アキヨ「ピッチン!」
私は昼休みが始まってそうそう図書室に訪れて、図書準備室にこもった。
カーテンの開いた隙間から、日光が差し込んでいる。
私は作業台に積んである本を一冊とって、表紙を外してから、その寸法を図った。
棚からブックカバーフィルムを取り出して、本の縦横の長さから2センチ程の余白を取って、切り取る。
本の表紙をティッシュで綺麗に拭いて、埃が舞わないように、そっと窓とドアを閉めた。
ぺり、と台紙から端のほうを剥がして、本の表紙にあてがう。
そのまま、定規を押し当てながら、フィルムを貼り付けていく。
それが終わると、綺麗にフィルムが貼られた表紙を、次は本に着ける。
なあ。
猫の鳴き声が聞こえた。
「……君は」
思わずため息が漏れる。
声のしたほうを見ると、棚の後ろから、猫が顔をひょっこりと覗かせていた。
毛が入らないように、私はまだ粘着力の残っているフィルムをシール台紙に貼りつけた。
「おいで」
私が呼ぶと、猫は私とは反対方向に歩いて行く。
カーテンを開けると、そことは全然別なところで日向ぼっこをする。
ちぇ、と呟いて、私はまた作業に戻った。
「毛が入るから、どこかに行ってほしいな」
そう猫に言ってみるも、猫は私を丸い目で見つめたきり動かない。
私も無視をして、作業に集中することにした。
しかし、猫の毛が一本入ってしまって、どうにもはかどらない。
結局私はいい加減に作業を済ませて、読書を始めた。
その文庫本には、何本も線が引いてある。
気に入ったところとか、よく分からないところとか。
そうしておいて、もう一度読み返すときは、前回自分が読んだ時の思いだとかを呼び起こすようにしている。
今読んでいる学問のすゝめにも、一見すると滅茶苦茶なくらい線が引いてある。
世話の字の義、の章では、"一に保護の義、一は命令の義"というところに何本か線が引いてあるから、
きっと私は前回、その部分がすごく気に入ったんだろう。
どうせ一度読んだものだし、とその部分から読み進めてみると、数ページでその章は終わっていた。
ざっくばらんに言えば、相手のためを思って保護して指図するときは、保護と指図の塩梅を考えましょうね、というようなことが書かれていた。
今度誰かに教えてあげよう。
誰に……そうだ、真鍋さんなんか。
最近よく話しかけてくれるし。
鈴木さんは……まだ、こういう思想本なんかは好きじゃなさそうだ。
ふと思い返してみると、図書館で見る顔が近頃急に増えているような気がした。
不思議な感じだ。
自分の考えにふけって、ページを捲る手を止めていると、準備室の扉が開いた。
「やっぱいた……アキヨ、これ返しに来たの」
茶色い髪をゆさゆさと上下させながら、立花さんが準備室に入ってきた。
その手には"三四郎"という題の小説がある。
春休みに私が勧めてから、今まで返しに来てくれなかったというのも凄い話だ。
「遅かったんだね」
私は言った。
非難がましい口調になっていないか、そればかりが気になる。
「うん、ごめんね。何度か読んでたんだけどさ、昨日真鍋さんに急かされた」
それを聞いて、不安になる。
急かさないようにしてって、言ったのに。
「早く返せって、言われたの?」
もしそう言われてしまったのなら、気分を害しただろうから、私が謝っておこう。
そう思っていたが、意外にも立花さんはおかしくてたまらないといった様子だ。
「それがさ、そうじゃないんだ。なんか"それ面白い、どう面白い?"ってずっと訊いてくるの。
一から説明してあげるんだけど、そうしたらさ、私も読みたいわ、って恥ずかしそうに言うんだよ」
よく考えたものだ、と少し感心した。
「なんか、結構可愛いよ。半分くらい唯が入ってる感じだよね。
そんなわけだから、真鍋さんが借りに来るといけないと思って、返しに来たの」
遅れてごめんね、と立花さんはもう一度謝った。
別に気にしていないから、そう言おうと思ったのだけれど、どうしたことか、言葉につまる。
結局、
「うん」
としか言えなかった。
いつもこうだ。
肝心なところでは、妙に言葉が頭から飛んでいってしまう。
本の感想を聞かれても、おもしろかった、というのが精一杯なもので、酷いときは何も言えなくなってしまう。
この間、鈴木さんにやっとこさ、図書館が好きだと言えたときは、小躍りしそうな気持ちになった。
「アキヨ、ここ座っていいかな。図書室よりは準備室のほうが好きなんだよね」
そう言って、立花さんは椅子を動かして、私の隣に腰掛けた。
彼女の長い髪の毛が私の手に当たる。
少し乾いた感じの、ぱさぱさした手触りだった。
彼女が開いた本を隣から覗いてみると、後書きやら時代背景の解説やらを一生懸命に読んでいた。
しばらくそうして、立花さんは私のほうを見た。
「ねえ、なんか面白い小説ある?」
