梓「私を殺した責任――とってもらいますから。」


■■



 夜空に浮かぶそれには、静謐という表現がよく似合う。
 真円を描く姿はただあるだけで神秘的だし、何よりも一番に“遠い”ことが好ましい。
 今にも崩れ落ちそうなセカイの中で 純粋に美しいと感じられるのはそれだけだ。

 空はいつでも優しかった。

 揺籠にゆれるように、変わらない景色を眺めることが愛しい。
 例えそれが、遠過ぎて気付けないだけだとしても、
 “視えない”、ということは、とても幸せだと思うのだ。



■■


0/現在(2008年・2月11日)


唯「―――うぇっくしゅ!! …………う゛ぅ、ざびゅい」


 冬の風に当てられ、口に出してみたところで肌を刺す冷気が緩むことはない。
 厚手のコートにマフラー、手袋までつけているというのに、本当にそれが機能しているか疑いそうになる。

 ―――――寒いのは苦手だ。
 寂しいのは、と言い換えても良いかもしれない。
 孤独に身を震わせていると泣きたくなるし、ぬるま湯のような人の温もりに触れていたいと思う。

 ………矛盾している。
 ならば、何故わざわざ防寒に気を使ってまで外を出歩いているのだろう。


 ――――街頭の少ない河川敷は薄暗く、とても静かだ。
 聞こえてくるのは葉擦れの音と、川のせせらぎ。それから、どこか遠くで打たれたクラクションくらい。
 区画整理されていない、打ちっぱなしのコンクリートの歩道をなぞり、夜を渡っていく。


 そうしてぼんやりとした心持ちのままふらふらと歩いていると、
何度目かの振動が上着のポケットを震わせた。

 ―――――心配性だなぁ。

 確認するまでもなく、それは世話焼きの妹からのものだろう。
 黙って出てきたのは少し悪いかな、と思うけれど、そういうお節介を面倒に感じるときもある。
 特にこういった月の綺麗な夜には、大嫌いな孤独に身を埋めてしまいたくなるから―――


唯「……………」


 建築途中の高層ビルの屋上で、クレーンが満月を吊り上げているのが見える。
 空は町明かりに照らされて、勿体振るみたいに星の光をその向こうへと仕舞いこんでいた。
 鼻をくすぐる水と土の匂い。
 微弱な月明かりだけが光源になり――それさえ消えれば、すべてが闇へ溶けてしまいそうな


 あぁほんとうに いい――――よる――――


 目元が弓なりにしなるのと同時に、
しぃんと脳髄の深くにある信管が震えて、冴えた痛みがアタマを疾った。


 視界が軋む。


唯「――――――――っ」


 右手をこめかみに添えて、親指でぐりぐりと押し込んだ。
 気休めにしかならないけれど、やらないよりはマシだろう。
 瞼を閉じると、瞳が、疼いた。



  ―――時間切れ、かぁ。



 もう慣れてしまった感覚だけれど、相変わらず喉の奥が痛みそうなほど気色が悪い。

 なんとなく、今夜はそんな気がしていた。
 度々現れる世界の変貌を、また目にすることになるのだろう、と。

 瞼を押し上げると――――“視え”始めてくる。
 浮かび上がる“点”。溢れ出す“線”。視界に入る全てのモノに描かれる綻び。


唯「ああ―――なんて■し易そうな、」



       死に満ちた世界――――


 あるいは、これを地獄と呼ぶのだろうか。




 ―――私がそれを初めて視たのは、もう十年近く前のことになる。


 小学校に上がる前、秋も終わりかけの頃。
 正確に言うのなら十一月二十七日。
 はっきりと覚えているのは、その日が私の誕生日だったからに他ならない。
 これを誕生日プレゼントだと言うのなら、随分と意地の悪い神様もいたものだ。


唯「あれ? おとーさん? なんで、かおにらくがきしてるの?」


 その時の私は、パーティーの準備にしては珍妙極まりないな、なんてことを呑気に考えていたのだ。
 しかしよく見渡してみれば、そのラクガキは父親の顔に限ったものではなく。
 母親にも、妹の憂にも、顔だけでなく全身に、走り書きのように描かれていた。

 ふと思い立って手元のコップへと目をやれば、
家族のそれほどはっきりしたものではないけれど、やっぱりひび割れのようなラクガキが。


 軽くなぞれば砕けてしまいそうな―――――


そう考えた時には指が“線”に沈み込み、ごとり、と音を立ててその破片が転がっていた。


唯母「唯? どうしたの?」

唯「………こわれちゃった」


 それほど強い力を込めた訳ではない。
 不思議な感覚。
 まるでそうなる事が自然であったように、ガラスのコップは両断されていた。


 ―――ああ、これはきっと、よくないものに違いない―――


 当時の私にそんな事を考えられるほどの理解力があったのかどうか。
 記憶は曖昧だけれど、なんだか唐突に怖くなったのを覚えている。


唯「――――――――い、た」


 それと同時に、割れるような激痛が走った。
 ずきずきと、きりきりと、がりがりと。


唯「いた、いたい。いたいいたいいたいいたいいたいいたいいたい――――!」


 身体の中心から、全身が引きつるような痛み。
 今になって考えてみればそれは強烈な頭痛であったのだけれど、
幼かった私にはどこから来る痛みなのかも理解できなかった。

