無機質な電子音がリズムを刻む。
単調で、面白味なんて何もない機械音。
その音が、リズムを刻む感覚を少しずつ大きくする。

私は、目の前の彼女の方を見る。
呼吸を忘れた彼女の口からは太い管が延び、それは枕元の機械に繋がれていた。
きっともうすぐその管は意味の無いものとなるだろう。
彼女は、もうすぐ心臓を鳴らすことを忘れてしまう。
それはつまり、死んでしまうということ。

私の左手の中にある彼女の右手が、少しずつ力を失う。
それと同時に私も手を握る力を弱める。

その内、電子音がリズムを刻むのを止め、一直線の音を作った。

私はさようならを言う代わりに、彼女の手を離した。

**

澪「律が昨日、そう言ったんじゃないか」

律「え?……あー、そうだった。ごめんな」

最近、律はよく物忘れをする。それも異常なほどに、だ。
些細なことから重要なことまで、言えば思い出すのだが、まるで記憶喪失でもしたかのように忘れてしまうのだ。

今朝もそうだった。

 『朝練しようぜ!』

昨日の放課後、律が急に言い出した。
3年生になったばかりで気合いが入っているのか、珍しく部長らしいことを言うものだ。
まあ、本当に練習するかどうかは怪しいところだが。

でも私は、何だかんだでその話に乗り気だった。
他のみんなもそのようで、大きく律に向かって頷く。
特に梓はキラキラとした眼差しで律を見ていた。

梓「はい!いっぱい練習しましょうね!!」

しかし今朝、約束の時間になっても律は部室に現れなかった。
また遅刻か、なーんて思いながら各自自主練をしながら待ってみてもやって来る気配はない。
時間は過ぎるばかりだし、みんなも少し不安になってくる。

そしてその内予鈴のチャイムが鳴った。
私は急いでベースをしまい、みんなより先に早足で教室に向かう。
鞄が教室にあるから、早く戻って鞄の中にある携帯で律にメールを送るためだ。

でもそんな必要はなかった。律が教室に居たからだ。

律「あ、澪!一体どこにいたんだよ?」

何を言っているのだ、と思った。私は少しため息を吐いて、律の質問に答える。

澪「……部室だよ。朝練するって律が昨日、そう言ったんじゃないか」

律は少し驚いた表情をして、それからすぐに泣きそうな顔になった。

その顔は最近よく律に見られるものだった。
笑っている時も演奏中も、律はよくその顔をしていた。
私はそれが苦手で、そんな時はいつも律から目をそらす。

律「あー、そうだった。ごめんな」

私は良いからみんなに謝れ、と私は目を合わさずに言う。
律は頷いて教室に入ってきた唯たちの方へ向かった。

こんな風に、律はたくさん物忘れをする。
まあ元々記憶力が低いのは確かだけど。

それにしたって、律は何であんな顔をしているのだろうか。
悩みがあるなら聞いてあげたいな。
放課後にでも聞き出してみようか。


唯「よーし!部活に行くぞおー!」

放課後、チャイムが鳴ると同時に唯が立ち上がる。
今まで寝てたくせにこれだもんな。まったく。

律「よし、じゃあ行くか!」

律もそれに続き、鞄を背負って立ち上がった。
そう言えばこいつは最近授業中の居眠りは減ったな。
新学期となったことで気が引き締められたのだろうか。

そんな律の腕を少し引く。律は振り替えってこちらを見た。

律「何?」

澪「何?じゃなくて、梓にも朝のことちゃんと謝れよ?」

律は一瞬、訳が分からないといった顔をした。
でもすぐに思い出したようで、眉を潜めて頷いた。
大丈夫かな……?

