風邪をひいた。

こんな日についてない。

純「今日は唯先輩のライブの日だってのに……」

憂のお姉ちゃんと私、鈴木純が付き合い始めてからけっこう長い月日が経っていた。

先輩はやさしいし、かっこよくて、私には勿体ないくらいの恋人だと思う。

でも最近、私は欲求不満をためこんでいた。

高校生の時は毎日でも会えたのに、先輩が大学生になってからは会えるのも休日だけ。

メールの数だって最初は多かったのに、今じゃ一日に数えるほど……。

そんな中、先輩達の大学でのライブはせっかく会うための良い口実だったのに、肝心の当日になって寝込んでしまうなんて。

純「私ってひょっとして、幸薄い?」

美人薄命ってやつかなあ……。涙が出てくる。

私は、涙腺を下って鼻から出てきた液体をちーんとティッシュでかんだ。

はなをすする。何度もかみすぎて、もう鼻の頭がひりひりしている。

純「熱がなくてもこんなみっともない顔じゃ先輩の前に出れないよね。」

そう言い聞かせて何度も自分を慰めた。

でも、もういいんだ。カーテンの外からは赤い西日が差しこんでいた。

もう先輩のライブは終わったはず。

今頃はきっと、先輩たち四人で打ち上げでもしてるんだろな。

憂と梓も向こうに行ってるかな。……ああ、切ない。

薬を飲んで朝から寝ていたおかげか、朦朧としていた頭も今はすっきりとしていた。

こうなるとただ寝ているのは退屈でならない。

…打ち上げ、押しかけちゃおうかな。

ふとそんな考えが頭をよぎるけど、論外だ。

病人が現れたりしたら場が白けるに決まってるもん。

仕方ないので私はベッドに寝たまま一人ちんぐり返しに興ずることにした。

ちんぐり返し。寝転がった状態で下半身を持ち上げて頭の上に持ってくる恰好のことだ。

耳慣れない言葉かもしれないけど、たいていの人がこの体勢に馴染みが深いものと思う。

要は赤ん坊のおむつを替える時にするあれだ。

私は暇つぶしによくこの遊びに励んでいる。

たかがちんぐり返しと侮るなかれ、一人ちんぐり返しはけっこうハードな運動なのだ。

バランスを取るのが難しく、油断すれば倒れてしまいかねない。

将来的にはオリンピック競技として採用されたっておかしくはないと睨んでいる。

このちんぐり返し、女の子の場合はまんぐり返しと言うのが普通だけど…

私にはおちんちんが生えているので男性同様ちんぐり返しと呼ぶのが正しいはずだ。

純「よーし、ちんぐり返しだー!」

反動をつけて一息に下半身を持ち上げる!

よし、うまくいったぞ……あとはこのままバランスを保ちつつ、

憂「純ちゃん、なにやってるの?」

純「うひゃあ!?」

部屋の出入り口に私の親友にして先輩の妹である平沢憂が立っていた。


純「う、憂!?」

憂「やっほ、お見舞いにきたよ、純ちゃん。一応ノックはしたんだけど…気付かなかったみたいだね」

純「あ、あははは。ぼーっとしてて!」

やばいやばいやばい。たいへんなとこをみられてしまった。

なんとかしてごまかさなければ。

純「せ、先輩のライブはどうだった?」

憂「大成功だったよー。」

純「そっかー、よかったー。いやー、大成功かー。」

憂「それで純ちゃん、さっき何してたの?」

純「え? 何って、わたし何かしてたんだっけ? 憂の見間違えじゃないかなー」

憂「確か一人ちんぐり返しとか……」

ちくしょう。

しっかり聞いてやがった!


