだ。
少年たちがやけにはしゃいでいるので何事かと思ったら、死体を探しに行こう!だなんて言っている。
なんて不謹慎な。

しかし話はすごく面白い。
私もちょっくら外に出て、暫く歩きたくなってくる。
そうこうして大分読み進めたとき、やっとThe bodyの訳が"死体"だということに気がついた。

「趣味悪う……」

私は寝転んだまま本を読んで、呟いた。

私にしては珍しく、夜遅くまで本を読んでしまった。
途中から、小説の中に出てきたように、体中にヒルがくっつく想像をしてしまって、中々寝付けなかった。
全く、悪趣味だ。

少し気を緩めると、睡魔に体を乗っ取られてしまう。
私はお祓いのために、激しく頭を振った。
しかし、授業中に一度負けてしまった

「……鈴木、白河夜船か」

「純ちゃーん」

憂に突っつかれて目を覚ましたときには、授業は終礼を迎えてしまっていた。
そんなわけで、昼休みだ。
梓と憂が机をくっつけて、弁当箱を広げている。

「純も早く」

梓に急かされたが、私は軽く手を振って、

「ごめん。私、しばらく文学少女だから」

などと訳のわからないことを言って、図書室へ向かった。

図書室の空気を吸い込む。
奥のほうからは酸化した紙の匂いが。
近くからはポップのマジックの匂いが流れてくる。

「あら」

昨日と同じような声を上げて、私を眺めてくる人があった。
高橋さんだ。机の上に、分厚い本を置いて読んでいる。

「今日も来たんだ。いつもは来てないよね?」

高橋さんは本を閉じることはしなかったが、私の目をじっと見つめて言った。
私はまた、素直に答えた。

「来てないです。ただ、昨日借りたのが面白かったので、静かなところで読もうかと思って」

「そうなんだ」

高橋さんはすごく嬉しそうだ。
私は吸い込まれるように、彼女の隣に座った。
隣から彼女の本を覗き込んでみると、酸模、というタイトルの小説であった。

「本、読むんじゃないの?」

くすくすと、高橋さんは笑った。
私は、びっしりと旧字体の字が並ぶ小説を眺めたまま、尋ねた。

「誰の小説ですか?」

「これ? 三島由紀夫の酸模」

「すかんぼう」

「そう。綺麗な文章でしょ?」

私は読書家ではない。
けれど、たしかにその文章はきれいで、書いた人の世界と、時代に吸い込まれていきそうだった。
なによりも、それを全部飲み込んだような、高橋さんの瞳が綺麗だった。

「よく分からないですけど、そう思います」

「分からなくても思うことはあるし、感じることもあるもんね」

高橋さんは物知り顔で言った。
私が言っても様にならないだろう台詞だ。
彼女はそれからずっと本を読んでいて、私のほうを見向きもしなかった。
私も彼女に習った。

今までになく、落ち着いた昼休みだった。


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最終更新:2011年05月13日 02:35