1. VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(チベット自治区) 2011/06/26(日) 15:36:53.14 ID:BD9wf7ABo
四人掛けの対面座席に紬と梓が座ると間も無くして車窓が流れ始めた。
最近導入されたばかりの新規車両なだけあって走り出しは滑らかだったがそれがかえって居心地の悪さを感じさせる。
「なんか、これはこれで変な感じですね」
レバーを引いて背凭れを起こしながら梓が言った。
「え?対面じゃないほうがよかった?」
「あ、いえ、そうじゃなくて、電車ってもうちょっと揺れるイメージがありません?」
うーんと唸った後、紬は「そう?」と返事をして、それが梓には少し素っ気無く思えた。


それから天気の話やテレビの話を芝居がかった調子で申し訳程度にして、30分もすると話題は尽きた。
梓が喋れば喋るほど紬は聞き役に徹してしまい、さらに梓が言葉を重ねると紬は微笑みながら頷くだけになる悪循環。
紬にとって会話というものは向こうからやってくるもので、と言っても相手に任せるという事ではなく、「会話」自体が布のように二人の上に降りてくるのを待つともなく待つといった具合で、「もたせる」とか「盛り上げる」という発想がなかったのだ。
いよいよ梓が次の言葉を見つけられなくなると、紬は車内を見渡したりシートを寝かせたり起こしたりするだけになった。
向かい合った座席がもう少し近ければ無理にでも会話を続けようと話題を捻り出すこともあったろうが、ゆったりとしたスペースは話すも寝るも自由といった具合で、徹しきるのが苦手な梓には仇となった。
時計のストップウォッチ機能で7を揃える遊びを梓は提案したがそれも数回やってお開きとなった。

2. VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(チベット自治区) 2011/06/26(日) 15:40:50.78 ID:BD9wf7ABo
八月の早朝の空が遮音壁の隙間から僅かに見える程度で、コンクリートを眺める趣味のない紬はすぐにそれに飽きてしまった。
紬につられて外を見ていた梓も、車窓の発見と言えば遠くにそびえる巨大な杭打ち機のみで、それすらすぐに流れていったので紬の方に視線を戻した。
紬はサンダルを履いた自分の足を動かして爪先を眺めながらシャララと鼻歌のようなものを歌う一人遊びに興じ始めた。
紬の爪の光沢。梓が話をしにくい理由が一つ増えた。
ペディキュアの光沢のえも言われぬ緊迫感。
無色の爪に重ねる無色が放つ気品の光を見て、梓は自分の真っさらな爪が野放の不恰好なものに思えた。
紬への憧念や畏れではなく、爪に彩りを施すという習慣の無さが違和となった。
しきりに足を動かす紬がふと顔をあげると、梓と目が合った。
困ったように笑って、梓はまた味気無い車窓を眺めることにした。
そしてやはりその味気無さに困るのだった。
新幹線はあくまでも移動手段であって、娯楽を目的としていないということに今更ながら梓は気付いた。
梓はノースリーブの青い服と七分丈のパンツを、紬はチュニックの白いワンピースとハーフパンツをそれぞれ着ていたが、その格好が季節に合っているかどうかもわからなくなった。
トランプでも持ってくれば良かったと思いながら、梓は高架線の内側が流れていく様子を見るともなく見て、遠方に杭打ち機を思い描いた。

3. VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(チベット自治区) 2011/06/26(日) 15:43:14.17 ID:BD9wf7ABo



――大学の部活の合宿の他に桜高の現軽音部とOGの合同合宿を発案したのは澪で、紬の別荘以外の場所にしようと提案したのは梓だった。
「私達はいいですけど、ムギ先輩は新鮮味がないんじゃないですか?」
紬は最初、別荘を使うのは構わないしみんなとなら楽しいからと言ったが、三年の夏に苗場に行った時や卒業旅行の時の紬が、別荘での宿泊以上にはしゃいでいた事は誰もが覚えていた。
そういう訳で紬には頼らずに合宿の場所を探すことになった。
「私は大丈夫なんだけどなぁ」と言っていた紬も、いざ候補地を考える段階になるとやはり活き活きとし始め、唯は梓に「よかったね、ムギちゃん楽しそうだよ」と耳打ちしてにんまりとするのだった。

何度か話し合いをした後、桜が丘からは大分離れた場所の、海の近くにある宿に決まった。
その下見役となったのが時間の都合のついた紬と梓だった。



8月の頭の早朝、二人は新幹線に乗って目的地を目指した。

4. VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(チベット自治区) 2011/06/26(日) 15:45:16.52 ID:BD9wf7ABo

「あ、そうだ、お菓子持ってきたの」
思い出したように紬は言ったが、実際は言い出すタイミングを見計らっていたらしく、胸の前で両手を合わせる仕草もどこかぎこちない。
肘掛けに備え付けのミニテーブルを出してクッキーとアイスティーを広げる。
早朝でまだ活発化していない胃に詰め食べ飲み干し、当てなく言葉が漂う。
その言葉のほとんどは低く唸る走音に紛れて互いに聞き取りにくい事が多く、適当に相槌を打ったり、話の内容もわからないまま笑って見せたりするだけだった。
どうにも声を張ろうという発想が出てこない。

