暗やみにすっかり慣れた私の目は、律先輩の鋭いまなざしを捉える。
驚いているような怒っているような、とにかく真剣な瞳をしている。

律「……梓」

律先輩はゆっくりと近づいて、腕の中に私をすっぽりと収める。
高鳴る胸を手で押さえて、私は覚悟を決めた。


自分への確認のためにつぶやく。
この人で間違いない、私の全てを預けていいんだ。

律先輩の胸に体を傾けて、私は静かに口を結んだ。

暗い部屋には私と律先輩の二人だけ。
こんなことは初めてだった。

お互いの家に泊まりに行ったことはあるけど、その時は家族がいた。
一つの部屋に二人きりで夜を過ごすのは初めて。

付き合った以上、いつかは体の関係を持たなければならない。
あるのは、早いか遅いかの違いだけ。

今日がその日なんだ。
次にいつこういう日が来るかは分からない。

だからいいんだ、きっと。

律「梓……」

律先輩と視線が重なる。

律「目、つぶって」

律先輩の指示に従い、私は両目を閉じた。
ただでさえ暗かったのが、完全な闇に閉ざされる。

何も見えないのは少し恐いけど、今は律先輩の腕の中にいる。
だから別に、何も心配しなくていい。

私が感じるのは律先輩の温もりだけ。

唇に柔らかいものが触れた。
触れただけで、それはすぐに離れた。

二回目のキスだった。

一回目は告白したときで、あのときは私から。
律先輩からしてもらったのは初めて。

大好きな人とキスができて嬉しい。
でも、この先に進むのが恐い。

嬉しさと切なさが入り混じったよく分からない感情にとりつかれる。

律先輩に任せれば大丈夫という私。
やっぱり恐いという私。

二人の私が現れた結果、心の中がますます不安定になっていく。

目尻に何かが溜まって、やがてそれは頬を流れていった。

私は不安を押し殺して、律先輩の次の行動を待つ。

だけど、いくら待っても何もされなかった。

梓「律先輩……?」

おそるおそる目を開けてみると、律先輩が苦笑いを浮かべている。

律「今日はここまで」

律先輩はあっけらかんと答えた。

梓「な、何でですか?」

律「何でって、そりゃ……梓にはまだ早いかなって」

梓「別に早くないです、今日がその日なんです!」

律「何を焦ってるんだよ」

梓「っ……ち、違います」

律「こういうのは、梓が大学入ってからでもいいだろ?」

梓「……」

律先輩の言うとおりだった。

私は何を急いでるんだろう。
一人で突っ走って、恥ずかしい。


律「……それにさ」ギュッ

梓「にゃぅっ」

律先輩に抱きしめられる。
さっきよりもずっと強く、息もできないぐらい。

耳が律先輩の胸に当たって、心地よい心音が聞こえてくる。
力がどんどん抜けて、体全体を支えられているみたい。

されていることは乱暴なのに、なぜかさっきよりずっと安心する。

律「泣いているやつは抱けないよ」

梓「!」

慌てて目元をぬぐう。腕がぐっしょり濡れている。

私、泣いていたんだ。
自分を騙していただけで、本当はすごく恐かったんだ。

気づいた瞬間どんどん涙が溢れ出てきて、止めることができなくなった。

律「よしよし」

律先輩に頭を撫でられながらその胸を借りて、ひたすら泣き続けた。

私は確かなものが欲しかった。
けど、それだけだった。

律先輩に抱いてもらいたいというより、ただ自分の中の不安から逃れたかった。

何も覚悟ができていなかったんだ。


律「ほら、こうしたら安心するだろ?」

梓「はいっ」

たくさん泣いてようやく一段落つくと、私は律先輩と再び布団に寝ころがった。
さっきと違うのは、律先輩に腕枕をされていることだ。

律「梓が眠るまでこうしてやるよ」

梓「……ありがとうございます」

律先輩の側にいると、どうしてこんなに安心するんだろう。

心が落ち着いて、うとうとし始めたとき。
律先輩の歌声が聞こえてきた。


「ねーんねーん ころーりよ おこーろーりーよー」

「あーずさーはー よいーこーだー ねんねーしーなー」

「あーずさーのー おもーりーはー どこーへーいったー」

「あーのやーまー こーえて さとーへーいったー」


歌声に合わせて背中を優しくさすられる。

子供の頃、眠れないときによく歌ってもらった子守歌だ。
あの頃もこんなふうに、眠れるまで隣にいてもらったっけ。

何だかとっても懐かしくて、子供に戻った気分。


かっちこっちと時計の針が時間を刻む。
いつの間にか律先輩の子守歌は止んでいる。

すーすーと自分の寝息が聞こえる。

律「おやすみ、梓」

やっぱり律先輩はあったかい。



朝。春のぽかぽかとした日光が窓から差し込む。
ベランダに出てすがすがしい空気に触れると、うーんと一度伸びをした。

梓「律先輩、朝ですよ~」

律「むにゃむにゃ……きゃべつぅ」

昨晩の大人な律先輩はどこへ行ったのやら。
髪をぼさぼさにしてパジャマをはだけさせ、だらしない格好で寝ぼけている。

でも、昨日は私が寝付くまでずっと起きててくれたんだ。
そう思うと感謝せずにはいられない。


梓「起きてください!」

律「ん~~後ごふん……」

