じゃあ今度こそ本題ね。
 いま、私のカバンには紙パックのアップルジュースがひとつあるの。
 ローソンで売ってるのと一緒だけど、中身は実は劇薬なの。

 私はこれから一度死ぬ。菫ちゃんからもらったこの薬を飲んで。
 でも心配しないで、仮死状態……植物人間みたいな状態になるだけで、体温は残るから。
 死体になってこの世界を脱出して、外で落ち合うつもりだから。
 だから私の後なんて追っちゃダメだよ? 絶対だからね。

 死ぬ場所はここの近く。いまいるところから、ちょっと離れた目立つとこ。
 正確には花田橋の信号のすぐそば、二人で一緒に寄ったアイスクリーム屋さんの近く。
 そのあたりで私が下校途中に倒れて、
 小さい頃かかった心臓疾患が再発して、そのまま息を引き取ってしまう。
 大丈夫だよ。きっと、菫ちゃんがなんとかしてくれるから。

 梓ちゃんはなんにも気にしないで、そのまま学校に通って授業を受けて。
 ぜったいにこっちに来たらダメだよ。
 バレちゃったら、今度こそ本当にこっちの世界から出られなくなっちゃうから。

 時が来たら、菫ちゃんが迎えにくるはず。
 私より髪が短い、金髪で青い目のちっちゃな女の子。
 そしたら、あの子の言うことに従ってついてきて。

 ここまではいい?

 じゃあ、最後にね……ほんとはちょっと気が進まないんだけど。
 私にどうしても伝えたいことがあったら、菫ちゃんに伝えて。
 前にも言ったけど、菫ちゃんと私は脳波を共有しているの。
 私たちは遺伝子レベルできわめて整合性が高いから……って、それはいいかな。

 とにかく、菫ちゃんに触れれば私に触れたことになるし、
 菫ちゃんの心を動かせば、私の胸もどきどきするの。
 言葉で伝えられることはメールなんかの機械を通さなきゃダメだけど、
 感覚でなら私の脳に直接伝わってくるから、安心して。

 だけどね、やっぱり本当は直接ふれたいんだ。
 私が脱出を決めたのだって、梓ちゃんとちゃんと熱を持って触れるためだったもの。
 いつだったか、梓ちゃんにキスしたの。
 そしたら……唇が、冷たくなってた。
 手や肩はまだまだあったかいのに、唇の感触はなくなってた。空気みたいに。

 もう、世界は梓ちゃんを忘れようとしてるの。
 だからここを出たら、真っ先に私にキスをして。お願いだから。
 梓ちゃんには体温が残ってるって、それを唇の感触で教えてほしいの。

 そしたら……私だって、生き返るはずだから。
 ふふ、眠りの森の女の子みたいだね。王子様のキスでよみがえるなんて。


 うん。
 私たちが演じるのは、ロミオとジュリエットじゃないよ。
 白雪姫の方。……自分で美女なんてはずかしいけど、劇の題名だもんね。

 私は勇気を出して毒リンゴを食べる。
 だから梓ちゃんも、絶対に私を見つけだしてね。
 そしたら……せっかくだから、キスで起こしてほしいかな。
 はずかしいけれど、絶対目覚めてみせるから。

 じゃあね、梓ちゃん。
 外の世界でまた会おうね。
 そしたら、予言なんてできっこない未来を一緒に作るんだから。


P.S.
 じつは白雪姫、小さい頃に絵本で読んだころからあこがれてたんだ。
 私、愛する人の口づけで目覚めるの、夢だったの。

 ……笑う?


  ◆  ◆  ◆


梓「……あは」

菫「……やっぱり、笑いましたね。ふふ」

梓「だって、こんな直球で……ああもうっ」

菫「さっきの梓先輩だって、結構恥ずかしいこと言ってたような…」

梓「やめて、忘れて。後生だから!」

菫「いやです、せっかくですし」

梓「ああもうっ、にやけないでよ・・・・!」

菫「それに、私の気持ちは紬お嬢様に伝わるんですよ?」

梓「あ、そっか……でもそれひっくるめても、やっぱやだなあ」

菫「私と紬お嬢様、ちがいますか?」

梓「ぜんぜん別だよ……うぅ」

菫「……ふふ、よかった」

梓「じゃあ……私、どうすればいいの?」

 そう聞いたら、菫は向こう側の白いベッドを指さした。
 そこには、私の愛するムギ先輩が眠っている。
 手首と頭に機械をつなげられて、腕に点滴を付けられたまま。

菫「はい……脳波同期の処理は、私や斉藤が行います」

 ですから、梓先輩はお嬢様のところに向かってください。
 これから蘇生処理を行いますから。
 そう、どこか諦めたような口振りで菫は言う。
 しおれた花のような笑顔が気になって、思わず聞いてしまう。