部室の扉を開くと、もう既に梓がいた。
その背を見つけると同時に、律が頭を下げる。

律「梓、ごめん!朝のこと忘れててさ……」

梓はその声に振り向いた。
そして律を見て眉間に皺を寄せる。まだ怒ってるのかな。

梓「忘れてたって……。はあ……。もう良いですよ。別に今さら律先輩が何したって怒る気にもなれませんし」

刺々しい言い方に律が俯く。
その目には溢れんばかりの涙が溜まっていた。

空気が一気に悪くなった部室に、ムギが困ったように声をあげる。

紬「あ、あの!今日はもう、部活をやめときましょ?
  つまらない気持ちで演奏なんかできないし、一旦気持ちを切り替えるためにも……ね?」

唯も私も、賛同の声を出す。
梓もため息を吐きながら、ムギ先輩がそう言うなら……と頷いた。
でも律は、力無く笑いながら手を振った。

律「私は朝の分ぐらいは練習するよ。みんなは先に帰ってて」

みんなは少し困った顔をしたけど、分かったと同意の声を漏らした。
私は少し戸惑いつつも、今朝考えたことを思い出してみんなとは違う声をあげた。

澪「あ、なら私も練習に付き合うよ。リズム隊で話したいこともあるし」

まあ、そんなのはもちろん律と話すための口実だが。
律はちょっと驚いた顔をして、悪いな、と笑って見せた。


唯「じゃあ、また明日ね」

二人きりの部室に、ドラムとメトロノームの音が響く。
律は真面目に練習しているが、私はベースを取り出すこと無くその隣に立った。

律「ん?どうした、澪?」

スティックの動きを止め、律がこっちを見る。
夕焼けに染まったその幼い顔には、似合わない大人の表情があった。

澪「律、お前最近変だぞ。何かあったのか?」

その目が一瞬揺らぐのを見つけた。
そしてたはは、と乾いた笑いが律の口から漏れた。

律「やーっぱ澪にはバレちったかー」

律はそう言って手のスティックを自分の頭に向けた。
哀しそうな笑みを、浮かべながら。

律「なーんか頭に変なのできちゃってさー。記憶障害が出てるんだ」

衝撃。
律が発した言葉はそれ以外の何者でもなかった。

澪「記憶障害って……」

絞り出されたような醜い声が出る。
自分がどれ程動揺しているかが伺えた。

律「何か医者が言うには記憶の整理が下手になるんだってさ。
  言われたら思い出せるんだけど、逆に言えば誰かに言われるまで自分じゃ思い出せないんだ。
  脳味噌だから下手に弄れないし、ただ薬を飲むだけの治療なんだ」

それに対して律の声はあっけからんとしていた。

律「でも学校側も理解してくれてるしさあ、学校には通うから。
  だから心配すんなって!……っておーい?澪しゃーん」

律が私の目の前で手を振る。その手は、とてもぼやけて見えた。
堪らずに私は律の方へ手を伸ばす。

澪「馬鹿律ぅ!何で、何で言ってくれなかったんだこの馬鹿!
  言ってくれればフォローだって出来たかもしれないのに!」

今朝みたいなことも、無かったかもしれないのに。

そんな気持ちを知ってか知らずか、律は私を優しく抱き締め返してくれた。

律「あはは、ごめんごめん。私、本当に馬鹿だからどうやって伝えれば良いのか分かんなくてさ。
  ……だから、みんなにも暫く黙っといてくれないか?」

約束、と小指が差し出される。
私は律の腰に回した片手をほどき、その手を小指に絡ませた。

メトロノームの音だけが鳴り響く、夕暮れ時の部室でのことだった。


紬「りっちゃん、それ前も聞いたわ」

律「あれ、そうだったっけ?」

紬「うん。多分3回くらいは聞いたと思う」

あの約束をした日から大分経った。
日に日に物忘れの頻度が増える律を見ていると、何とも言えない気持ちになる。
曲のサビ部分を忘れた、と言われた日は流石に卒倒しかけた。

みんなもそれとなく不信感を持ちつつあるようだ。
特に梓とは、あの一件以来仲が悪みたいだし。

律『私が悪いんだし、しょうがないよ』

そんなことを言う律を見ていると、こっちが切なくなった。
違うよ、律が悪いんじゃないよ。律は頑張っているじゃないか。
そんな泣きそうな顔、しないでよ。

流石にフォローも限界に近づいた頃、大きな事件が起こる。

それはちょっと肌寒い日のことだった。
珍しく梓より早く部室に来た私たちは、お茶をしながら放課後を過ごす。
しばらくすると、部室の扉が勢い良く開いて遅れてやってきた梓が入ってきた。

梓「すみません、日直の仕事をやってて遅れました!」

やっと来たか、と私が口を開くよりも先に律が声を発する。
大きな大きな爆弾を抱えて。

律「あれ?新入部員かな?」

――――――は?

みんな唖然として、誰も動けなかった。
え、だって梓を律は……え?

そんな私たちを気にすること無く、律が梓に駆け寄った。

律「まーまー、固まってないで座ってよ。演奏とか聞いていく?」

律がそう言って梓の背中を押す。
私がハッとして動き出したときにはもう遅かった。

パシン、と乾いた音が部室に響く。
梓が律をぶったのだと気づくまでに、そう時間はかからなかった。

梓「何の冗談のつもりですか!言って良いことと悪いことってありますよ!?」

最近話すことも減り仲が悪くなったせいか、
梓は今まで聞いたことがないぐらい大きな声で律を怒鳴った。

律は一瞬、戸惑った顔をした。

律「え?だって……え……梓……?」

そして思い出したのだろうか。
急に律は悲しそうに、辛そうに顔を歪めた。

律「……悪い、今日はもう帰るな」

鞄を引っ掛け、律が部室をあとにする。
私は迷うこと無くその後ろ姿を追いかけた。

澪「律!!」

ふらふらと歩く律の腕を掴んでその動きを制した。
俯き加減の律の顔を除き込むと、頬にたくさんの細かい涙が伝っているのが分かった。

律「わ、私、怖いよ……。梓のことを忘れて、傷つけて……!
  私は、私はいつか皆のことを忘れてしまうよ!!
  それでもし、思い出せなくなったら……!!嫌だ……嫌だよ、澪ぉ……」

