紬「りっちゃん、何て言ってたの?」

鳴り出したチャイムとムギの声が重なった。
でも私はそのどちらにも反応すること無く、走り出していた。

教室のドアの所でさわ子先生とぶつかる。

さわ子「きゃっ。ちょ、どうしたの澪ちゃん?」

そんなのお構い無しに私は走り続けた。
ホームルームが始まるわよ、という声だけが私の背中に張り付いた。
途中、鞄を教室に忘れたことを思い出したけど足は止めなかった。

だって、気にしていられるかそんなこと。
大切な幼馴染みが苦しんでいるんだ。
今駆け付けないでいつ行動を起こすというのだ。

澪「待っててくれ……律……!」

春なのに汗が額から流れ落ちた。
それを手で拭い、横断歩道を渡る。

いつもいつも律と一緒に歩いた通学路が、朝日に眩しく反射していた。

辿り着いた田井中家のチャイムを力強く押す。
すると少しの間を置いて律の母親が出てきた。

律母「はーい。……って澪ちゃん!?え、どうしたの?学校は?」

少しやつれたその顔は、私を見ると戸惑う素振りを見せた。
まあ、それはそうだろう。普通なら学校にいる時間だし。

でも私は今、それに付き合っている暇はない。
だから急かすように早口で一気に喋った。

澪「律は家に居ますよね?―――お邪魔します!」

おばさんの困惑した声を置き去りに、私は律の部屋へ急ぐ。
そしてその扉を勢い良く開けた。

部屋の端にあるベッドの上に、律は布団と一体化した状態でいた。
そして泣き顔でこちらを見たまま、固まっている。

律「澪……何で……?」

電話越しで聞いたときほどじゃないけど、本当に酷い声だ。
泣きすぎたせいなのか、声は変に掠れている。
まあ私も言えた義理じゃないけど。

澪「律こそ、さっきのはどういうことだ?説明しろ」

その言えた義理じゃない声で威嚇するように言った。
律はそれを拒否するように顔をそらす。
でも私はそれを許さない。

澪「律、ちゃんとこっちを見ろ」
律の顔を両手で挟み、こっちに向けた。
私に負けず劣らず腫れた目が、そこにはあった。
その目がだんだん湿り気を帯びてくる。

律「しょうがないだろぉ……?私は、普通じゃない……!
  昨日みたいに誰かを傷つけて自分も傷つくのが、怖いんだよ!」

溢れ落ちた涙が、私の手に当たって小さな水溜まりができた。
それを見て私も泣きそうになるが、歯を食い縛って堪える。
だって私が泣いたら律を慰めるやつがいなくなる。

私はそのまま、倒れるように律に抱きついた。

律「み、澪……?」

腕の中に律の体温を感じる。
布団の中に居たせいかな。とっても暖かくて気持ちが良い。

澪「なあ、律。私は何回も律に我が儘を言って困らせてきたよな」

私の酷い声に、たっぷりの優しさを込めて喋る。
そして、少しの意地悪も混ぜて。

澪「律は毎回困った顔をしながら、でも私のために頑張ってくれた。
  それがいつも、嬉しかったんだ」

抱き締めた律からはシャンプーの良い匂いと、私がこの前買ってあげたコロンの匂いがした。
その匂いが今、私の鼻と涙腺を刺激する。

澪「これは、私のとっておきの我が儘だ。
  ……軽音部、辞めないでよ……!」

駄目だ。堪えきれなくなって大粒の涙が出てきた。
でも本当に嫌なんだ、律がいなくなることが。

私が見てきた世界には、いつも律がいてくれた。
律がいると世界がキラキラしてふわふわして、とてもとても輝くんだ。
だから、律を失いたくない。
これは他の何でもない、ただの私の我が儘だった。

