「ええと。私ね、記憶が、75分しか持たないんだぁ」
#00 プロローグとエピローグ/〔48〕
「ええと。私ね、記憶が、75分しか持たないんだぁ」
紡いだ言葉にちっとも実感がわかなくて、つい笑ってしまった。
体中が何だかとってもガサガサするなって思ったら、
ブレザーの内側の至る所にシールが貼られているせいらしい。
何十枚と貼られているそれらは、間違いなく私の字で書かれたものなのだけれど、
いつ貼ったかも思い出せないし、書いた記憶も、書かれている内容について覚えもない。
それこそが、多分、私の記憶が75分だけって証明になるのだろう。
忘れてしまった記憶に対して、思う所がないって言えば嘘になっちゃうけど。
そんなことよりも、私は、目の前で泣きそうな顔して
こっちを見ている小さな女の子に、早く笑って欲しいなって思っていた。
『ギー太の愛した数式』
A pretty little girl and music.
彼女のことを、私はセンパイと呼んだ。
そしてセンパイは私を、あずにゃんと呼んだ。
私の頭のてっぺんに猫耳を乗せたら、とてもそれが似合っていたからだ。
『か、かわいい……!』
私の髪がくしゃくしゃになるのも構わず、頭を撫で回しながらセンパイは言った。
センパイの接し方はとてもフィジカルで、
揺れる頭と視界の中でえらく混乱したのを覚えている。
先輩達にからかわれるのを嫌がり、猫耳を外した私は警戒して距離をとった。
その仕草がまた猫らしく、先輩たちを喜ばせてしまう結果になったのは、今でも遺憾だった。
『これを使えば、とっても可愛い後輩が、梓ちゃんが、もっと可愛くなるねぇ』
センパイは笑いながらそういって、お菓子のくずが散らばったテーブルの隅へ、
角ばっていて、無機質な――先輩にはちっとも似合わない――真っ白いシールを貼ると、
ピンク色のペンで不細工なたぬきのイラストを描いた。
『あずにゃん』。
私がセンパイから教わった数えきれない事柄の中で、
猫耳の意味は正直、あんまり重要なことじゃない。
でも、それはたしかに、『とても狭い世界』でしか生きていけなかったセンパイにとって
重要な要素で、彼女自身が奏でる豊かなギターの音色や、
聞くだけで心踊る歌声と同等の地位を占めるものだった。
私がセンパイに教えた些細なことも、先輩の世界を彩るその一片に加えられていたのかは定かではない。
しかし私は信じている。
私がセンパイと過ごした7ヶ月という時間の密度を考えるたび、
胸に去来するこの暖かい感覚を幸福と呼び――――
『あだ名は、『あずにゃん』で決定だね!』
奇跡のような、きらめきに満ちた、あの時間は。
『あ、はは。あずにゃんは、ろまんちすとだなぁ』
もう居なくなってしまった彼女にとっても、特別で、幸福なものであったことを。
#01 出会いの一次方程式/〔15472〕
――――まごうことなき春だった。
校門から校舎までの道すがら等間隔で植えられた桜たちには、自身の枝葉で空を覆う力強さがあった。
地面には薄紅色のビロードが敷かれていて、これから始まる新生活に否が応でも胸が高鳴ってしまう。
通学路で、自分と同じ紺色のブレザーを見かける度、つい口元が綻んでしまったものだ。
校門の手前で立ち止まり、私は三年間お世話になる校舎を見上げる。
梓「…………よしっ」
ぐっ、と胸元で小さくガッツポーズ。
第一ボタンまで閉めたカッターシャツは、少しだけ首元に息苦しさを与えていた。
中学の制服はセーラーだったから、余計にそう感じるのかも知れない。
私は棒タイをいじりながら、校門から最初の一歩を踏み出した。
受験番号48、東中学校出身
中野梓。
私立桜が丘高等学校に、晴れて入学です。
高校生活を送るにあたって、やること。
『音楽』。
中野梓という個人を語る上で、とても大切な要素であるからという理由が一。
それでジャズ研究会を見学してみたのだけれど、なにかが違うという印象を受けた。
ジャズがなんたるか、なんて説けるほど高尚な身ではないにしろ、不満くらいは……。
