律先輩への一年越しの想いが実ってはや一ヶ月。

三月も後半を迎え、春の陽気が訪れようとしていた。

N女子大に無事合格を決めた律先輩。
実家通いは厳しいということで、一人暮らしを始めることにした。

今日は引っ越しの日。私は律先輩のお手伝いに来ていた。


梓「先輩、これどこに置いたらいいですか?」

律「あ、それはここに」

梓「分かりました……よいしょ」

律「ふー、これで荷物は全部運んだな。ありがとう、後はやるから大丈夫だよ」

梓「あの、よろしければ荷物整理も手伝いたいんですが」

律「でも整理まで手伝ってもらっちゃったら大変だし……それに、帰りが遅くなるぞ」

梓「大丈夫です、是非手伝わせてください!」

律「そっか。それじゃお願いするよ」

梓「はい!」

まだ、律先輩と離れたくない。

律「机はここで、テレビはここ」

梓「コンポはこの辺りで大丈夫ですか?」

律「うん、そうだな。それから……」

律先輩と私は顔を見合わせる。

律「ドラムはここ」

梓「ですね」

十畳近いワンルームの半分以上を占めてしまうドラムセット。
持ってくるのは一番大変だったし、大きさという点でも厄介ものだが。
律先輩の相棒として、一番必要なものだった。

律「やっぱり場所とるなあ。騒音もあるから夜中は叩けないだろうし」

梓「でもちゃんと練習しておいてくださいよ。来年、絶対バンド組むんですから」

律「分かってるって」

律先輩はあまり物を持たない性格だ。
必要最小限の家電と生活品だけが置かれた一室は、がらんとしている。

その中でドラムは異様な存在感を誇っていた。

律「ぜってー上手くなってやるからな。来年バンド組んだときに驚くなよ?」

梓「くすっ……楽しみにしてます」

荷物整理の中で一番大変だったドラムの設置が終わると、後の作業はスムーズに進んだ。

律「それじゃ皿とかコップはそこに並べて」

梓「はーい」

律「フライパンとか料理器具一式はここだな」

梓「自炊も大変ですね」

律「全くだ」

梓「面倒臭いからって外食やコンビニ弁当ばかりじゃダメですよ。健康に悪いから」

律「大丈夫だって。何とかやっていくよ」

梓「……心配です」

律「ばっか、私の料理スキル知ってるだろ? 料理はお手の物だよ」

梓「律先輩の手料理かあ」

何度かごちそうになったことはある。
中でも、軽音部みんなで食べたハンバーグは絶品だった。

グゥー

梓「……!」

律「何だ、お腹空いたのか?」

梓「だ、だって!」

律「もう夕飯の時間だもんな」

律先輩はにやにやとした顔を近づけてくる。

律「片付けも終わりそうだし、そろそろ帰るか?」

梓「!」

律「ご両親も心配してるだろうからな」

梓「うぅ~~」

律「へへ、そんな顔するなよ。冗談だって」

梓「意地悪っ!」

律先輩は私の頭をわしゃわしゃと撫で回した。

律「よし、大分片付いたし、夕食の材料でも買いに行こうか」

梓「はい!」


季節はすっかり春になったとはいえ、夜になるとまだまだ寒さが厳しい。
突然吹き荒れる冷たい風が肌を突き刺した。

梓「くしゅんっ」

律「寒くないか?」

梓「大丈夫です」ズズ

律「鼻水垂らしてるやつが言うことじゃないっての。そんな格好してるから」

梓「私、寒さには強いんですよ」

律「強がるなって……ほらよ」

律先輩は自分の上着を脱いで、私に着せてくれた。

梓「……ありがとうございます」

そっと手を触れてみる。
まだ律先輩の温もりが残っていた。

律「風邪ひかれちゃ親御さんに顔向けできないしな……そういえば、ちゃんと連絡はしたのか?」

梓「はい、律先輩のところにいるから遅くなるって」

律「そっか。よかった」

梓「先輩によろしくって」

律「助かってるのはこっちだけどな」

そのとき再び、風が吹く。

律「くしゅんっ」

大きなくしゃみをした律先輩は、ばつの悪そうな顔を浮かべていた。

梓「上着、返します」

律「いいっていいって」

梓「律先輩が風邪ひいちゃ元も子もないじゃないですか」

律「大丈夫だよ」

梓「でも……」

律「それじゃあさ」

律先輩は私の手を取った。

律「手だけでも温めてもらおうかな」

梓(……ばか)

