梓「久しぶりに食べたけど、本当に美味しいです」

律「そこまで喜んでもらえたら作ったかいがあるな」

梓「また、食べたいなぁ」

律「しみじみ言うなって、別に最後の晩餐って訳じゃないんだから」

梓「……」

律「また今度来たら作ってやるよ」

梓「……今度っていつになるんでしょうか」

律「うん?」

梓「な、何でもありません」

うっかり口を滑らせてしまった。
消えたと思っていた不安はまだ残っていた。

慌ててその場は取り繕ったが、律先輩は怪訝な表情を浮かべていた。



夕飯を食べ終えて、テーブルの上はきれいさっぱり片付けられた。

時計の針は既に八時過ぎを指している。

梓「……」

律「なぁ、梓」

梓「……」

律「そろそろ帰らないとまずいんじゃないか?」

梓「……」

律「梓ってば」

梓「見えない聞こえない」

律「たくっ、仕方ないやつだな」

梓「外は真っ暗ですよ」

律「だな、あっち帰る頃は深夜近くになってるよ」

梓「恐いなあ、変質者に襲われたらどうしよう」

律「職質されないように気をつけろよ」

梓「麗しの女子高生がこんな時間に出歩いていたら襲われますよ!」

律「誰が麗しいって?」

梓「むっ」

律「それに、駅まで送ってやるから大丈夫だよ」

梓「むー……」

梓「今日ここに泊まりたいな」

律「だーめ」

梓「けちっ、何でですか!」

律「明日部活あるだろ?」

梓「……あります」

律「しかも、新しい軽音部として最初の部活だったろ?」

梓「……そうです」

律「じゃあ、早く帰って寝ろ」

梓「そうですけど! ……お昼からだから、朝帰れば大丈夫です」

律「遅刻したらどうすんだ」

梓「……」

律「お前は新しい軽音部のリーダーだろ」

梓「リーダーだったら、わがままも言えないんですか」

律「ばか言ってんな」

梓「……」

律先輩の言うとおり、今の私はどうしようもない子だ。
でも、今日だけはわがままを許してほしかった。
律先輩とまだ離れたくないから。

律「私が言いたいのは、リーダーなんだから去年よりずっと責任が重いってことだよ」

梓「……」

律「遅刻したら、憂ちゃんたちに申し訳が立たないだろ」

人の上に立つリーダーの責任は重い。
そんなこと分かってたし、覚悟してたつもりだけど。
何だか理不尽だなって思う。

今の私は部長失格だ。

梓「……だったら」

律「うん?」

梓「明日、朝一で帰ります」

律「……」

梓「これなら絶対遅刻しません」

律「……」

梓「だから、泊めてください。わがまま言うのは今日だけにしますから!」

律「……」

律「……分かったよ、泊めてやる」

梓「本当ですか?!」

律「ただし、条件が一つ」

梓「!」ゴクリ


律先輩の言葉の続きを、固唾を呑んで待つ。


律「……両親に、連絡すること」

梓「はいっ!」

大きく返事をしたと同時に、嬉しくて思わず律先輩の胸に飛び込んだ。

律「ととっ」

梓「律先輩だいすき!」

律「現金なやつ」クスッ


梓「お泊まりお泊まり嬉しいな」

律「小学生かよ」

梓「りーつせんぱいっ」

律「なんだ?」

梓「……」ギュウゥ

律「いっ、締めすぎだって」

律先輩はあったかい。

律「お風呂わいたぞー」

梓「お先にどうぞ」

律「いいよ、梓が先に入っちゃいな」

梓「えっ、でも」

律「いいからいいから」

梓「うーん……」

家主より先にお風呂というのは少しためらいがある。
私がうんうん唸っていると。

律「じゃあさ、一緒に入ろっか」

梓「へっ? そ、それは」

律「別に合宿のときに一緒に入ったじゃん」

梓「あのときは大勢だったから……」

律「それにもう付き合ってるんだし、いいだろ?」

梓「あ、うぅー……」

律「やっぱ恥ずかしい?」

梓「……」



かぽーん。

梓「案外広いお風呂ですね」

律「だろ? 立派な風呂がある物件を選べって教わったからさ」

梓「足をまっすぐ伸ばせて快適です」

律「あー私も早く入ろ」

そう言って律先輩は髪を洗いはじめる。

梓「い~い湯だな」

律「あははん」

梓「い~い湯だな」

律「おほほん」

梓「ここは上州、り~つの湯」

律「……私の湯ってなんだよ」

梓「何かえっちいですね」

律「バカなこと言ってないであがれ、髪洗っちゃる」

梓「えっ、いいですよ」

律「遠慮すんなって、サービスだ」

梓「……じゃあ」

律「……」ワシャワシャ

梓「ふんふ~ん♪」

律「力加減はいかがですか、お嬢様」

梓「ちょうどいいですよ」

律「かしこまりました」

律「……」ゴシゴシ

梓「頭があわあわ~」

律「……」ピタッ

梓「? どうしたんですか?」

律「梓の髪はきれいだな」

梓「へっ?」

律「長くてつやつや、羨ましい」