純「おねがい、憂! 唯先輩にはこのこと内緒にして!」

憂「このことって?」

純「う…だから、その、私が…ちんぐり返しをしてたこと」

憂「えへへ、どうしよっかなー」

純「いじわるしないでよお! 先輩にへんな子だと思われたら嫌われちゃうよ!」

憂「冗談だよ、純ちゃん。分かった、お姉ちゃんには内緒にしとく。」

純「ほんと?」

憂「うんっ。ほんとだよ。」

純「ほんとにホント?」

憂「本当に本当だよ。」

純「よかったー、恩に着るよー。」

私は安堵のため息をつく。

そもそも憂に見られてしまった時点で何も良いことはないけど、唯先輩に知られないだけましだ。

もうちんぐり返しは今後一切しないことにしよう。

はなが垂れそうになってるのに気付いて音をたてないように軽くすする。


憂「……風邪、どう?」

純「うん、もうだいぶいいよ。」

憂「そっか、よかった。」

純「こんなことなら、先輩のライブ観に行けばよかった。」

憂「だめだよっ!」

純「わっ。」

憂「風邪はきちんと治さなきゃ、めっ。」

純「……うん、そうだよね。」

憂「お姉ちゃんの演奏ならいつでも観れるんだから、今はしっかり休むのが先決だよ。」

純「はーい。憂はお母さんみたいだなあ。」

憂「えへへ。」

照れてほほ笑んだ顔が、唯先輩によく似ている。

これは憂だって分かってるのに、思わずどきっとしちゃった。

純「唯先輩、なにか言ってた?」

憂「お姉ちゃん?」

純「ライブ観に行けないこと、怒ってなかった?」

憂「ううん。お姉ちゃん、純ちゃんのことすっごく心配してたよっ。」

純「そう? あーあ、やっぱりライブ観に行きたかったなー。」

憂「純ちゃん、お姉ちゃんのことそんなに好きなんだね。」

純「あったり前じゃん。私の先輩への愛は好きなんて言葉じゃ足りないもん。」

憂「……」

純「なんで憂が照れるの?」

憂「ふえっ? べ、べつにっ。いやあ、お熱いなあと思って。」

純「まあね。風邪の熱なんかめじゃないくらい熱いんだよ。」

憂「情熱だね、純ちゃん。」

純「えへー。」

はあ……でもやっぱりさびしい。自然と溜息をついてしまう。

憂「やっぱり、ライブ行きたかった?」

純「うん、まあそれもあるけど…」

それだけじゃなくて、ここに唯先輩がいないって言うのがね……。

憂に悪いので口が裂けても言えないけど、お見舞いに来てくれたのが唯先輩だったらなー、なんて考えてしまう。

私は悪い子です。先輩は忙しいんだから、来れないってわかってるのに。

それでも……って思っちゃうのは、恋する乙女のわがままだ。

憂「あ、これお見舞いの果物。」

純「こんなにたくさん……なんか悪いね。」

憂「いいよー。今、リンゴ剥いてあげるね。台所にナイフあるよね?」

純「ほんとに何から何まで悪いなー。」

憂「うふふ、将来は『平沢純』になる人なんだから、このくらいはしてあげないとねっ。」

そう言うと憂は小走り気味に部屋を出て行ってしまった。果物ナイフを取りに行ったのだろう。

それにしても、「平沢純」って、唯先輩まだ言ってるんだろうか。

純「まあ……満更でもないけどね。」


憂「なにが?」

純「うわあ!?」

ちょっとは足音をさせてよ、憂!

憂「ご、ごめん。びっくりさせちゃった?」

純「ん、いや、まあ……忍者かと思った。」

憂「何言ってるのー。」

この短時間で台所まで行って戻って来たらしく、その手にはちゃんとナイフが握られていた。

……あれ? なんか不吉な予感がする。なぜだろう……

黄昏時の部屋に、包丁を持った唯先輩の妹と、唯先輩の恋人の私が二人。

いやいや、そんなまさか。

なんとか選手という言葉がふと頭をよぎった気がするが、そんなのはまったくの気のせいだ。

うん。

憂「じゃ、皮むくね。」

純「あ、ああうん。」

失礼だよね、そんな妄想。

それにしても、やっぱこの姉妹はよく似ている。

ほんとは一卵性双生児なんじゃないかと疑ったこともあるが、年齢も誕生日もまるで違うんだからやはり普通の姉妹なんだろう。

髪型が違わなかったら恋人の私でも間違えかねない、そのくらいそっくりだ。

でも似ているのは姿だけで、中身は違う。

例えば、唯先輩はギター以外はからきしだめだけど、妹の憂は家事万能の正義超人で、ほら、こんなリンゴの皮むきなんてちょちょいのちょいで、

あれ? 憂、なんか手際悪くない?


純「ねえ、今日のライブのこと聞かせてよ。」

憂「それがね、おっかしかったんだよー。」

純「なになに。」

憂「うん、始まる前にね、りっちゃんったらね。」

ん? りっちゃん?

