#02 記憶の平方根はゼロ/〔12496〕
そして「軽音部」へと入部した私は大いに歓待された。
練習量だけは人並み以上にあると自負していたけれど、それでも人前でギターを弾くのは緊張した。
なんだかんだで、私は新しい環境に胸を弾ませていたのだった。
急く気持ちを押さえつけながら、特別教室が軒を連ねる棟の階段を登っていく。
始めて訪れた時と違い、一人分の足音が放課後の喧騒の中に反響していた。
階段を登りきり、音楽準備室のプレートが掲げられた扉の前に立つ。
棒タイをいじり、形を整えて、咳払い。
入部二日目。未だ緊張してます。
梓「……普通に。普通にすればいいんだ、私」
自分を落ち着かされるために独り言を落として、ままよ。扉に手を掛けて一気に開いた。
中の様子を確認する前に、腰を45度折る。
梓「遅れてすみません!」
?「ふ、ふぇい!?」
……勢いよすぎだったみたいで。しかも声量の調整も誤った。
随分と間の抜けた声に遅れて、ガタン、と椅子が揺れる音。
片目を瞑りながら上げた視線にいたのは、昨日と同じ場所、奥の椅子に座りながら目を丸くしてこちらを見やる――
梓「あ、まだ唯先輩だけですか? 他の先輩方は……」
唯「ほぇ……? あのぅ、ごめんなさい。お名前、聞いてもいいかな」
どうしました、と続くはずだった言葉は、唯先輩の弱弱しい声にかき消された。
それは、本当に『知らない人』に対する反応だった。戸惑いを纏う雰囲気は、演技で出るものでは決してなく、
梓「え……なに、言ってるんですか、唯先輩……」
震える声。おかしい。昨日、ちゃんと自己紹介したはずだ。
唯先輩は困ったまま顔で、自らのブレザーの内側へと手を入れた。
梓「メモ、帳……?」
唯「え、と。うーんと」
取り出されたのは手のひらサイズのピンクのメモ帳だった。
リングメモ形の、100均でもよく見かけるもの。
そこには、大量のシールが張り付けてあった。
シールの中には角が擦り切れていたり、日焼けして黄ばんでいるものもあって、
新品のメモ帳と比べて相当な年季が入っているのが見て取れた。
よく目を凝らすと、唯先輩のブレザーの内側にもそれはそこかしこに張られていて、
先輩が細かい挙動を起こす度にガサガサと虫の羽音みたいな音を立てている。
わからない。これは、いったい、どういうことなのだろう。
紬「こんにちはー。……あら? 二人とももう来てたの?」
梓「あ、えっと、ムギ先輩。あの、唯先輩が……」
部室に現れた
琴吹 紬先輩は、
メモ用紙を漁り続ける唯先輩の様子を見て、状況を察したようだった。
紬「……あ、そうか。そうね。説明、しないといけないわね」
梓「説明、って。なにが、どうしちゃったんですか? 唯先輩は、」
紬「少し待ってね、梓ちゃん。みんなが揃ってからお話しましょう?