 慌てて駆け寄る母親の顔。

 その隣で困惑する父親の顔。

 何が起こったのか理解できず、それでも心配そうにこちらを見つめる、妹の顔。


 その全てに奔る、ひびのような、真っ黒い、“線”。


唯「ひ―――」


 それが酷く恐ろしくて、逃げるように蹲ってしまう。


 知らなかった。だって誰も教えてくれなかった。こんなにも、セカイは―――――


 …………私がはっきりと覚えているのはそこまでだ。
 何度も病院に通ったけれど、結局のところ原因はわからなかった。
 それに、その“線”はずっと視えていた訳でもない。

 時々思い出したように浮き上がっては、崩れ落ちそうな恐怖と鈍い痛みを残していくのだ。
 いっそ狂ってしまえば楽なのではないかと思うこともあったけれど、
優しい家族や友人に囲まれていたおかげで、私はなんとか“平沢唯”として日常をやりくりしていた。

 ああ、ひとつだけ、物事を深く考えない、というのが、
後遺症のような悪癖として残ったのは痛いかも知れない。
 ……元々能天気な気質であったことの否定はしないけどね。


唯(もうけっこー前になるかなぁ……。
 違和感と不安がいっしょになって、これだ、っていうのに変わったのはさ――)


◆◆


1/三年前(2005年・10月4日)


 ようやく体から夏休み惚けが抜け切った、十月のある日。
 秋涼爽快を体現するかのような――――
風が雲の塊をずっと上の方でちぎって、青が暖かい空気とじゃれあってるみたいな空の朝。
 いつもの通学路を、妹と一緒に辿っていた。
 まだ朝の7時過ぎということもあってか、住宅街の人通りは疎らだ。


憂「――お姉ちゃん、ほんとに、大丈夫なの……?」


 私の左隣を歩く憂は、玄関からずっとこんな調子だった。
 もっと詳しく言うのであれば、朝の食卓の時。憂の前で“発症”してしまってから、か。
 トレードマークのポニーテールも、心なしか元気なさそうに揺れている。
 緑色のセーラー服と赤色のリボン。憂と同じ制服に身を包みながら、私は首肯する。

唯「へーきだよぉ。そりゃあ……アタマ、痛いけど。
 美術の授業、今日で仕上げなんだぁ。憂と一緒に探し回ったコレ、使わなきゃ」

 手にもったプラスチックケースを振ると、コォン、と耳障りの良い音が聴こえて来る。
 中身は、数本の彫刻刀。


憂「“憂殿! 拙者の刀の所在は何処ぞ!” なんて、私の部屋に飛び込んでくるなり
 いきなり言い出すんだもん。何のことかと思ったよ」クスクス

唯「だってぇ……いくら探しても見つからないんだもん。
 憂ならしってるかな~って思ってしゃぁ」

憂「洋服ダンスの奥からそれが出てきた時は吃驚したなぁ……」


 普段から自分で生理整頓しなきゃだめだよ?
付言して、妹が人差し指を私の鼻元まで持ってくる。
 行き成りの動作に目を丸くしたのは一瞬で、それから直ぐに頬が緩んだ。
 革靴の底が、まだ寝ぼけ眼の街に覚醒を促すかのように
小気味良い音を立ててアスファルトを撥ねる。

唯「おおう。憂の“めっ”、久々だねっ」

憂「……お姉ちゃ~ん?」

唯「でへへ。面目ないです……」

 だらしなく笑いながら頭を掻くと、脳髄の信管が震えた。
 歩みは止まり眉間には深い皴が寄り、しぃん、と耳鳴が響く。


 刹那、痛烈な眩暈。


 ――うん。苦手だ。お日様の下は苦手。
 だって――お空にまで、線が視える――


唯「っ……」


 窒息してしまいそうになる。
 息苦しい。なんて、“生き苦しい”――――!


 重く透明な水が私を飲み込んで、肺に残っている空気を全て吐き出せと言う。
 次第に音という概念が私から遠のいていく。
 朝の喧騒が、信号機のとおりゃんせが、鳥の鳴き声が、
人の足音が、風が、一秒、一刻、一刹那毎に切り離されていく。

 膝から下が――否、立っている地面から喪失したかのような浮翌遊感と不快感。

 それでもよろめくことを赦さなかったのは、
ただ、横断歩道の途中で突然歩みを止めた私を伺う、憂の心配そうな顔が支えになったから。


憂「お姉ちゃん――?」


 憂が私の肩に触れようと手を伸ばす。
 いけない。不調を察せられたらおしまいだ。
きっと憂は、家に帰ろうと言い出すよ。それからそこまで連れ添って、私の看病を買って出るんだ。


 ――それは決して、憂が背負う荷物じゃないのに。


唯「だっ、だいじょーぶだいじょーぶっ! 今日も一日張り切って」


 行くよ、と笑いかけようとした顔は、作り掛けの不細工なまま固まった。
 足元から首筋まで針で突き刺されたような痛みが全身を奔り、上書きのように重い風が弄ってくる。

 左。
 一台の乗用車が、減速もなく向ってきている。
 信号はまだ青。
 直線状にいるのは、私の可愛い、掛け替えのない、たった一人の大切な妹。

 確かに、この時間帯は人通りこそ少ないけれど


 それにしたって、不用心すぎる――――!