律先輩は朝に弱いらしい。
こんなことで大学が始まった後、一人で起きられるのだろうか。

梓「もう、一人で帰っちゃいますよ」

律「……」

心にもないことを言ってみた。
ほんの冗談のつもりだったんだけど、律先輩はすっくと起き上がると、すぐに洗顔と歯磨きに取りかかる。


律「朝飯はどうする?」

梓「あっちで適当に食べちゃいます」

律「そ。じゃ、行こっか」

梓「はい。お邪魔しました」

今日はとてもいい天気で、さわやかな風が吹いてくる。

特に寒いことはないけど、私と律先輩はどちらからともなく手を握っていた。

律「いよいよ今日から新しい軽音部のスタートか」

梓「暫定的ですけどね。四月中に一人だけでも新入部員を獲得しないと廃部ですし」

律「でも、憂ちゃんと純ちゃんがいるんだろ」

梓「……はい」

律「大丈夫、心配することないって。私たちのときと同じだから」

梓「へっ、そうなんですか?」

律「そうだぞ、最初は私と澪とムギの三人からのスタートだったんだ」

梓「へぇ~、唯先輩はいつから?」

律「唯が入ったのは本当に廃部寸前の四月末だったよ」

梓「そうだったんですか」

律「ま、別に私は廃部の心配なんかしてなかったけどな」

梓「何か当てがあったんですか?」

律「いんや、なんにも」

梓「……律先輩の能天気は筋金入りです」

律「うっせーし! でもさ……」

梓「……」

律「案外、楽観的な方が上手くいくもんだよ」

梓「そういうものですか」

律「そう! 前部長の経験だからな、信用できるぞ」

梓「ま、ほどほどに信用します」

律「梓てめぇ!」

律「……ま、とにかくさ」

梓「えっ?」

律「梓の軽音部も、絶対上手くいくよ」

梓「……」

律「大丈夫だよ、安心しな」

梓「……ありがとうございます」

梓「律先輩の今日の予定は?」

律「んー梓送って、家帰って……二度寝?」

梓「何もないってことですね」

律「いいだろ、大学始まるまでのんびりしてても。受験で苦労した分の骨休めだよ」

梓「でも、あまり怠けると大学始まってから大変ですよ」

律「うっ……分かった、じゃあ今日は勉強する!」

梓「勉強って何の?」

律「……ドラム」

梓「くすっ」

律「わ、笑うなー!」

梓「ごめんなさい、つい」

律「たくっ、お前がドラムの練習してろって言ったんだろ」

梓「そうでしたね」

梓「……大学、頑張ってください」

律「ん、ありがと。大学の軽音部でも頑張るよ」

梓「来年私の席空けといてくださいね」

律「おう、了解。でも、憂ちゃんと純ちゃんはどうするんだ?」

梓「もちろん、三人で大学でもバンド組みますよ」

律「それじゃ兼任ってことか」

梓「そういうことです!」


律先輩の家は駅からそう遠くない。
通学に使うのだから、駅から近いほうが好都合なのは当然だ。

でもその距離のせいで、律先輩との一時はあっという間に終わってしまう。

梓「……」

律「駅、着いたな」

梓「……」

律「ホームまで送っていくよ」

梓「……」

もうすぐ律先輩とお別れだ。

その時が刻一刻と迫る中で、改めてその事実が重く胸にのしかかっていく。

律「おい梓、電車あと少しで出発するぞ」

梓「大丈夫です」

律「何がだよ、急がないと乗り遅れるって」

梓「一本遅らせますから」

律「へっ?」

梓「朝食も食べてないのに急に走ったら貧血になっちゃいます」

律「……」

電車が出発する。しばらくして、別の電車が到着する。

律「電車が来たぞ」

梓「知ってます」

律「乗らなくていいのか?」

梓「混んでるんで次のにします」

律「つっても、次の電車も似たような感じだぞ」

梓「……」


また別の電車が到着する。それを無言で見送る。
そのまた別の電車も。

律先輩もそのうち、何も言ってこなくなる。
ホームのベンチで二人並んで座っているだけ。
本当は色々話をしたかったのに、なにも言葉が浮かんでこない。

何本目かの電車が到着する。
降りてきた人が視線をちらりと投げかけてくる。

このままここに居続けたって、何の解決にもならないのに。
体が動かない。言葉も出てこない。

そうしているうちに、時間はどんどん過ぎていく。

どのくらいの間そうしていただろうか。
気がつくと、そろそろ乗らないと間に合わない時間になっていた。

目の前で電車の扉が閉まる。
多分、次の電車が最後だ。

律「梓、そろそろじゃないか」

梓「……」

せめて律先輩に何か言いたいのに。
このままじゃ、後味の悪い別れになってしまう。
そんなの嫌だ。でも、何も言えない。

また涙が出てきた。
肝心なときに泣き虫な私。

地面に落ちていく涙を無言で眺めることしかできない。


帰りたくない。離れたくない。

律先輩と別れたくない。

置いてかないでよ。

もっと一緒にいてよ。

一人にしないでよ。

律先輩、りつ先輩、りつせんぱい…………


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最終更新:2011年07月01日 20:44