憂「ん、じゃなかった! 律先輩がね…」

純「ああ、うん。」

なんか様子がおかしい。

憂「……だったの。それで澪先輩がー……」

純「あはは!」

憂「はい、リンゴ剥けたよ。」

いつのまにかリンゴはすっかり皮をむかれて(少々無骨なかたちだけど)四等分されてお皿に並べられていた。

純「ありがとう。」

一口かじる。考えてみれば朝から何も食べてなかったので、甘い味が舌に嬉しい。

憂「純ちゃん、ちょっときいていい?」

純「なあに?」

憂「お姉ちゃんと、最近うまくいってる?」

純「そういう質問ですか……」

憂「聞いちゃダメだった?」

純「ううん、そんなことないよ。」

リンゴを飲み下して、天井を見上げる。

純「うまく、いってると思うんだけどねえ。ただ……」

憂「ただ?」

純「先輩が卒業してから、あんまり会えてないからさ…それがちょっとさびしいって言うか。」

憂「……」

純「メールだってこの頃すくないしー。大学で忙しいのは分かってるけどさ、それでも…」

憂「純ちゃん……」

純「ひょっとして、向こうで新しい恋人でも出来ちゃったんじゃないかとか心配になったり。」

憂「お姉ちゃんに限って浮気なんてしないよ! 純ちゃん一筋だもん。」

純「あはは。こんなこと言ってたの、唯先輩には内緒だよっ。」

憂「…うん。」

私はリンゴをもうひときれほおばる。

憂は言葉を選ぶように視線を宙に泳がせて、それから言った。

憂「つまり純ちゃんは、最近えっちが少なくてさみしいんだね。」

純「ぶっ。」

はなみず吹いた。ついでにリンゴも。

純「ちょっ、いきなり何言ってるの!?」

憂「わ、大丈夫? 服汚れちゃったね。」

純「わかい娘さんがえっちとか言うんじゃありません!」

憂「えー、でもそういうことなんでしょー?」

憂ってこんなキャラだったっけ……っていうかちがう!

私は断じてえっちとかそんな話を……

憂「私ハンカチ持ってるから拭いてあげるね。」

純「ああ、うんありがとう……。憂、ちょっとは人の話聞こうよ。」

憂「えへへ。」

憂は嬉しそうな顔で私の胸元に付着した染みをぬぐう。

ん…拭うっていうか、妙にいやらしい手つきで、これはつまり私の胸を……。

純「………………あの、唯先輩?」

憂「ほえっ?」

純「……。」

憂「え、お姉ちゃんがどうかした?」

純「……憂じゃないよね。唯先輩だよね。」

憂「なっななななななにをおっしゃるうさぎさん。わたしはういだよ。」

純「嘘だ! 発音とか絶対不自然だよ! 私の目を見て言って!」

憂「まっさかー、あはは、私が唯なわけないじゃん、純ちゃんったらおっかしー。」

純「だってさっき胸揉んだでしょ! あんなやらしい手つき唯先輩以外にないよ!」

憂「……。」

純「さっき間違えて『りっちゃん』って言ってたし!」

憂「あう。」

純「リンゴの剥き方も憂にしては下手すぎるもん!」

憂――じゃない、唯先輩は後ろでくくっていた髪留めを外して変装を解いた。

唯「……。純ちゃん、ひどいよお……。」

純「ひどいのは唯先輩ですー。」

まったく、私を騙してたなんて! そりゃ、騙される方も大概だけど……。

唯「二人っきりのときは『先輩』は付けない約束なのに。」

純「この際、そんなことはどうでもいいですから。」

唯「ぶー。」

純「…なんで憂のかっこなんかしてたの?」

唯「これぞ忍法・姉妹入れ替わりの術だよ。」

純「忍法・姉妹入れ替わりの術?」

なんですか、その頭の悪そうな術は。

唯「ライブ終わった後、ほんとは打ち上げとか参加しなくちゃいけなくってさ…

 サークルの先輩とかも居るし、断れない雰囲気で…。

 でも純ちゃんに早く会いたかったから、身代りに憂を置いて抜け出してきちゃいましたっ! てへ?」

純「…。」

唯「あ、きゅんと来ちゃった? 会いたかったよー、ハニー!」

純「呆れてるんですー!」

唯「最近、純ちゃんきびしいなあ……。倦怠期かなあ…でも、いろいろ聞けちゃったからいいかな。」

純「あう。」

唯「『私の先輩への愛は好きなんて言葉じゃ足りないもんっ!』」

純「あああああ! やめて!恥ずかしいやめて!」

唯「『風邪の熱なんか、めじゃないくらい熱い……!』」

純「人でなしー!」

唯「えへへ、うれしいにゃー。あんなこと言っちゃうんだねー。」

純「熱の言わせたうわごとですから、きれいさっぱり忘れてください!」

唯先輩は急にまじめな表情を作ると、私の横たわるベッドに膝を置いて顔を近づけてきた。

か、かっこいい顔で迫らないでよ。

唯「『あんまり会えなくて寂しい。』」

純「……言っときますけど、この流れでキスしたら怒りますからね。」

唯「えー。」

純「えー、じゃないの。風邪うつっちゃうでしょ。」

唯「うつしてもらいたいのに……」

それは私が困るの。


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最終更新:2011年05月27日 22:49