梓「あの、本当に大丈夫なの……?」

菫「そ、それは心配ないです! ここまで来るのに、何度も準備やデモを行ってきたので――」

 さっきまでかすかに浮かんでた心配の色が、焦りに塗りつぶされる。
 私の言葉は菫をあわてさせちゃったみたい。

菫「あの、紬お嬢様のことは心配はいらないですから、」

梓「ううん、だったらいいんだ。……じゃあ、がんばって」

 そういって、元気づけるように肩をぽんとたたいた。
 相手はちょっとあっけにとられたような顔をして、だけど笑ってくれた。

 ムギ先輩の言ってたことは、私の世界ではまるっきり嘘だった。
 だけど、ムギ先輩が向こうの世界でそう信じてるなら、そっちを信じたいと思う。

 一年前……2010年10月13日、ムギ先輩はふいに心臓発作か何かを起こして花田橋の近くで倒れた。
 通行人がいち早く発見したおかげで死には至らなかったけれど、
 それからあの人はずっとこのベッドで眠り続けている。
 植物人間、というやつだ。
 元の状態に戻るのは難しいって、最初そう聞かされた。

 はじめはすぐに回復するだろう、じきに元気を取り戻すだろうって思ってた。
 けど、冬を越えてもムギ先輩の意識はもどらなかった。

 ほかの先輩方は受験で忙しくなり、病室に通うのは私だけになった。
 もっとも、通い詰めようとする唯先輩たちを追い返したのは私だったけど。
 それで受験に落ちたら一番つらいのはムギ先輩です、なんてわかった口をきいて。

 先輩方が無事に入学して、桜の花びらが作る絨毯を一人で踏んだとき、
 ふいに涙が止まらなくなって、病院の前の道路でしゃがみ込んでしまった。
 後を追おう。
 丸一年経ったらあきらめて、向こうの世界で落ち合おう。
 そんな風に思ってしまった後で、斉藤菫が入部してきた。

 はじめは何かの偶然かと思った。
 ムギ先輩と関係のある菫が、桜高の軽音部にわざわざ入部してくるなんて。
 だけど軽音部を再開してから一ヶ月ぐらい経ったころ、ムギ先輩のことを聞いてしまった。

 菫が言うには、ムギ先輩は自分の世界に閉じこもってしまっているらしい。
 外に出たい、つまり意識を回復したいって気持ちと同じぐらい、
 みんなと一緒にいたい、つまりこのまま夢の世界に浸っていたいって気持ちも強かったらしい。

菫「ドリーって、知ってますか。羊の名前なんですけど」

 あの日、ムギ先輩の病室で菫はそんな風に話を切り出した。
 なにも言えなかった。
 いきなりそんな話をされて、どんな答えが返せるというんだろう?


 1996年7月5日、ムギ先輩の誕生日に四年と三日遅れて生まれたその羊は、
 いわゆるクローン技術によって生まれたものだった。
 このクローン羊の問題は科学だけでなく生命倫理の面でも問題になり、
 日本では2000年11月――ムギ先輩が8歳の時、ヒトクローン技術規制法が制定された。
 けれどもその五年前、ドリーが生まれる一年前には人間へのクローン技術が完成していたという。

 ――そのクローン人間が、私なんです。

 そういって菫は自分の服をたくし上げ、白くてきれいなおなかにうっすらと走る傷を見せた。
 もうすでに、いくつかの臓器を紬お嬢様に提供してしまいました。
 だから私は、紬お嬢様にとってのドリーなんです。

 あの日、ムギ先輩の病室で菫はそんな風に話を切り上げた。
 なにも言えなかった。
 ほほえみながら自分の運命を語るこの子に、どんな声をかけられたっていうんだろう?

