梓「生きてるよ、菫は人間だよ……だから一緒に、」

菫「行ってください!! 早く、夢の世界が終わって王子様がいなかったら、そしたら紬お嬢様が――」

 叫んだ拍子にせき込んだ。また血の滴がぽたぽた落ちる。
 私は――

梓「……ねえ。できること、あるかな。菫に」

菫「それは、……けほっ、あの、紬お嬢様に――」

梓「ちがう! 人間は自分のしたいことをするの! だから、私にできることなら……」

 言い終わらないうちに、首の後ろに手を伸ばされた。

 けれど力がなくってすぐに腕がおりてしまう。
 私はそんな彼女の体を、ぎゅっと抱きしめた。

菫「……うあっ…えっ……」

 堰を切ったように泣き出す。
 向こう側でキーボードを叩く音、それからモニターの電子音が聞こえる。
 けど、私はいま菫の発する音を聴くので精一杯だった。

梓「……ねえ、もしかして、」

菫「……ありがとうございました。にんげんに、してくれて……あずさ、せんぱい」

 そう言うと菫はすっと唇を重ねて、背中に回っていた腕の力を抜いた。
 しばらく私は動けなかった。騒がしいのになにも聞こえなかった。

斉藤「――中野さん、中野さん! はやく、紬お嬢様の元へ!」

 肩を揺り動かされて我に返る。
 そうだ、ムギ先輩……足がもつれて動かない。
 斉藤さんに体を預けて、どうにか連れていってもらう。

 涙と鼻水でぐちゃぐちゃな視界を右手で拭ってベッドにまむかう。
 そこには一年近く眠り続けている、愛する人の姿があった。

斉藤「呼びかけてあげてください、あと一歩の綱渡りの状態なんです」

 私は彼女の手を握り(当然体温だってあった)、
 彼女の細い息に耳を澄ませ(小さくたってちゃんと聴こえた)、
 何度も声をかけて(まるで一年前の放課後、うとうとするあの人を部室で起こしたみたいだ)、

梓「……むぎ、せんぱい…!」


 その瞬間、なにもきこえなかった。

 ただ、唇の熱だけが、手の熱だけが、かぼそい息の感じだけが、それから、


  ――おはよう、梓ちゃん。


 おはよう、ございます・・・・むぎせんぱい。

  ――梓ちゃん、……どうして、泣いてるの?

 だって、ムギ先輩が起きないから、……このままずっと起きないかって、


  ――ごめんね。でも、会えてよかった。

 はい。


 ……であえて、よかったです。


  ◆  ◆  ◆

純「はぁ……また部員一人かあ」

憂「しょうがないよ、スミーレちゃん転校しちゃったんだから」

梓「うん……そうだね」

純「ま、奥田ちゃんには梓並にがんばってもらうとしますか!」

梓「あはは……まあ、何かできることないか今から探しとこうよ」


梓「じゃあ、私はこの辺でね」

純「……あれあれー? あずにゃんちゃん、家こっちじゃなかったよねー?」

梓「うるさい純。どうでもいいじゃん、そんな――」

憂「梓ちゃんね、きょう紬さんと会うんだって!」

梓「ちょ……憂?!」

純「はっはーん、そういうことですかー。受験勉強しなきゃってさんざん言ってるのにぃ」

梓「う……きょ、今日だけだもんっ」

純「まあー梓は考えすぎるとこあっから、ちっとはいやされてきなさい!」

梓「……なにその上から目線」

純「なっなによ、別にやましい気持ちとかないしっ」

憂「ふふ、純ちゃん嫉妬してるのかもね」

梓「……さいですか」

純「ちがうし!」


梓「……そろそろ、駅つくかなあ」

 純たちと別れてロータリーの辺りで一人、ムギ先輩を待っていた。
 もう十一月、さすがにちょっと肌寒くなってきた。
 やせ我慢してないでコートを出した方がいいかもしれない・・・なんて考えていたら、
 一年前のこの頃もそんな話が出たのを思い出して、ちょっと笑ってしまう。
 変わってないなあ、私。

 斉藤菫は一身上の都合で転校してしまった。ということに、なった。
 ムギ先輩は菫のことを知らない。
 斉藤さんは知らない方がいいと言っていたし、
 あの人の性格なら自分のために命をなげうった人がいたなんて知れば、自分を責めてしまうだろうから。

 もちろん、あの二通の手紙のことだって知らない。
 あの出来事もムギ先輩にとって昨日の夜に見た夢みたいなもので、
 夢のことをとやかく言って不安がらせる、下手な霊媒師やカウンセラーみたくなりたくなかったから。


紬「――えいっ」

梓「ひえっ?!」

 ふいに目をふさがれてどぎまぎする。
 って、こんなことするのはあの人ぐらいだろうけれど。

梓「はぁ・・・ムギ先輩、大丈夫なんですかいろいろと」

紬「退院したし、予備校にも通い始めたもの」

梓「そっか・・・じゃあ、私と同級生なんですね」

紬「ふふ。りっちゃんたちは先輩だね」

 なんだか同じ秘密を共有してるみたいで、ちょっと楽しくなる。
 けれども、二人で楽しくしているのが少しだけ申し訳ない気持ちにもなったりする。
 あの子のことを知ってるのは、もう私だけだった。
 忘れることもできるのかもしれないし、してしまえるのかもしれない。

