そろそろ教室に戻ろうかというときに、図書委員の子が私に声をかけてきた。
「あの、それ、あとどのくらいで読み終わりそうですか?」
「あ、えっと、The body?」
「そうです。よければ、ゴールデンボーイを予約しておきますよ」
昨日と同じ子がカウンターに立っている。
毎日いるのか、大変じゃないのか、と聞くと、その子は笑って答えた。
「どうせ当番じゃなくても図書室には来ますし、それに、割と暇なんですよ」
そう言われてみれば、昼休みの図書室にはあまり人がいない。
寂しいものだが、これがあるべき姿のような気もする。
私は図書室を見渡して、その子に向き合った。
「じゃあ、お願いします。あと一週間位で読めると思います」
「はい。きっとまた来てくださいね」
なんとなく、寂しい台詞だった。
私が図書室を出ると、高橋さんも出てきた。
親しげに私の隣を歩く。
「ねえ、えっと……」
その高橋さんの様子で、互いに自己紹介をしていないことに気がついた。
「私、鈴木です。鈴木、純」
「鈴木さんね。私は高橋 風子。よろしくね」
彼女は笑って、肩にかかった髪の毛を払った。
「あのね、鈴木さん、図書館の雰囲気に合ってると思うよ」
「図書館の雰囲気、ですか」
「そう。ごったまぜになったような、空気。酸化した紙と、劣化しない思想の匂いが溢れてる空気」
何を言っているのか、今ひとつ私には理解しかねたが、褒められているのだろうとは思った。
だから、ちょっと嬉しくなった。
「似合いますか」
「うん、似合う。雑食っぽいもん、鈴木さん」
褒められていないのかも知れない。
「そういえば、高橋さんは昼食はどこで摂ってるんですか?」
ちなみに、私は図書室から帰るときに購買でパンを買っている。
「昼食はねえ、教室に戻って友達と弁当突っついてるよ」
「その人も、お弁当食べるの遅いんですね」
「生徒会に入ってるから。ここんところ、今年度の行事についての話し合いが忙しいみたい」
ふうん、と言って、私はその友人を想像してみる。
多分、その人も高橋さんと同じような歩き方をして、同じように髪を揺らすんだろう。
「パンは」
もしかしたら、私はちょっとした嫉妬を感じていたのかも知れない。
あったばかりの憧れの人、その友人に、小さな嫉妬を。
「パンは、食べないんですか?」
「パン? ああ、そういえば、ゴールデンチョコパンとかいうのがあるんだよね。あれはちょっと食べてみたいかな」
「ゴールデンチョコパン!」
私は声を張り上げて、駆けだした。
購買についたが、見当たらない。
がっくりと落とした肩を叩かれる。
「どうしたの、鈴木さん。急に走りだして」
振り向くと高橋さんが肩で息をしていた。
ざっと購買を見渡して、言う。
「流石にもう無いよ。一日限定三個だったっけ?」
「ですよねえ……」
一日限定三個のゴールデンチョコパン。
これは、戦争だ。
次の日。
私はちょっとした嘘を付いた。
「先生……頭がすごく痛いです」
私の声はとても悲痛そうで、聞いているもの全てに同情の念を起こさせただろう。
「純……」
梓が心配そうに言っている。
先生は板書をやめて、私に向き直った。
「そりゃあ、お前、さっき寝ぼけて頭を机に打ち付けてただろうが」
駄目だった。
心なしか、梓が可哀想な子を見るような目をしている気がする。
私は嘘を付くのをやめた。
「すみません、顔洗ってきて良いですか。眠くてしようがないです」
「ん、行って来い」
私は教室を出て、走った。
こら、と先生がドアから顔を覗かせたが、気にせず走った。
びゅんびゅんと窓が後ろへ流れていく。
その窓の中に、パン配達のトラックが見えた。
角を曲がって階段を駆け下りる。
最後の五、六段ほどは、勢い良く跳んだ。
購買を通り越して、私は外へ出た。
トラックが丁度荷を下ろしている。
そこへ駆け寄って、作業着の男性に声をかけた。
「あの!ゴールデンチョコパンを!」
「ゴールデンチョコパンは……もう購買の方へ運んでるね」
無駄足だった。
しかし気を落としている暇はない、私は直ぐに踵を返し、大きく足を踏み出して走る。
購買が見えた、私は勝った!
「あの、ゴールデンチョコパン!」
「ごめんねえ、今売れちゃったよ」
購買のおばちゃんが苦笑した。
私は呆然とする。意味が分からない。
何故、そんなことが?