 菫はそれから、こんな風に説明した。
 彼女とムギ先輩がクローンである以上、大脳の記憶を直接リンクさせることも可能らしい。
 詳しいことはわからないけど、あの子がそういうならそうなんだろう。
 つまり、体温や感触やほかのいろいろが菫を通してムギ先輩に伝わるという。

梓「じゃあ……私が菫に触れたら、ムギ先輩に何か伝えることができるっていうの?」

菫「はい。……そのために、紬お嬢様を現実に連れてくるために、私は梓先輩の元に来たんです」

 言うなり、菫に抱きしめられた。
 不意打ちすぎてあらがうことも忘れてしまう。
 やがて彼女の言葉が頭をよぎって、抵抗することも忘れてしまった。

 髪の毛の匂い、腕の感触、触れあう肌……どれもが、ちょっとずつムギ先輩を思わせて。
 この子を通して私にムギ先輩の思い出が伝わってくるなら、
 私もこの子を通してムギ先輩に何か生きてることを伝えられるなら、

 それもいいかもしれないってふと思った。
 思ってしまった。

 私のこと、気持ち悪いですよね。怖いですよね。
 たびたびそんな風にこぼす菫に、私はいつも「そんなことない」って返してきた。
 だってムギ先輩に体温を伝える、大事な存在だったから。
 人を手段として見なしてる時点でクローンを作った人たちと一緒で、
 自分が最低だなって思うことも多かったけれど。

 でも……一番怖かったのは、もっと違うことだった。
 このままでもいいかもって、思えてしまったことだった。

 私の言葉も、私の体温も、菫を通せばムギ先輩に伝えられる。
 病室でムギ先輩に直に触れれば、その体温だって伝わってくる。
 それに……菫を抱く感触は、あまりにもムギ先輩と酷似していて。
 慣れてしまうことが一番怖かった。

 夏の終わり、一年前に私がムギ先輩と初めて口づけを交わした頃。
 私は菫に唇を奪われた。

 あの日の夜はうまく寝付けなかった。
 言い訳したがる気持ちと、
 それにかなうもっともな理屈と、
 ムギ先輩の不在を埋めてしまいたくなる弱い自分がぐるぐる渦巻いて。

 きっとあの人が夢から出られなくなって、私の時間も止まってしまっていたんだ。
 現実逃避の夢に閉じこめられてるのは、私の方だったかもしれない。
 そんな中、菫だけがいまも止まった私たちの時間を戻そうと動いてくれている。
 彼女は私のムギ先輩への気持ちを、一つ残らず受け止めてくれる。

 だからだんだん、二人への気持ちが混ざってわからなくなりそうだった。
 そんなこと、菫にさえも言えなかった。

 最初の手紙に書いてあった話を思い出す。
 あれはどういう気持ちから出た言葉だったんだろう?

 ……そうだ。
 先輩方がみんな上京していって、自分だけおいてかれる気がして。
 それが怖かったんだ。だから、あんな風に錯覚したんだ。
 思い出や過去の残る町につかまれて、一人だけ閉じこめられてるような。

 あの日のこと、本当の意味はわからなかったってムギ先輩は言うけど、
 それでも私の手を引いて連れ出してくれたのは覚えてる。

 だから、今度は私の番なんだ。

斉藤「中野さん、よろしいですか」

梓「あ、はい」

 印刷されたメールを読み返していたら、ふと声をかけられた。
 琴吹家の執事で、名義上は菫の父親になってる斉藤さんだった。
 法制定の前に生まれたとは言ってもおおっぴらにクローン人間だとは言えない。
 だから菫は斉藤さんの養子、ということになっているらしい。

斉藤「……そろそろ、同期システムのシャットダウンにかかります」

梓「はい……大丈夫、なんですよね?」

斉藤「それはもう、何度も実験しておりますから」

梓「私にできることってありますか?」

斉藤「それはやはり、紬お嬢様に声をかけていただくことでしょうな」

 そう言って、斉藤さんはベッドの方へ促した。
 蘇生処置が行われるまで、ムギ先輩の見ていた夢の話になった。

斉藤「本来なら、お嬢様はもう一周忌を迎える頃でした」

 斉藤さんは語ってくれた。
 夢の中の世界は、当人の記憶を元に再構成されているらしい。
 これはいわゆる“魂”を現世に保っておくための容れ物だという。

 臨死体験や奇跡の生還と呼ばれるケースでは、身近な人に呼び止められることが多いらしい。
 生と死の狭間をさまよっているとき、生者の声がよい影響をもたらすのだという。
 ムギ先輩はすぐにも死んでしまいそうだった。
 だから、大脳の記憶領域に直接「桜ヶ丘的なもの」を映写することで、
 思い出の居心地のよさを利用して意識をつなぎ止めた……そういうことらしい。