梓「そ、そんなことないですよ」

律「謙遜すんなって、本当にそうだから」

梓「うぅ……」

律「私の髪じゃ、伸ばしてもこうならないよ」

そのとき、律先輩はちょっとだけ寂しそうな目をした。

梓「……私は律先輩の髪、好きですよ」

律「……梓」

梓「さらさらで柔らかそうで。それに、ショートカットは元気な先輩にぴったりです」

律「ふふっ、ありがと」

律先輩はいつもの明るい笑顔を浮かべた。

律「よっしゃあ、ラストスパートだ!」ワシャワシャワシャ

梓「きゃー♪」

律「おらおらおらおら」ゴシゴシゴシ


風呂から上がると、買っておいた牛乳を一気に飲んで喉を潤した。

テレビのバラエティを見たり、律先輩と何気ない話をしたりして寝るまでの時間を過ごす。

楽しい時間はあっという間に過ぎてしまうもので、気がついたらもう日を跨ぐ時間に差しかかっていた。


梓「……」

律「梓、もう寝るぞ」

梓「もう少し起きていたいです」

律「夜更かしは体に悪いぞ。それに、めぼしい番組も終わったろ?」

梓「起きてるだけでいいんです」

律「明日朝早いんだから、早く寝ないと」

梓「そうですけど」

律「約束したろ」

梓「……分かりました」

律「よし、電気消すぞ」

梓「はーい」

暗くなった部屋の中で、一枚の布団に律先輩と並んで寝ころぶ。

律「おやすみ」

梓「おやすみなさい」


一日の終わりに布団の中で、その日の反省をすることは私の習慣だった。

律先輩との楽しい一日。
引っ越しを手伝って、ハンバーグをごちそうになって、一緒にお風呂に入って。
本当に楽しかったなぁ。

こんなに楽しい日が次に来るのは、一体いつになるだろう。


楽しい一日の終わりというのは、どうしても感傷的になってしまう。
まるでその時を狙いうちにしたかのように、不安がよみがえる。


律先輩と過ごした高校生活。
私があと一年残すなかで、律先輩は一足先に卒業した。

明日からは文字通り、律先輩のいない部活がスタートする。
律先輩だけじゃない。唯先輩も、澪先輩も、ムギ先輩もいない。


私が軽音部を引っ張っていかないといけない。

新しい軽音部への不安と、律先輩と離れてしまう不安。

二つの不安が私につきまとう。

梓「先輩、起きてますか?」

律「んー、どした?」

梓「……眠れません」

律「目つぶって深呼吸してみな」

梓「……」

律「……」

梓「……やっぱり眠れません」

律「不眠症か」

梓「普段はもっと寝付きがいい方なんですけど」

原因は分かってる。不安で眠れないんだ。
この不安はどうしたら消えてくれるのか。

そもそもどうして私はこんなに不安になってるんだろう。
律先輩は私より一個年上、卒業で離ればなれになることなんて当たり前だ。

とっくの昔に分かっていた。
そんなこと覚悟の上で、告白したはずなのに。

あのときの私は、ほんの一年我慢すればいいって甘く考えていた。
その一年がどれほど辛いものになるかなんて分からなかった。

どうして私と律先輩は同い年じゃないんだろう。
律先輩が一年遅く生まれていれば……私が一年早く生まれていれば、こんな思いをせずにすんだのに。

やっぱり律先輩と離れるのが恐い。
きっと、私と律先輩との間に何もないからだ。

律先輩はどちらかといえば消極的だ。
最初のキスを除けば、今まで何もなかった。

多分私の気持ちを第一に考えて、焦ることはしないんだと思う。
その心遣いはすごく嬉しい。

でも今は、確かなものが欲しい。
離れていても安心できるように。

もんもん悩む私の頭の中に一つだけ、正解らしきものが思い浮かぶ。
その瞬間、頬が熱っぽくなったのが分かった。

それはあまりに唐突で、しかも大胆なものだった。

でも、今の私にはこれ以外の解答は思いつかない。

だから、言うしかない。

心を決めた私はゆっくりと起き上がって、律先輩を見つめる。

律「どした、梓」

梓「……律先輩」

律「うん?」

梓「お願いがあります」

律「なんだ?」

心臓が鼓動を速める。緊張して手に汗をかく。

体全体の温度が上がったように感じて、心なしか目頭が熱い。

呼吸のペースが上がる。

梓「……」

律「梓?」

声が裏返らないようにゆっくり慎重に口を動かす。

胸が張り裂けそうだった。

それは、私にとって初めての体験。

絞り出すようにして、言葉を発する。


梓「……抱いてください」


その一言が物音一つない暗がりの部屋に溶けこんでいく。

律先輩にはっきりと聞き届けてもらうために。

梓「私を、抱いてください」

もう一度、繰り返した。


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最終更新:2011年07月01日 20:42