唯「見てー、うい」
そう言ってお姉ちゃんが取り出したのは、色とりどりの小ビンだった。
憂「なあに、これ?」
淡いピンクや黒のインクみたいなものが入って、
キラキラとしたラメにかざられたいくつかのビン。
唯「お化粧品。買ってきちゃった」
憂「お化粧……」
唯「私ももう高校生だからさ、やってみたいんだ」
お姉ちゃんはにこにこして言う。
そう、お姉ちゃんは明日から高校生。
お化粧くらい興味が出てもおかしくない。
憂「うん、いいんじゃないかな?」
小ビンを手に取りながら言ってみる。
私の中学だとお化粧は校則で禁止されているから、
お化粧をするとちょっと悪い子みたいに思えてしまう。
でも、お姉ちゃんはもう高校生なんだよね。
唯「え、うん」
憂「うん?」
唯「だから、お化粧の仕方教えてほしいなぁって」
憂「えっ?」
――――
お姉ちゃんはどうやらお化粧の仕方がわからないみたい。
お姉ちゃんの周りにお化粧をする人はいなかったと思うから、仕方ないよね。
憂「じゃあ、目とじて」
私もお化粧のしかたはよく分からないけれど、
一人でやるよりは安全だと思ったから、お姉ちゃんを手伝うことにした。
唯「んー」
最初に開けたのは、まつ毛を長く見せるマスカラ。
これぐらいはコマーシャルとかにもよく出るし、さすがに知っている。
目を閉じたお姉ちゃんの目元に、小さな柄付きたわしみたいなブラシを横に当てる。
憂「いくよ……」
ゆっくり上に持ち上げるように、ブラシを運ぶと。
唯「……あれ?」
憂「なんかちょっと変だね……」
初めてやったせいかもしれないけれど、
CMみたいに綺麗にならない。
唯「なんかまぶたが重たい……」
憂「失敗しちゃったのかな……」
メイク落としシートを目に当てて綺麗にしてから、もう一度。
唯「目開けてやってみる?」
ブラシを当てようとしたところで、お姉ちゃんが言った。
憂「え……危なくない?」
唯「でもこんなイメージでしょ?」
憂「……そうだなぁ」
少し悩んだけれど、お姉ちゃんを綺麗にしてあげたかったから。
憂「……じゃあ、やってみる?」
唯「うん、お願い」
お姉ちゃんは強張った顔で目を開けると、
私をじっと見つめた。
憂「ごくり……」
私も緊張して、唾を飲んだ。
お姉ちゃんの瞳を決して傷つけないように、指先が震えないように。
唯「さあ来い、憂……」
お姉ちゃんの息が揺れた。
ちょっと変な気持ちになったりもしながら、再度目元にブラシを近づけた。
お姉ちゃんがまばたきしたあと、まぶたにブラシをあてる。
そして先ほどと同じように、手前に曲線を描きながら撫で上げる。
唯「……どう?」
憂「……どうだろう」
私はよくわからなくて、とりあえず鏡を取りだした。
唯「あ、こんな感じでしょ」
鏡を覗きこんで、お姉ちゃんは言う。
こんな感じなのだろうか。
なんだか、お姉ちゃんらしくない。
唯「憂、もう片目もお願い」
憂「う、うん」
言われるまま、だけどやっぱり緊張しながら、
左のまつ毛にもマスカラを塗った。
唯「はふぅ」
それが終わると、お姉ちゃんは力が抜けたように溜め息を吐いた。
唯「どう? お姉ちゃんキレイ?」
憂「……」
いつもよりまつ毛の長いお姉ちゃんは、その分きれいに見えた。
唯「憂?」
憂「う、うん。キレイだよ」
唯「んふふー」
お姉ちゃんは満足げに微笑む。
憂「っ……」
唯「じゃ、次はこれね」
胸をきゅんとときめかせた私に気付かずに、
お姉ちゃんは次のお化粧グッズのフタを開く。
憂「それは?」
淡いピンク色のジェルみたいなものが入った小ビンで、
私はなんだか分からなかった。
唯「これはなんだっけ……グロスっていうんだよ」
憂「グロス?」
唯「うん、口紅みたいなやつだって」
憂「ふーん……」
口紅にはとても見えないけれど、とにかくくちびるに塗るということだろう。
唯「じゃ憂、塗って」
憂「え?」
唯「ん」
お姉ちゃんは目を閉じて、くちびるを突き出す。
いつもと違うお姉ちゃんの顔。
憂「……自分でできるでしょ?」
唯「でも初めてだから、憂にやってほしいんだよ」
憂「……もう」
唯「はい、お願い」
お姉ちゃんにグロスを手渡された。
憂「これどうやって使うの?」
唯「指にちょびっとつけて、くちびるに塗るらしいんだけど……」
憂「なるほど……」
蓋を置いて、ビンの口に指を差し込む。
指先についたジェル状の感触。
憂「あ、付けすぎたかな?」
唯「んー」
お姉ちゃんは私の指の上で山盛りになったグロスを見て、顔をしかめた。
唯「あ、じゃあこれちょっとちょうだい」