ありえない、授業中に抜け出してきたというのに、この仕打……
「あ、あの……ごめん、今日、朝は病院行っててさ。ラッキーと思って買っちゃった」
購買の入り口に、派手な外見の女の人がいる。
茶色く染められた髪、着崩した制服の割に、存外態度は丁寧だ。
思わず私は頭を下げた。
「あ、いえ、こちらこそ。どうぞ味わってください」
「えっと、うん、いや……」
ぽりぽりと頭を掻いて、その女性は手に下げている袋のうち一つを私に差し出した。
もうひとつの袋には、ファッション誌やら漫画雑誌、あと、どうみても不自然な文芸雑誌に外人女性のポスター。
それに、メロンパンなんかが入っている。
私に差し出された袋には、ゴールデンチョコパンが入っていた。
「上げる。途中のコンビニでパンは買ってきてるから」
「え、本当にいいんですか!」
「うん。全然オッケー。ちょっと買い占めてみたかっただけだから」
そんじゃあねえ、と言って、手を振って、その女性は階段を登っていった。
いい人だ。ちょっと髪が傷んでいるんじゃないかと心配だが、しっとりと、彼女の髪は体にあわせて上下していた。
「……いい人だ」
なんとなく、私はそう呟いた。
教室に戻ると先生に怒られた。
パンの入った袋を持って戻ってきたのだから当たり前だ。
けれど、私はそんなことは気にせず、昼休みになると急いで図書室へ向かった。
相変わらずいい匂いだ。
ごたごたしたこと、いろんな悩み事を、もっと乱雑で深遠な文字の海へ叩き落す匂いだ。
その中に、今日は私のパンの匂いが混ざっている。
「随分と早いんですね」
がちゃ、と準備室の扉を開けて、図書委員の娘が出てきた。
今になって気がついたが、リボンの色からして彼女は三年生のようだ。
ちょっと申し訳なさそうな顔をして見せる。
「ごめんなさい、今はゴールデンボーイ、貸し出されてます。来週までには戻ってきますけど」
「あの」
私はどうしても気になることがあって、彼女の話を遮った。
「名前、聞いてないですね」
「ああ、そうですね。宮本 アキヨです。よろしく」
宮本さんは結われた短い髪を軽く触って、控え目に笑った。
なんで敬語なんだろう。
私がそれを訊くと、宮本さんは私を準備室の中へ入れてくれた。
図書室とはまた違った匂がする。
接着剤の匂いだ。
宮本さんは、少し得意げに、顔を赤らめて言った。
「あのね、私、本が好きだから……図書室では敬意を払いたいの、お客さんに」
この人も、いい人だと思った。
私は自分でも気がつかないうちに、ゴールデンチョコパンを一つ差し出していた。
「ここで一緒に食べませんか?」
宮本さんは驚いたように目を見開いて、恥ずかしそうにくすりと笑う。
「うん、喜んで」
宮本さんの髪も、短いながら優雅に揺れる。
そのうち高橋さんが、これまた髪を揺らしながら準備室に入ってきた。
「あ、ゴールデンチョコパン!」
「上げますよ」
「ホント!?」
高橋さんは急いで私たちの隣に座って、チョコパンを食べだした。
頬を押さえて、とろけているような声でいう。
「甘美だあ……流石鈴木さん、授業をほっぽり出して買いに行っただけはあるね」
何故知っているんだろう。
私は弁明しようと、急いでチョコパンを飲み込んだ。
「……サボっちゃったの?」
宮本さんがなにか言いたそうにこちらを見つめてくる。
しかし、何も言わない。
それでいて、高橋さんが
「授業はサボっちゃ駄目だよね。学問をする機会がせっかく平等に与えられてるんだから」
と言ったときには、大きく頷いていた。
やっぱり、宮本さんは引っ込み思案なんだろう。
「サボってないです。走って昼休みに買ってきたんです!」
「嘘だあ。立花さんがボンボンの娘にチョコパンあげたって言ってたもん」
「立花さん?」
「ちょっとヤンキーっぽい娘だよ。購買であったでしょ?」
確かに、会った。
もしかして、高橋さんは、ボンボンから私を連想したんだろうか。
私が頬をふくらませて反論しようとすると、宮本さんがゆっくりと口を開いた。
若干俯き加減だ。
「でも……でも、いい人だよ。ちょっと見た目は派手だけど」
その時に、分かった。
だから私は、今までで多分一番大人っぽく微笑んだ。
「そうでしょうね」
私は今部屋で本を読んでいる。
長い道のりを経て死体にたどり着いた少年たちが、悪ガキたちと対峙している。
死体を前に、何かを感じた少年と、何も感じない悪ガキたちだ。
歩いてここまで来た少年たちと、車で来た悪ガキたちだ。
そばにいてくれ。
いつも強気な少年が、友人に言った。
拳銃を構えて、悪ガキたちを追っ払う……
「……終わっちゃったなあ」
チョコパンを食べて、その日の授業を終えて家に帰ってから、気がつけば夢中になって本を読んでいた。
宮本さんが進めてくれた"ゴールデンボーイ"を借りるまでに一週間間が開くかと思うと、少し憂鬱でさえある。
なあご、と鳴いて、哀れな二号が近づいてくる。
ちょっと撫でて、首もとの跳ねた毛を抑えてやる。
しかし、真っ直ぐにはならない。
「どうしようもないなあ」
なんとなくだけれど、今日思った。
高橋さんも、宮本さんも、もしかしたら立花さんも。
あの落ち着いた居振る舞いと、どことなく不思議な魅力は、歩いてきたから、なのかもしれない。
車に乗らずに、ただ、一生懸命歩いて行く。
そう、読書なんかいい。今、私は文学少女だから。
そうすれば、ひょっとしたら、私も……
次の日の朝、私はちょっと早起きをした。
鏡の前で暫く悪戦苦闘して、なんとか外見だけ取り繕って、家を出る。
通学途中に出会った梓が、お、と声を上げる。
「純、髪の毛下ろしてるんだ」
「うん。変かな?」
「いや、そんなことないよ。なんか大人っぽい」
そっか。
ちょっと嬉しくなる。
そうして数歩スキップをして、やはり私は髪をヘアゴムで縛った。
「ありゃ、結局縛るんだ?」
「今はまだ、これでいいよ」
しばらくは、これでいい。
私がちょっとしたことで浮かれてスキップをしないようになったら。
自分の瞳の中に、人を引きこんでしまうような世界を持てたら。
その時はまたヘアゴムを外そう。
最終更新:2011年05月13日 02:37