そのうち紬の瞬きが鈍くなった。
ほっとした梓は「着いたら起こしますよ」と言って寝るのを促した。
他の常客がいなかったせいか、買ったばかりの靴のような身体に合わない感覚に梓は覆われた。
いかにも用意してもらったような空間。
空間に合わせた振舞いをしなければいけないような。
その中にあっていい加減に打たれた杭のように座らされている。
それを思うと、梓は何を話したところで無様になる気がして、正しい態度を模索しているうちに新幹線はどんどん進んでいってしまうのだった。

時折遮音壁が途切れて野山、田畑、街並みがそれぞれ朝日に照らされているのを見ることが出来たが、他人行儀の側から見ても何の感慨も湧かなかった。

5. VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(チベット自治区) 2011/06/26(日) 15:46:57.66 ID:BD9wf7ABo

目的の駅に着くと、梓は紬を揺すって起こした。
車両から出てすぐに、紬は「あっ」と言って引き返した。
自分達が座っていた席まで戻り、お菓子のごみを急いで袋に入れる。
梓は窓の外からその様子を見守り、構内アナウンスが発車を予告すると、焦って「発車しちゃいますよ!」と言った。
が、分厚い窓ガラスに阻まれて紬の耳には届かない。
片付けを終えた紬は梓の方を見て微笑み、そこでようやく梓が焦っている事に気付いて急いで車両から降りた。

ベルが鳴って新幹線はさっさと次の駅に向かって走り出し、線路の中は空になった。

「もう、危ないところでしたよ」
「だって、ごみ置きっぱなしは良くないよ」
「そうですけど……」
と梓はばつが悪そうに言って、時計を見てから「行きましょう」と言って紬の意識を電車の乗り換えへと向けさせた。

6. VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(チベット自治区) 2011/06/26(日) 15:48:47.68 ID:BD9wf7ABo
改札を出て案内板を頼りに進んでまた改札を通る。
駅の中は蒸していてやや息苦しい。
別線のホームに立つと日は高くなり始めていて、さんざんじり焼かれた後二人は電車に乗り込み、がたがた揺れながら発車すると梓は少しほっとした。
「あ、本当ね。ちょっと揺れたほうが電車っぽい」
紬が揺れに合わせて身体を動かしながら言った。

車内はそれなりに人がいたため、うまい具合に二人ぶんの席が空いていなかったので二人とも吊革に掴まって立ち続けていたが、そのうち紬がぎこちなく足を捻り始めた。
「どうかしました?」
「うーん、ちょっとこのサンダル足に合ってなかったみたい」
「買ったばっかりなんですか?」
「うん」
見ると、紬の足の親指と人差し指の間が少し赤くなっている。
「でも我慢する」
「じゃあ今日は早めに下見終わらせて帰りましょうか」
「うん」

7. VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(チベット自治区) 2011/06/26(日) 15:51:24.90 ID:BD9wf7ABo
途中、駅に停まって発車するたびに紬は身体を揺らし、梓のほうを見て得意気に笑った。
降りる客はいても乗ってくる客はいなかったので、車両の中は閑散とし、目的地の二駅前ではとうとう紬と梓だけになった。
背の低い梓は吊革に掴まるだけで指先が圧迫されて白くなった。
発車の時以外はそれほど揺れないことに気付いてからは吊革に頼らずに立ち、カーブの時にはバランスをとりながら少しよろめいた。
その様子を見た紬も吊革を離し、同じようにして楽しみ始めた。
なんとなく座るタイミングを逃した二人は、そのまま立ち続けた。。

窓ガラス越しに見える広葉樹の緑の葉々が日射しを飲み込む。
電車が呑気な走り方をしているせいで風にそよぐ様もはっきり見えた。
山の中にゆっくりと電車は潜り、少しの間二人は風景の変化を眺めた。

山を抜けてしばらくして、目的の駅に着いた。
無人の改札をくぐるとロータリーの地面の照り返しが二人の目を眩ませた。
嬉しそうに顔をしかめると、紬はバッグから印刷しておいた地図を取り出して、
「こっちね」
と言って歩き始めた。

8. VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(チベット自治区) 2011/06/26(日) 15:53:06.36 ID:BD9wf7ABo
駅の周囲には、土産屋がぽつぽつと立っている他は小綺麗でやたら広い道路と木しかない。
道路を作ったはいいが往来が少ないため綺麗なままなのだろう。

宿までの徒歩二十分で二人は随分と汗をかいた。

自販機で飲み物を買い、蝉の爆弾に怯え、地図を逆さに見て、なるべく日陰を選んで歩き続け、ようやく目当ての場所に着く頃には背中に汗のシミができていた。
特に紬はサンダルの擦れで余計に体力を使い、前髪が額に張り付き、白い肌はみるみる紅潮していった。
起伏の多い道がそれに拍車を掛けた。
日差しが重さを持ったように感じられ、梓は納得できないといった目つきで太陽を睨んだ。
しかし熱気で睨み返され、やる瀬なく額と首筋を拭うのだった。

会議の際はあくまでも軽音部の合宿ということで最初はスタジオつきの宿を探したが、そんな条件に合う場所はそうそう見つからず、ならばと結局宿とは別にスタジオが近くにある所を選んだ。
奇しくもそれを見つけたのは唯でも律でも澪でも梓でもなく紬だった。


二人は先にスタジオをみて、これといった問題もないことを確認した後、すぐ傍の宿に向かった。


最終更新:2011年06月27日 21:12