高校の部活なんて、こんなものなんだろうか。
最悪の場合として考えていた外バンという選択肢が頭にちらついて、少し残念な気分になった。
でも、一縷の望みはある。それが、今向かっている――
友「ホントに行くのぉ? あの着ぐるみの人たちでしょ?」
付き合うの面倒くさい、と言外にいいながら、階段の踊り場で友人が訪ねて来た。
同じ中学出身のよしみでなんとなく行動を共にして来たけれど、そろそろ潮時かも知れない。
…………なんて、ちょっと薄情すぎるかなぁ、私……。
梓「ちょっと覗くだけ」
努めて曖昧に笑いながら、歩を進める。
革靴が階段を叩くたび、乾いた小気味いい音があたりに響いていた。放課後の喧騒に混じる二人分の足音。
友「ああ、もう、梓ぁ」
梓「…………」
部活勧誘の折、妙な馬の着ぐるみから渡されたチラシを、もう一度見る。
裏移りした色ペンから醸し出されるこれでもかという程の手作り感。
とてもカラフルで、ところどころに消しゴムのかけ忘れがあるのはご愛嬌だろう。
正真正銘、全身全霊でホームメイドなそのチラシには、
だからこその暖かさを宿しながら『けいおんがく部』と文字が躍っていた。
少し背伸びして覗いたその部活は、
梓「……ジャージ?」
友「あ、あれ平沢さんじゃない? 同じクラスの。……なんか、困ってるっぽいね」
梓「真面目にやってる部じゃないのかな……」
漏れたのは嘆息。心に沸いたのは納得。
実際のところ、あまり興味は湧かなかった。
――高校の部活に対して、偏見のようなものを持ち始めていたかもしれない。
……私は、真剣に音楽がやりたいだけなのに。
不満、拗ね、羞恥。
いろんなものがない交ぜになった顔つきで、心の中でごちた。
返した踵に、もう一抹の心残りもなかったから、
友「あれ、もういいの?」
梓「うん。ごめんね、無理につき合わせちゃって」
私があの「軽音部」に関わることになるなんて、少しも想像していなかったんだ。
?「え? 決めちゃったの?」
ホームルームが終わり、放課後。
教科書をカバンに押し込めていると、そんな声が聞こえてきた。
――所属する部活動を決めるこの時期に、新入生の間で頻発する些細な裏切りを想像させる言葉。
そちらについ耳が向いたのは、疑問系の言葉と裏腹に、その声色に隠せ切れない程の安著と納得が滲んでいたからだった。
ちょっと異様。だって、アンバランスすぎる。
視線をそちらにやれば、あの時、けいおん部の部室にいた子たちがいた。
一人は平沢さん。いつも決まって、ポニーテールを黄色いリボンタイで結んでいる子だ。
単独行動をしている所はあまり見ない、愛想の良い優等生。そんな印象の。
それからもう一人は、
純「うん、ジャズ研究会にすごいカッコいい先輩がいて……ごめんね」
憂「……そっか。しょうがないよ、どこに入るかは自由なんだし」
純「ごめんね。……じゃ」
思い出す前に二人の会話はそこで終わって、薄い鳶色を横結びにしたクラスメートの子
――あ。たしか、鈴木さんという名前だった――は、カバンを担いで足早に教室を後にした。
教室に残ったのは、私と平沢さん。
無言の教室に、平沢さんのそろそろと地面を這う様な嘆息が響いた。
……う……これ、流石に気まずい……
何て言葉を掛けていいか解らない。
それにこのタイミングじゃ、盗み聞きしてましたーっていうようなものじゃん……私。
ここは、私も先達を見習ったほうがいいかな。と立ち去ろうとすると、視線を感じて
梓「…………ん?」
憂「あ」
見つかってしまった。
ひく、と、唇の端が痙攣してしまう。
果たして――平沢さんは、縋るような視線で私を見ていた。
愚直なまでに真摯な視線の、その奥の瞳がどんな感情を宿しているかまではわからない。
数秒、初心なお見合いよろしく無言で対峙する私たち。
放課後の喧騒は、オレンジ色のオブラートに包まれてどこかぼやけて聞こえてきた。
梓「…………」
憂「…………」
コチ。
4を差す短針が数ミリ動いて、先に切り出したのは平沢さん。
憂「あ、あの――!」
――――さて、ご存知の通り、ここから私たちの物語は始まる。