そんな自分勝手な我が儘に律は頷いてくれた。
いつも私を助けてくれる、大好きな笑顔で。

律「そんなこと言われると、断れないだろ。ばーか……」

私とは違う、細かな涙が律の頬を流れる。
私は抱き締める手に力を込めた。

澪「ありがとう、律、律……!!」

愛しの人の名前を呼ぶと、少しだけ心が軽くなれた気がした。



律「なあ、澪」

澪「ん?」

律「軽音部のみんなに、病気のこと話そうと思うんだ」

気付くと、時計の針は既に午後を指している。
どれだけの時間泣き続けていたのだろうか。声はもっと酷くなっていた。

澪「律はそれで、良いんだな?」

だって律は伝えることを嫌がっていた筈だ。
でも律は、力強く頷いた。

律「これ以上無駄に誰かを傷つけたくないしな」

やっぱり昨日のことは律もかなり堪えているんだろうな。
私は律がそれで良いって言うんなら、賛成だけど。

律「そうと決まれば、さっそく行こうぜ!」

律はそう言って立ち上がる。
私も急かされるがままに立ち上がった。

そのまま駆け足で家を出る。律に左手を、しっかり握られながら。

律母「ちょっと律!?あんた・・・・・・」

途中、律のお母さんの声が聞こえたけど返事は返さない。

律の手は、とても暖かかった。
やわらかな、お日様の温度・・・・・・。

律「それとさ。澪、お願いがあるんだけど」

少し行って通学路、律が首を傾けてこっちを見た。
ふふ、相変わらず酷く目が腫れてるなあ。

澪「何?」

私は同様に腫れぼったい目を細めて言う。

律「あのさ……もし私が怯んで言えなくなったら、背中を押してくれないかな?
  やっぱり私、まだ怖いんだ。梓にも嫌われちゃっただろうし」

律は本当に不安でたまらない顔をしていた。
それはそうだろうな。昨日の今日で、気まずさもあるだろうし。

澪「律なら、大丈夫だよ」

律の右手を握りながら、そう言った。
小さなその手は、私の大きな手にすっぽりと包み込まれていた。


律「……ふう」

軽音楽部部室前に着いた。
放課後の時間に合わせてきたので、きっとこの中には唯たちが既に居るだろう。
そのドアノブを握り、律は深呼吸した。
私もそれに合わせて大きく息を吸う。埃の匂いがした。

律「…………開けるぞ」

――――――ガチャリ
扉を開けると、やはりもうみんな揃っていた。

梓「澪先輩!……と律先輩」

梓がこっちを見て笑顔を作った。律の方を見て顔を曇らせた。
律もそれと同時に哀しそうな顔をした。
律の私の手を握る力が強くなる。

唯「ほ、放課後登校なんて不良だよね!あ、あはは~」

唯が気まずさを打ち消そうとして無理に明るく振る舞う。
でも空気が壊される前に、律が口を開いた。

律「今日は、みんなに話さなきゃならないことがあってきたんだ。
  ……聞いて貰っても良いか?」

律の手が、震えていた。
だから私は必死に握り返す。

紬「うん、分かった。だから席に着きましょ?
  ……お茶はミルクティーで良いかしら?」

いつもの席に着くと、ムギの淹れた暖かい紅茶が出てきた。
緊張でカラカラに乾いた喉を、それで潤す。
甘くて優しい味が、私の喉を通って胃に溜まる。

律「えーと、何から話すか忘れちゃったんだけど……。
  取り合えず簡潔に話すな」

それからの律の話はとても短いものだった。
でも、私には何時間にも感じた。聞いているのがとても……辛かった。

律「……まあそういう訳でさ。言い訳みたいになるけど、昨日のことは病気が原因なんだ。
  ……ごめんな?」

やっと律が話し終えたとき、律以外泣いていない人なんていなかった。
目を真っ赤にしてウサギみたいな唯が律の方へ走る。

唯「りっちゃあぁぁ、ごめんね、辛かったよねぇ……?」

律「あはは、抱きつくなって。ほーらムギも。無言で抱きつかないの」

唯のしゃっくり泣く声、ムギの啜り泣く声、私の嗚咽混じりの声、そして梓の……。

梓「何で、何でもっと早く言ってくれなかったんですか!!」

梓は涙を流しながら怒鳴っていた。
酸欠なのか、顔が真っ赤になっている。

律「……怖かったんだよ、拒絶されるのが」

律はそれに対し、穏やかな声と表情で喋る。
優しく、それでいて寂しそうな笑顔だった。

梓「拒絶なんかするわけないです!信頼ぐらいしてください!!」

もっと声を荒げて、梓は叫んだ。
そしてそれから、とてもとても悲しそうに小さな声で叫ぶ。

梓「知っていれば、あんな酷いこと言わなかったのに……。
  昨日だって怒ったりしなかったのに……!!」

うわあああ、と梓は泣き崩れた。
律はその背中を優しく抱き締める。

律「その言葉で十分だよ。ありがとう、梓」

梓「ごめんなさ……ッ、わああぁぁあん!」

悲しい声を合わせ、私たちはまるで合唱するように泣いた。
ただ一人、律は冷静だった。

律「みんな、そろそろ泣き止めよー。私はまだもう一個伝えることがあるんだから」

律は少しだけ震える声で、でもいつも通りの調子でしゃべる。
もう一個伝えることって……一体何だろう?