握った手から、律先輩の温もりが流れ込んできた。


私たちの間で言葉がとぎれる。
言葉が無くなると、私の頭には余計な考えが浮かび上がってくる。

桜ヶ丘から律先輩の家までは一時間半、あまり気軽に会いに行ける距離ではない。
律先輩は大学生活で忙しいだろうし、私も部長の仕事や受験で忙しくなってしまう。

顔を合わせる機会が少なくなれば、すれ違いが生まれるというのはよくある話だ。
このままどんどん会う時間が少なくなると、お互いの気持ちが離れてしまいそうで怖い。

大学生になれば交友関係が格段に広がる。
いつも笑顔で明るい律先輩。話もとても面白いし、一緒にいるとすごく楽しい。
きっと、友達がたくさんできるだろう。

それだけじゃない。
律先輩はあれでいてかなり美人だ。性格だって良い。
男性からの人気もかなり高いはずだ。

もしも男の人から告白されたとき、律先輩はきちんと断ってくれるだろうか。
私と付き合っていると、声に出して言ってくれるだろうか。

……何だかすごく気が重い。
数ヶ月後には、「別れよう」って言われてしまうような気がして。

律先輩に限って、そんなことありえないのに。
信じていますとはっきり口にすることができない。


律「……お、こんな所にコンビニがあるんだ」

律先輩が口を開いた。
急なことだったので、返事ができなかった。

律「これからお世話になるだろうな。あ、こっちには喫茶店が」

律先輩はあちこちに目を移している。
新しい自分の町に胸が躍っているようだ。

律先輩は、不安じゃないのかな。

律「おお、向こうに楽器店が!」

梓「ちょっと先輩! スーパーここですよ!」

律「あぁ、また今度……」

名残惜しそうな律先輩の手を引っ張って、私はスーパーに足を踏み入れた。

律「何食べたい?」

梓「ハンバーグがいいです!」

律「よし、りっちゃん特製のハンバーグを作ってあげよう」

梓「やったあ! 何が必要ですか?」

律「挽肉だろ、野菜だろ……米は持ってきたのがあるから、後は味噌ぐらいかな」

梓「はい、それじゃ順番に買っていきましょう」

梓「このレタスどうですか?」

律「キャベツがいいなあ」

梓「ハンバーグにはレタスですよ」

律「そんなことないぞ、私の家では……」

梓「レタスでしたよ」

律「あれ、そうだっけ?」

梓「よく覚えています。先輩、ハンバーグとレタスの相性は抜群だーって言ってたじゃないですか」

律「忘れちゃった」テヘッ

梓「お肉見に行きましょう」スタスタ

律「ああん、きゃべつぅ!」

梓「もう、行きますよ……あっ」スタッ

律「きゃべ……むぎゅっ」

梓「……」

律「梓?」


男「この魚がいいんじゃないか?」

女「こっちも良さそうよ」

男「それじゃそっちにしよう。次、行こうか」

女「うん!」


新婚さんだろうか。仲睦まじいカップル。
手を握りしめて笑顔を交わす様は、傍から見てもとても微笑ましい。

私と律先輩では、仲の良い女友達か、せいぜい姉妹というぐらいにしか見られない。
他人の目なんかどうでもいいはずなのに、何だか悔しい。


律「どうした、梓」

梓「……律先輩。カチューシャ、取ってください」

律「何だよ急に。髪下ろしたら変になるから嫌なんだって」

梓「変じゃないです。とても似合っています。だから、お願い……」キュッ

律「梓……」

律「分かったよ。これでいいか?」スッ

梓「はい!」

前髪を下ろした律先輩は、文句なしに格好いい。
そこらの男の人なんかより、ずっと。

梓「……律先輩」ギュッ

律「何だよ、甘えん坊」

梓「いいじゃないですか、少しだけ」

律「仕方ないなあ」


女「見て、あの子腕にしがみついちゃって」

男「本当だ、よっぽど仲がいいんだろうね」


律「なあ梓、周りの視線が気になるんだけど……」

梓「私は気になりませんけど。先輩は嫌なんですか?」

律「べ、別にそういう訳じゃないけど」

梓「ならいいじゃないですか」

律「うぅ……」

今の私はかなりわがままだと思う。
だけど、意地でも律先輩の腕を放したくなかった。