紬「……どうしたの、梓ちゃん」

梓「あ、いえ。なんでもないです」

 梓ちゃん、むずかしい顔してたから。
 言われてしまって、つくづく隠せない性格だなって思い知らされる。

紬「でも、どうして東京に行ってみようなんて思ったの?」

 その足で電車に乗って、二人並んで席に着いて、桜ヶ丘の次の駅を発車した辺りで聞かれた。

梓「よくわかんないけど・・・二人で、出かけたくなったんですよ」

紬「そうなんだ」

 ムギ先輩はそっと手を伸ばし、私の手の甲に重ねた。
 私は手を返して、手のひら同士を重ねなおした。
 熱と、わずかな手の汗が伝わる。
 体温が流れ込むみたいだ。この感触が、いまはとてもいとおしい。

紬「……でもね、私も梓ちゃんと行ってみたかった気がするの」

梓「そうですか?」

紬「うん。・・・また、変な話になっちゃうけど」

梓「いいですよ」

紬「寝てる間に見た、夢の話はしたよね?」

 はい。
 それはもう、隅々まで聞いてしまいました

紬「あのね、梓ちゃんと二人で、世界の終わりが来る前に逃げ出そうってする話」

梓「なんか村上春樹の小説にありませんでしたっけ、そういうの」

紬「そうかな? 私、読んでないから分からないけれど」

梓「実は私も読んでないんです。・・・それで、夢がどうしたんですか?」

紬「そうそう、それでね……だれか女の子が、私たちを助けてくれたの」

 知ってます。
 その子、金髪で青い目で、でも眉毛はムギ先輩みたく太くなくって、
 まじめで、熱心で、かわいい子なんでしょう?

紬「そこまで話したかな……でも、そんな子だった」

 私たちは夢で見た景色の話を、ちょっとずつ交わした。
 思い出したくないことを思い出さないように……そういう誘導も、あったかもしれない。
 けどそれよりも、記憶の奥底に残るものをいたわるように、
 夢で見た世界をまるっきり忘れないように、
 そんな、二人だけの世界の記憶をこの世に残すために、言葉を交わしていったんだと思う。

紬「……見て、もうそろそろだよ」

 言われて窓の向こうを見やる。
 急行列車に乗って一時間そこら、気づけば高台の下に家々やビルが立ち並ぶ別世界が広がっていた。
 東京だった。

 東京には何度も行ったことがある。
 両親に連れられて、サンフランシスコやニューオーリンズに行ったことだってある。
 実際、片道六百円ぐらい払えば行ける場所なんだ。
 なのに、忙しいとかこのまま桜ヶ丘でも遊べるからいいやって結局足を運ばない場所……それが、東京だった。

梓「……むぎ、先輩」

紬「なあに?」

梓「……私たち、どこにでもいけるんですね」

紬「うん。……どこにでも、行けるよ」

 ふと、東京に行きたくなった理由が分かった気がした。
 確かめたかったんだと思う。
 私の知らない新しさを。桜ヶ丘では味わえない空気を。
 あの子も、こんな風に桜ヶ丘を見ていたんだろうか。
 ムギ先輩と同じように、何にでも新鮮さや感動なんかを覚えていられたんだろうか。

紬「ねえ、そろそろ駅着くよ」

梓「そうですね」

紬「……降りたら、どうする?」

 聞かれて困ってしまった。
 何をしよう、なんて全然考えずに来ちゃったからだ。
 行くことが目的だったなんて、はずかしくて言えない。

 そうこうしているうちに車両は終点のホームにたどり着く。
 私は人並みに流されるようにして地下の改札を抜け、そこで立ちすくんでしまう。

紬「……じゃあ、ちょっとのど渇いちゃったから」

 そう言って自販機を指差すムギ先輩。

紬「あれでも飲んで、ゆっくり考えようよ」

梓「そうですね。はい」

 ムギ先輩は一瞬迷って、アップルジュースを二人分買った。
 ストローを指して吸い込む。喉の奥にまで、冷たい感触が広がっていく。
 家を出て玄関先で当たる、ちょっと冷たくて気持ちいい風みたいだなって、なんとなく思った。

紬「……ところで、夢の女の子のことなんだけど」

梓「その話は置いときましょう。それより、どっか外に出てみませんか?」

 私はムギ先輩の手を引いた。
 それから、ちょっと吹きだしてしまう。

紬「? どうしたの?」

梓「いや、なんでもないです」

 ムギ先輩にはいわなかったけど、向こう側の監視カメラには私たちがばっちり映ってた。
 そこに映る二人を見ていたら、なんだか口元がゆるんできちゃったんだ。
 だって、カメラに映る私たちは変に田舎くさくって、
 まるでさっきおとぎ話から出てきたばかりの、外の世界に慣れない登場人物たちみたいだったから。


おわり。



15
最終更新:2011年07月19日 03:26