突然訊かれて、少しどもってしまいながらも、私はなんとか答えた。
「あ、えと、車輪の下とか……」
「誰の?」
「ヘルマン・ヘッセ……おもしろいよ」
またこれだ。
おもしろいだけじゃなくて、もっとこう、社会の不合理だとか理想と現実の剥離だとか、それらしいことが言えたらいいのに、と思う。
けれど立花さんは、にっこり笑って私の頭を撫でた。
「じゃあ、安心だ。アキヨの"おもしろい"は大抵あてになるから」
そう言って、準備室を出て行く。
外で、おおボンボンちゃんだ、なんて声が聞こえた。
続いて、あ、真鍋さん、これ三四郎、とかいう声。
立花さんは社交的だ。
私が気兼ねせずに話せる相手の中で、本の虫の素養がないのにあれだけ私に合わせてくれる人は中々居ない。
もしかしたら真鍋さんはそれに近いかも知れないけれど、立花さんほどじゃない。
なあご、という声がしたから振り向いてみると、先程の猫が訳知り顔でこちらを見ている。
なんだか気恥ずかしくなって、文句の一つでも言ってやろうかと思ったら、準備室の扉が開いた。
「いや、鈴木さんに真鍋さんに高橋さん、なんか面白いことやってんね」
けらけらと笑いながら、立花さんが入ってきた。
扉のはめ込みガラスから図書室のほうを見てみると、高橋さんが本を読んでいるのを、鈴木さんと真鍋さんが見つめている。
耳をすますと、
「ねえ、風子、それ誰の本? 読み終わったら貸してね」
「わかったわかった」
「高橋さん高橋さん、私ソクラテスの弁明読めるようになりましたよ。小説から一歩前進です」
「わかったったら」
などと、二人して高橋さんに話しかけていた。
高橋さんは気にする様子もなく本を読み続けている。
「なにやってんだろうね」
立花さんがまた笑った。
そのときに、ふと猫に気がついたらしい。
不思議そうな顔をして、
「猫だ」
などと私に言ってくる。
「うん、猫だよ」
と私がそのまま返すと、立花さんは優しく微笑んだ。
「可愛いね?」
可愛いだろうか。
背と腹で綺麗に色が白黒に分かれているし、毛も柔らかそうだけど、どうにもその不遜な態度は。
そんなことを思いながらも、立花さんがそばにいると、
「うん、可愛い」
という言葉はすんなりと出てきた。
なああ、と猫は満足そうに鳴いて、大儀そうに準備室を出て行った。
その姿を見て、立花さんはまた笑った。
「そういえばさ、アキヨ、なんだけ、ウィト……えっと」
「ウィトゲンシュタイン?」
「そう、それ。その本、読んだ?」
「まだだよ……青色本が読みたいんだけど、無いの。論理哲学論考はわけが分からなかったし」
「そうなんだ。じゃあやめとこう」
そう言って、立花さんは胸に抱えていた分厚い本を一冊机に置いた。
ウィトゲンシュタイン著作集、とか書いてある。
あまり借りられていない本特有の、手垢のついていない、純粋に酸化した色をしている。
「読もうと思ったの?」
「アキヨに聞きながら読めばなんとかなるかと思って。でも、駄目なら仕方ないね」
それからしばらくヘッセの小説を読んで、貸出手続きをしてから、立花さんは教室に戻って行った。
途端に暇になって、私は返却された本を棚に戻すことにした。
分厚い本、薄い本、合わせて50センチくらいの高さにはなる本の束を抱えている私を見かねたのか、真鍋さんが声をかけてくれた。
「宮本さん、手伝うわ」
半分は真鍋さんが持って、さっさと元の位置に戻していく。
途中、なんで巻順に並んでいないのよ、と苛立った様子で本を並び替えていた。
最後の何冊か、特に分厚い思想本を、哲学書の棚に戻すときに、真鍋さんがあら、と声を上げた。
「あれ、入れる位置間違えてるんじゃないかしら」
真鍋さんが指さす先には、真っ青な文庫本があった。
布製のハードカバーの本と比べて、明らかに浮いている。
手にとってみると、図書館所蔵の印が押してなかった。
「これ、青色本だ……」
私が言うと、真鍋さんはちょっと得意げになった。
「あ、私知ってるわよ。ウィトゲンシュタインでしょ」
いつも生真面目な彼女が、こんなふうに子供っぽく得意そうにしているのは、なんだか面白い。
この、図書館に溶け込めていない本のページをぱらぱらと捲ってみると、中から手紙が落ちてきた。
『読んでみたけど訳がわからない。読んでみて内容教えてね
立花姫子』
と書いてある。
真鍋さんが隣でくつくつと笑っていた。
「ふふ、こういうのもあるのね……図書館て楽しいわね」
私が返事をしようとすると、また、なああ、と聞こえた。
猫が日を浴びて、心地良さそうに丸まっている。
「可愛いわね」
真鍋さんが言った。
私は、青色本を胸に抱えて、傍に立花さんも居ないけれど、微笑んで言えた。
「可愛いね、君は」
猫が満足そうに鳴いた。
最終更新:2011年05月13日 02:44