律はそう言って肩を震わせる。
私は何て声を掛ければ良いのか分からなくて、ただ立ち尽くすだけだった。
そんな私の手から、律はそっと離れる。

律「ごめん、今日は病院行くからもう帰るな」

そう言って廊下をダッシュで帰る律を、私は歪む視界で見送った。


部室に戻ると、まるで通夜のようにしんとした空気が私を待っていた。

唯「りっちゃんは……?」

澪「……用事があるから帰るってさ」

普段の軽音部では考えられないそれが、まるで棘のように私に突き刺さる。
あまりの居心地の悪さにちょっと眉を潜める。

みんなで暫く黙っていると、俯いた梓が口を開いた。

梓「こんなことを言って良いのか分かりませんが……。
  私は正直、律先輩のことが苦手、いや、嫌いになりつつあります」

しょうがないことだと思う。
でも私は気持ちが膨れ上がるのを感じた。
それが怒りか、悲しみか、苦しみかは分からない。

紬「梓ちゃん、そんなこと言わないでよ。まあ……今日のりっちゃんはやりすぎだけど」

唯「うん……。あんなこと言うりっちゃん、私も嫌だな……」

戸惑いつつも、唯もムギも賛同の意を示す。
何で、何で、何で……!

お前らなんか何も知らないくせに!
律が一番傷ついて、律が一番悲しんでいるのに!!
律がどれだけ泣いて、苦しんでいると思っているんだ!!!

そんな淀んだ考えが前に出てしまい、気付けば私は机を思いきり叩きながら立ち上がっていた。

唯「澪……ちゃん……!?」

言ってしまいたかった。
律の病気のことも、苦しみも、悲しみも。

でもメトロノームのリズムを思いだし、何とか自分を押さえつける。

澪「……私も今日はもう帰るな」

それだけ言うのが精一杯で、大急ぎで部室を出る。
後ろから呼び止める声が聞こえたが、無視をした。

家に帰る途中、涙がずっと止まらなかった。
いや、家に帰っても止まらなかった。
布団にうずくまって涙を流し続ける。

しょうがないんだ。でも嫌だった。
みんなが律のことを邪険に扱うのを見たくなかった。
私だって病気のことを聞かされていないままだったら、あんな風に対応しただろう。
きっと、酷いことだって言っただろう。

考えると、涙はまだまだ溢れ出てきた。
私は枕に顔を埋め、思いっきり叫ぶ。

まるで喉が裂けたかのような醜い声が出た。


次の日、目を赤く腫らしたまま私は学校へ到着する。
きっと声だって酷くなっているだろう。

教室に入ると、唯とムギがこっちへ来た。
私は若干の気まずさを覚えながらも挨拶を交わす。

澪「おはよう。……律は?」

やはり酷く醜い声が私の口から吐き出された。
ちょっと自分自身に眉を潜める。

律の名前を出すと唯も気まずそうに目をそらした。
昨日の今日だし仕方無いけど、私はやはり淀んだ気持ちが出るのを押さえられない。

唯「まだ来てないよ。……また遅刻なんじゃないかな?」

……まさかアイツ曜日を忘れた、とかじゃ無いよな?
いや、でも本当にそうなら洒落にならない。

澪「そっか。じゃあ電話してみようかな」

少し焦りながら携帯を取り出す。
手が震えているの、見られていないと良いけど。

プルルルル、プルルルル、プルルルル―――
3コールの後、律の声がした。

律『……もしもし、澪?』

私の声も酷いが、それ以上に酷い声が携帯越しに聞こえる。
一晩中泣き続けてたんだろうなあ。

澪「何だ律、起きてたのか。早く学校に来ないと遅刻するぞ?」

なるべく平静を装って律の声に対応した。
時刻は8時25分。もうすぐ先生がやって来る筈だ。

律『あー……私、今日は学校休むから』

澪「え、何で?」

意外な返答に思わず声が上ずった。
唯とムギがこちらを不審そうに見ている。

律は、私の質問に答えにくそうに話題を切り替える。

律『何だって良いだろ。……あとさ、みんなに伝えて欲しいことがあるんだ』

伝えて欲しいことって、昨日のことかな?
でもそんな予想と裏腹の言葉を律は発する。

律『私……軽音部、やめるから。ごめんってみんなに伝えといて。……もう、切るな』

――――――え?
軽音部を辞める?律が?嘘だろ?

反応しようと思い、口を開く。
だけどもう携帯からは機械の音しかしなかった。


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最終更新:2011年07月02日 23:18