といってもそれは、映画や文庫で語られるスリルやサスペンス、
ホラーやスペクタクルあふれて 血沸き肉踊るものなんかじゃ勿論なくて――
のんびりだらだら進む、緩い日常4コマ系でもなくて――
1コマ75分の時計の針へ、私の指先が触れる。
たったそれだけの話。
ま、その時はそんな予感、微塵もなかったけどね。
/
憂「……ごめんね、付き合わせちゃって。わぁ、結構いっぱいだぁ」
申し訳なさそうにいいながら、平沢さんは講堂の扉に手を掛けた。
重厚な木彫りの観音開きに、ぐっと力を入れて開く。
隙間から熱気がむわりと這い出てきて、薄暗い闇に一矢の光が射した。
講堂は多くの人――新入生だろう――でごった返していて、私たちは出入り口近くで立ち見することになった。
憂「――――お姉ちゃん、ボーカルなんだ……」
驚きを表す言葉の中に、何かを責めるような色が交じっていた。
……まただ。この、言葉と響きの不一致。
平沢さんの方を見ると、彼女の視線は私の訝しむ視線にちっとも気づくことなく、
――もしかしたら、気づいていてもなお、かもしれないけれど――まっすぐ舞台に向けられている。
声をかけて、何故と問うてもよかったのだけれど、それよりも耳が先に、気になる単語を拾っていた。
――お姉ちゃん?
私も平沢さんの後を追い、舞台に目を向けた。
舞台の上には制服姿の4人組がいた。人ごみのせいで、膝元から先は見切れていた。
ギター・トリオとキーボードの4ピースバンド。
女子高生がなんであんな重いギブソン・レスポールを、とか、
音に厚みを入れるためのキーボードかな、とか、
ベースの人左利きなんだ、とか、そういう思考が脳内を過ぎった後、ああ、と、思う。
あそこにいるのは、あの「軽音楽部」の先輩たちだ――――
ギブソン・レスポールを担いだ一人が、ひょこひょことヒヨコみたいな動作でマイクスタンドへ歩いていく。
よく見れば、その幼げな顔立ちはどことなくだけれど――私の隣にいる平沢さんと似ていた。
「『「【〔どーもぉ、って、ぅわ……〕】」』」
開口一番、だらしない笑顔が発した声は派手なハウリングを挟んだ。
壇上の先輩は音に怯んだみたいで、上体を大げさに逸らす。
講堂に広がる暗がりのそこかしこで、くすくすと笑いがあがった。
一曲目が終わり、ほどよく熱せられていた場の空気は良い方向にほぐれたみたいだった。
『軽音部です。えと、し、新入生のみなさん、ご入学おめでとうございます――?』
なんで疑問系。
先ほどより心持ち大きな笑いが講堂の中に広がって、
腑抜けたMCを嗜めるかのようなバスドラムが二度打たれた。
マイク前の先輩は、その音にも肩を大げさに揺らしてからやおら振り返って、えへへぇ、と笑う。
一連のやり取りから――腕前はどうあれ――きっと雰囲気の良い部活なんだろうな、と素朴な感想が沸いた。
その後も漫談みたいなやりとりが続いたけれど、それはまあ、今は脇において――
ワン、ツー。
掛け声と共にドラムスティックが打ち鳴らされ、
アンプから鳴り響くD♯7-5(セブンスフラットファイブス)。
聞き覚えの無いメロディーと歌詞。
コード進行はメジャーなものだけれど、新鮮味にあふれていて。
……まさか、とは思うけど――オリジナル?
高校の部活動なんて、コピーバンドばかりだと思っていた。
覗き見したあの音楽室では不真面目さしか見受けられなくて、ただお遊びでやっている部活だと思っていた。
曲が始まった瞬間から火に掛けられた講堂は、拍手と歓声をより大きなものにしていく。
隣から、半拍分ずれた手拍子と笑顔が伝わってきた。
鷲づかみにされた心臓が、ギターやドラム、キーボードの音で無遠慮に揺さぶられる。
ブレイクの合間にだけ呼吸が許されているかのように、私は息を止めていた。
確かに演奏にはまだまだ抜け切らない稚拙さがあるし、細かいミスをあげようと思えばいくらでも。
だけれど、どうしようもなく、私は。
私はその演奏に、魅入られてしまっていた――――
最終更新:2011年07月19日 22:40