律先輩に触れていると、何だか安心するから。
この手を放したら、すぐに不安になってしまうから。


会計を済ませて、買った物を袋に詰め込む。

律「カチューシャ、もう付けていいか?」

梓「はい、いいですよ」

律「ふーよかった、やっと落ち着ける」

梓「わがまま言ってごめんなさい」

律先輩がカチューシャをあまり取りたがらないのは私自身よく分かっているはずだった。
それなのに、私は半分強引に取らせてしまった。

……今さらながら、少し反省。

律「いいよ、別に。カチューシャ取ってほしい理由があったんだろ?」

梓「……はい」

やっぱり律先輩は優しい。

律「じゃ、帰ろうか」

梓「あ、荷物半分持ちます」

律「いいって、重いだろ」

梓「大丈夫です!」

律先輩から買い物袋を引ったくるようにして受け取った。

律「おっと、変な奴だなぁ」

梓「その代わり」

律先輩の空いた方の腕に目をやって、すかさず抱きつく。

律「……なるほど、これがしたかった訳ね」

梓「えへへっ」

だって、律先輩と腕組むの好きだもん。

律「……で、いつまでこうしてるんだ」

梓「お家に着くまでです」

律「構わないけどさ。買い物袋、重くないか?」

梓「大丈夫です。だから、このままでいさせてください」

律「はいはい」

重いものは律先輩が全部持ってくれたから、左手一本でも全然堪えない。

それに、こうやってくっついていると、とても暖かくてほっとする。

後少しでこの不安も消えると思うから、もうちょっとだけ甘えさせてください。


――――

律「よし、できたぞ!」

お皿の上にジュウジュウ音を立てるハンバーグがのせられる。

梓「わぁ、すごくおいしそう」

律「しばらく料理から離れてたけど、腕は落ちてないな」

梓「ね、ね、早く食べましょうよ」

律「慌てるなって、野菜盛りつけないと」

梓「それじゃ早く盛りつけましょう!」

律「はいはい……って、野菜はお前の係だろ」

梓「あ、そうでした……」

ご飯、味噌汁、漬け物、ポテトサラダに、人参とコーンが添えられたハンバーグ。
豪華な夕食がずらりとテーブルに並べられた。

どれも目移りするほど美味しそうで、思わずよだれをすすってしまう。

律「じゃあ、そろそろ」

梓「はい!」

私がご飯茶碗に手を伸ばしたそのとき。

律「おあずけ」

梓「!」

律「……」

梓「……」

律「……」

梓「うぅ……」ソワソワ

律「ぷっ、くくっ」

梓「もう、律先輩!」

律「ごめん、ちょっとやってみたかったんだ」

律先輩はいたずらっぽく笑う。
もしかして私をペット扱いしてないだろうか。

梓「むーー」

律「悪かったって。ほら、早く食べよう」

梓「……はい!」

梓「この味噌汁すごく美味しいです」

律「そっか、よかった」

梓「もやしと味噌汁ってこんなに合うんですね」

律「もやしは万能の材料だからな。安くて、簡単に料理ができる」

梓「へぇ~」

律「一人暮らしの必需品だ!」

自信満々に答える律先輩を横目に、メインディッシュに手をつける。

箸で切れ目を入れた瞬間、湯気と一緒に肉汁が溢れでてきた。
ちょいちょいとケチャップをつけて、口の中に運ぶ。

梓「……」

律「どう、上手くできてるか?」

梓「はい、とても美味しいです。親に作ってもらったのより……」

律「おいおい、褒めすぎだって」

梓「だって本当ですもん」


両親が共働きの我が家では、手間のかかる料理はそれほど頻繁に出ない。
その中でもハンバーグは滅多に出るものではなかった。

出たとしても、スーパーで売ってるような焼くだけのタイプのものだ。
美味しいけど、声に出して美味しいって言うほどのものでもない。

だから、ずっと前に律先輩の家で食べたハンバーグは。
……律先輩の作ってくれたハンバーグは、私の心に深く残っていた。


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最終更新:2011年07月01日 20:41