梓「でも、それだったらムギ先輩はじきに帰ってくるんじゃないんですか?」

斉藤「そのはずでした。ですがお嬢様は、桜ヶ丘という夢に依存してしまったのです」

 先輩の頭の中で流れる“桜ヶ丘”は、すでに先輩の生命維持装置になっていた。
 夢はあの人を生かすけれど、同時に現世からも引き留めてしまっていた。
 それに、過去の思い出が再構成材料になっている以上、いずれ限界もあった。
 「律先輩たちの体温や感触」というデータが少しずつ消えていったのがそれだ。

 そこで考えられたのが、菫を利用して生身の人間の感触を伝える方法だったらしい。
 同期装置を埋め込まれた菫は、ムギ先輩に私の体温を伝えるため私の元に来たという。

斉藤「……あなたには、菫を愛してもらう必要がありました」

梓「わかってます。わかってるんです、でも……やっぱり、菫とムギ先輩は違いますよ」

 菫とキスした日の夜、一晩考えて出た結論がそれだった。
 やっぱり私は、あの子をムギ先輩の代わりにすることなんてできない。
 だってムギ先輩はまだ生きてるもん。

梓「だから、代わりにしたくはないんです。菫は菫でいてほしい」

斉藤「……その言葉、菫が聞いたら喜ぶでしょうな」

 斉藤さんが静かにほほえんだ。
 菫のそれに似た笑顔の意味を問おうとしたとき――急に斉藤さんの携帯電話が鳴った。

斉藤「はい、はい……そうですか、では、……はい」

 斉藤さんが、みるみるうちに青ざめていく。
 どうしよう、ムギ先輩に何かあったのかも、でも私には、


菫「あずさ、せんぱい……!」

 病室の向こう側からうめくような声が聞こえた。
 菫だ。いつの間にか集まっていた白衣の人たちに囲まれて、むせぶように私を呼ぶ。

梓「ど、どうしたの?! しっかり、大丈夫? あの、菫は――」

菫「そんなことより! ……私より、つむぎおじょうさまを……けほっ」

 額の辺りを押さえながら吐き出した血が、白い床を小さく染める。
 それは白衣を着た医者たちの中ではやけに目立って見えた。

菫「……わたし、二人がっ、ちゃんとむすばれるようにって…それで、がんばって、きたんです…」

 ムギ先輩は至って変わらない。
 菫みたいに痙攣もしてないし、血も吐いてないし、まるで死んだように……って、こんな風に思っちゃいけない。

梓「誰か、早く菫を! なにしてるんですか!!」

 声を荒らげてしまう私を斉藤さんが制した。
 気づくと同じ格好をした人たちがムギ先輩の方に集まって、
 モニターに繋げられた端末をなにやらいじっていた。

斉藤「仕方ないんです……脳波の同期は、この部屋にしかもう届かないですから」

梓「だったらこの部屋で、ムギ先輩も菫もたすけ…」

 そしたら、ぎゅって手を握られた。
 握ったのは菫だった。あったかかった。
 なんだよ、ちゃんと体温あるじゃん。
 あんただって、生きてるじゃん。人間だよ。なのに、どうして……

菫「……だめです。梓先輩は、私じゃなくって、ムギ先輩のために涙を流さなくちゃ、」

梓「クローンなんかどうでもいい! 二人とも人間なんだ、だから二人とも助からなきゃダメなの!」

 泣き叫んでいるのは私だけで、誰も私の話なんて聞いてない気がした。
 そしたら、菫が私に言った。

菫「梓先輩。私、本当によかったんです」

 なにが?
 ぜんぜんよくないよ、こんな運命!

菫「物心ついたころから、私は諦めてきました。人間じゃないって、そう思ってました」

 人間だよ……感じれるし、泣けるし、
 やさしくてあったかい菫が、人間じゃないワケないじゃん……。

梓「自分の命、粗末にしちゃだめだってば……!」

菫「いいえ、違うんです。……それを教えてくれたのは、梓先輩たちでした」

 菫は絶え絶えの声で、いろいろなものに感謝の言葉を残していった。
 憂、純、学校のみんな、それに……四季豊かな、桜ヶ丘っていう私たちの町に。

 ――紬お嬢様が愛したものを、肌で感じることができて、そしたら生きてるって思えたんです。

 そう、菫は言った。


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最終更新:2011年07月19日 03:24