律「言うつもりはなかったんだけどなー。……まだ、家族以外知らないことだよ」

私は涙は止まらなかったけど、律の方を見た。
みんなも律を注目している。

律は自らのポケットに手を入れて、何かを机の上に出した。
それはたくさんの薬だった。

律「頭の物を治療するために飲んでた薬なんだけど……これ、効かなかったんだ」

どういう、こと……?

律「何か腫瘍の成長が止まんなくてさ、記憶障害がもっと酷くなるんだ。
  今までは言われたら思い出せたけど、これからは言われても思い出せることが稀になっていく。
  ほとんど何も、思い出すことが出来なくなるんだ」

そん、な……。
それはつまり、私たちの思い出も、私たちのことも分からなくなると言うことだ。

絶望に暮れる私に、律が追い討ちを掛けるかのように言った。

律「認知症とかとは違ってさ、段々自分で自分の体を動かすことも忘れるんだ。
  腕を動かすことも、息をすることも、心臓を鳴らすことも。
  ……医者は珍しい病気だって言ってた」

律の言葉に見えてきた、死という文字。
嫌だ、嫌だよ……。

律「だから私は明日から入院するんだ。今日休んだのも荷造りのためだったんだけどなー。
  学校も辞めることになったし。
  ……だから澪、ごめん。我が儘は聞いてあげられそうもないや」

律はそう言って俯く。
私は固まったまま、動くことができなかった。

澪「嘘、だよな……?」

やっと出た声は、まるで蚊が鳴くかのようにか細く弱々しい。
私は全身全霊を込めて声を絞り出す。

澪「嘘だって言ってくれよ!なあ、律!!」

私の悲鳴とも言えそうな声に律は顔をあげる。

律「嘘だったら、どんなに良いだろうな……」

その頬に流れるたくさんの涙が、私を現実に叩きつけた。
嫌だ、嫌だよ!!何で律なんだよ!!!

……それからのことは覚えていない。
気付いたら自分の部屋のベッドにうずくまっていた。
自力で帰ったのかもしれないし、誰かに引っ張られて帰ったのかもしれない。

ただ分かったのは明日から律は学校にやって来ないということ。
あの通学路を笑いながら歩くことはないということ。

一緒に軽音をやって楽しめないということ。


律のいない学校は、やはりどこか味気ない。
もう律が登校しなくなってから随分経っていた。

一人での登下校、寂しい。
3人でだけの休憩時間のお喋り、結構寂しい。
律のいないお昼御飯、かなり寂しい。
空席のドラムの椅子、とても寂しい。
律のカウント無しで始まる曲、すっごく寂しい。

全部全部、律がいないと寂しかった。
だからそれを埋めるのように、私は毎日律のお見舞いに行った。

律「おー!今日も来てくれたか、諸君!」

律の入院している病院は桜ヶ丘内にあり、結構な頻度で軽音部のみんなと訪れる。
白い壁に薄ピンクの布団、とても感じの良い病室だ。

唯「りっちゃん隊員、今日もよくご無事で!」

紬「ケーキ持ってきたから食べましょ~」

梓「新しいスティックも買ってきましたよ」

私たちが来ると一気に病室は賑やかになる。律も嬉しそうだ。
個人病室だし、やはり日中の静けさは凄いんだろうなあ。
ベッドサイドの窓から気持ちの良い風が吹き込んだ。
夏だというのに、少し冷たくて爽やかな風だ。

紬「澪ちゃんも、ケーキ食べましょ」

窓の方からみんなの方へ視線を移すと、切り分けられたケーキを差し出すムギの姿があった。
既に他のみんなは食べ始めている。

澪「ああ、そうだな」

私もそのケーキを受け取って口に運ぶ。ブルーベリーと苺の甘酸っぱさが癖になりそうだ。

律「あ、そういえば今度、新しいスティック買ってきてくれないか?」

ケーキを食べながら律が言う言葉に、私はクスリと笑った。

澪「お前、自分の膝の上に新しいスティック載せて何言ってるんだ」

律「え?あ、本当だ」

律の病気は予告通りどんどん進行していった。
今のようについさっきのことを忘れたり、それを指摘しても『そうだった』と思い出すことは減った。
まだ重要な誰かを忘れたり体に異常が出たりはしてないが、それも時間の問題だろう。

律「澪、どうしたんだよ。そんな難しい顔して」

澪「んーん、何でもないよ」

でも私の心中は今は穏やかだった。
律の病気のことを受け入れられたわけではないが、
今律が私のことを名前で呼んでくれるわけで十分だった。


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最終更新:2011年07月02日 23:19