その半分ぐらいをお姉ちゃんは指先でかすめとった。
唯「はい憂、くちびるンーッてして」
憂「……んー」
自分が何をしてるのか、だんだん分からなくなってきた。
お姉ちゃんの指が、私のくちびるに触れる。
憂「っ……」
思わず体が後ずさりしそうになった。
くちびるを触るぐらい、お姉ちゃんにはいつもやってること。
お姉ちゃんだって、時々わたしのくちびるを拭く。
なのに、こんなことで。
唯「憂、どうかした?」
憂「な、なんでもないけどっ」
あぶなく、床にグロスをなびってしまうところだった。
さっきから私はおかしなことばかり考えている。
お姉ちゃんの前でこんなふうじゃだめだ。
唯「はい、じっとしててね。ちゃんと塗ってあげるから」
お姉ちゃんは左手で私を小さな子みたいによしよしと撫でると、
右手でくちびるをすりすり擦る。
唯「おー、きれいだよ憂」
憂「んっ……」
心地よくて、目を閉じる。
くちびるに触れるお姉ちゃんの指の感触に集中できる。
憂「はぁ……」
お姉ちゃんの指がくちびるを這いまわる。
しゃぶりつかずにいられるのは奇跡みたいなものだ。
ただ、そのかわりに。
憂「お、おねえちゃん……」
唯「んー?」
憂「わ、わたしも……ぬってあげるっ」
震える指をお姉ちゃんに向ける。
マスカラを塗るときは抑えられた震えがもう止められない。
唯「んむんむ、お願いね」
お姉ちゃんは無邪気にくちびるを向けてきた。
そのままキスしてしまってもよかったかもしれない。
どうせ、そのうち抑えきれなくなるのは同じなのだから。
憂「おねえちゃん、すっごく綺麗……」
唯「えへへ。憂もキレイだよ!」
お姉ちゃんのくちびるに触れた。
グロスに濡れた指先で押し込むように、その感触をたしかめて。
艶のあるグロスを厚ぼったく塗り広げていく。
唯「んは、くすぐった……」
お姉ちゃんも、きっと理由は違うだろうけれど、体を震わせた。
お姉ちゃんのくちびるがぷるぷると桜色に光る。
すぐにでもそこにむしゃぶりつきたいのを、私はなんとか抑えた。
まだお姉ちゃんが私のくちびるを撫でていたから。
そうされているうちは、まだ私はお姉ちゃんに愛されていられるから。
唯「んむ、ん」
お姉ちゃんが何か言いたげにくちびるをもごつかせた。
唯「これぐらいで、いいよね」
お姉ちゃんはもうグロスを塗るのに満足してしまったみたいだ。
私のほうは、よくわからない。
とにかく目に映るお姉ちゃんはきれいで、愛しくて、
なんだか悪い感情を際限なく呼び起こしてきて、わたしをおかしくしてくる。
唯「うい? ……ねぇ、憂」
お姉ちゃんが呼んでいるのはわかったけれど、私は返事をしなかった。
それとも返事ができなかったのか、どっちでもいいけれど。
憂「知ってる? お姉ちゃん」
私は離れようとしたお姉ちゃんの手を掴んで、
その指に頬をすりつけるようにしながら言った。
憂「お化粧ってね……人を変えるんだよ」
唯「う、うい……」
お姉ちゃんは少し戸惑った。
私のしようとすることをもう分かっているのかもしれない。
だけど、強く抵抗しようとはしなかった。
憂「お姉ちゃん。キスするよ?」
掴んだ手が、びくりと跳ねた。
唯「そ……」
憂「うん……?」
わたしは、できる限りやさしく微笑んでみた。
でもきっと、強張って怖い顔をしていたと思う。
唯「んっと……ど、どうして」
憂「お姉ちゃんが好きだから」
嘘だ。
お姉ちゃんのことを、まじめに恋愛対象に置いたことは一度もない。
わたしは、今の私がただ、お姉ちゃんを可愛いと思ってるから、キスしたいだけ。
憂「ずっと好きだったんだよ? こんなふうに、くちびる……」
お姉ちゃんのくちびるをそっと押す。
ふわふわしてて、気持ちよかった。
憂「さわりあいっこしてたら、我慢できなくなるの、しょうがないじゃん」
子供みたいにだだをこねて、自分を正当化する。
唯「う、うん……ごめん」
お姉ちゃんもわけがわからなくなってるんだろう。
わたしの言い分を素直に受け取った。
憂「じゃあ、キス……」
唯「……うん、いいよ」
おそるおそるという感じでお姉ちゃんが頷く。
唯「あ、あのさっ」
憂「……なに?」
唯「これって、カウントするの?」
あわてたふうに、お姉ちゃんは言った。
潤んだ瞳で私を見つめて、自分が何を言っているかもよくわからないんだろう。
私は嘘をついた。
お姉ちゃんは、そんな私の嘘を踏みにじった。
わたしとお姉ちゃんの、最低比べは……
――私が勝たなきゃいけなかった。
最終更新:2011年06月24日 21:35