 けたたましいブレーキノイズが、閑静な住宅街のいつも通りを裂いた。
 でも遅い。文字通りの、致命的なまでのタイムロス。
 向って来る鉄の塊は、その抑止力を物ともせずに憂の命を奪うだろう。


唯「―― ういぃっ!」


 取り落とした彫刻刀ケース。
 プラスチックの乾いた音が辺りに響くより前に、私の足は動いていた。






 脳髄が、白熱する。


 躍り出る。
 対峙する。
 事態を把握した憂が、お姉ちゃん、と叫ぶ。


 笑みが漏れた。


 そっか
 そっか
 そうだ


 そうだ ったんだぁ


 目に映る無数の“点”と“線”。

 それが一体何なのか、今なら解る。

 長い間抱えていた不安の正体も根源も、今なら全て理解出来る――――!


 手中に在るは一本の彫刻刀。

 柄を離さないように握り締める。

 堅くざらついた木の感触。これは私の脊髄。

 構えなんて知るものかと真っ直ぐに拳を突き出した。

 逆手に持った彫刻刀の先に突き出る、鈍い色の刃。これが私の魂。


唯「……………………あはっ」


 仮令どんなに無様だろうが、上手にやれる自信があった。
 否、自信なんてものじゃない。これは、確信だ。

 だって、

唯「黒い線をなぞるだけならさぁ――幼稚園から出来たもん」


 風が頬を撫でる
 車が肉薄し、


唯「教えてあげる」


 腕を



唯「これが、物を殺すってことだよ」



 振った。


◆◆


2/三ヶ月前(2007年・11月12日)

がっこうのしょくどう!

ガヤガヤガヤガヤ キョウナニニスルー? ガヤガヤ 
スパゲッティー カレーニシナサイ エッ ガヤガヤ
ガヤガヤ Aテイショクデ ガヤガヤ


和「結局……この高校生活、唯は何もしなかったわね」

唯「うっ……まだあと一年もあるよ、和ちゃん」モグモグ

和「もう二年経ったの。今から部活でもするの?」

唯「んぐっ……それ言われると弱いなぁ……」モグモグ

和「けいおん部、入ればよかったのに。随分熱心に勧誘してくれてたんでしょ?」モグ

唯「同好会だよね。けいおん同好会。
 うーん……そうだけど、私じゃ多分、勤まらないから」ジー

和「…………」モグモグ

唯「和ちゃん、私、怖いんだ――。
 何かを持ったり、誰かを触ったり。そういうのがさ。
 物はあんなにも壊れやすくて、人はあんなにも脆くて、世界はこの腕を振るうだけで、
 簡単に壊せるんだっていうことを、知っちゃったから」スッ……

和「唯、アンタ――」

唯「……ねっ、和ちゃん! それよりさ、生徒会って楽しいの?」

和「え……ええ、楽しいわ。やりがいがあって、尊敬できる先輩もいるし」モグモグ

唯「ふぅん……。この頃忙しそうにしてるよねぇ。
 しどいわあなたっ私とお仕事どっちが大切なのーー!」

和「」

唯「うっわそんな目で見ないでよぅ!
 ……でもさ、どうして和ちゃんはそんなに頑張れるの?」ジィッ

和「――そうねぇ……。自分の力がどこまで通用するか見てみたい、って言うのが一つかもね」


唯「?」


和「だって、能力を持っている以上、それを使わないのはエゴだもの。心の贅肉だわ。
 ねぇ、唯。唯のその眼だって、発揮しようと思えば何かに使えるはずでしょう?
 それをせずに日常を食いつぶすのは――甘えてるか――逃げてるだけなんじゃないの?」カチャッ


唯「…………和ちゃん」

和「…………ごめんなさい、過分だった。だから唯、そんな悲しい顔をしないで」

唯「――――和ちゃんには、わかんないよ」ボソッ

和「唯……」

唯「それに、この眼はそんなに良い物じゃないんだよ?
 出来るのは――ただ斬って、壊して、殺すだけだもん。使い道なんて、ないよ」


和「鉄や野菜を切ったりするのは?」

唯「ふはっ!? あ、あはははっ……」バタン

和「?」

唯「斬りたい場所に線がなかったら、切れないのと一緒だよぉ~」アハハ

和「……マーボー定食、食べる?」

唯「――それ、ずっと気になってたんだけど美味いの!?
 ラー油と唐辛子を百年間ぐらい煮込んで合体事故のあげく
ワタシ外道マーボー今後トモヨロシクみたいな料理が本当に美味いの!?
っていうか私が辛いの駄目だって知ってるはずだよね和ちゃん!」

和「食べる――?」

唯「食べるかァ――!」


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最終更新:2011年06月04日 22:58