―――――……とりあえず、」
どことなく硬い笑顔だった紬先輩は、そこで一旦言葉を切った。
メモ帳を漁っていた唯先輩が、突然あっ、と小さく声を上げる。
その様子を見て、笑みを深めた紬先輩は続ける。
紬「お茶にしましょうか」
梓「はぁ。……………………え、お茶?」
言葉通り、出てきたのはティーセットだった。
ティーセット。学校の音楽室で、ティーセット。
なんかケーキまであるし。どこから出したんですかこれ。
これはこれですっっっごく気になるところだったけど、とりあえず今は優先すべきことがある。
席に着きながら、私は紬先輩を見た。
ふわり、と花がほころぶ様に微笑む彼女は、首を横に振りながら。
紬「……これは唯ちゃんから言った方が、良いと思うの」
水を向けられた唯先輩は、ケーキを食べる手をいったん休めて、
小さく微笑みすら浮かべながら口にした。
まるで昨日の晩御飯を話すように、なんでもないというように
唯「ええと。私ね、記憶が、75分しか持たないんだぁ」
そういった。
/
それは、どこにでも転がっていそうな、
だからこそ絶対に体験しないと思えるような、ありふれた『悲劇』だった。
唯先輩が一年生――つまりは前年度の冬の話。
学校からの帰り道。
ちょっとした不注意から、飛び出してきたトラックにぶつかったらしい。
茜色射す夕暮れの時間だっと、と律先輩は言う。
宝物にしていた、素敵な『いつも通り』を全部奪っていったのは重苦しいブレーキノイズ。
それを今でもたまに思い出して身動きが取れなくなるの、と紬先輩は言う。
唯先輩はすぐに病院に運ばれて、幸い一命は取り留めたのだけれど、
脳の機能――つまり「記憶」に、障害が残ってしまった、と澪先輩が言う。
それまでの、過去の記憶については問題なく、自分の事もちゃんと覚えている。
けれど新しく入った記憶は、75分経つと消えてしまうそうだ。
紬「――脳の中に75分のカセットテープがあるような感じかしら。
そこに重ねどりしてくと、以前の記憶は消えてしまう。延長はなくて、きっかり、1時間と15分。」
紬先輩はそういうと、眉根を下げて目を細めた。
ビスクドールもかくやというような碧眼の瞳は、どこか遠くを見ていた。
きっとその先には、在りし日の光景が広がっている。
もしかしたら、私が辿るはずだったまた別の物語かもしれない。
紬先輩は悲しげな微笑のまま、唯先輩の脳の故障をして、『前向性記憶障害』。
『記銘障害』と『記憶障害』が重なった非常に稀有な状態だと言う。
梓「記銘、ですか? それは、その……記憶と、どう違うんですか?」
律「一言でいうならノートとエンピツだな。
記銘はエンピツ――つまり記憶に書き込む力。
記憶はノート――つまり記憶を保存しておく力。
唯はさ、書き込んだノートを忘れてきちまうんだよ」
こいつ、おっちょこちょいだからなぁ。なんて、冗談っぽく言う部長――
律先輩の説明は、とても滑らかなものだった。
これまで何度も、違う人の前で、同じような説明をしてきたのだろう。
ポイントだけ狙い撃ちにして、余計な部分をそぎ落としたそれは、なるほどわかり易い。
けれど――冗談めかした言葉と声色は、今にも泣きそうな顔と不釣合いすぎた。
紬「お医者様は、『完治は難しいだろう』って。
私たちと知り合ったのは去年のことだから、ある程度は覚えているんだけど。
新しいことが覚えられないから、大切な事はメモに残して持ち歩いているの」
ムギ先輩が語ったのを最後に、沈黙が場に横たわる。
唯先輩が小さく身じろぎした瞬間、カサリ、と乾いた音がした。
澪先輩が、俯いて呟くように漏らす。
澪「初日に伝えてなくてごめん。先にこんなこと言っちゃうと、
もう誰も来てくれないんじゃないかと思って」
隠していて悪かった、と付言する。
頭を深々と垂れ、かみしめるようにもう一度、すまない、と。
その肩はとても小さく見えた。
律「……いや、悪意があった訳じゃないんだ。
軽々しく口に出来る事でも無いだろ? でも、私たちも新入部員っていうんで浮かれててさ」
律先輩が、後を引き継ぐように口にする。
バツの悪そうな顔のまま頬を掻き、背もたれに体を預けた。
ぎし、と音が鳴るくらいたっぷりと木を軋ませてから、緩慢な動作で離す。
机に置かれていた紅茶で口を湿らせて、私を見据えた。
律「でも、やっぱり気になるっていうんなら無理強いは出来ないんだ。うん。
……今日は帰ってくれていい。考える時間もいるだろーしな。明日からも――」
梓「来ますよ」
律先輩が何事か言い終わる前に、私は待ち切れず言葉を発していた。
語尾を奪われた律先輩のみならず、
律・澪・紬・唯「「「「え?」」」」
異口同音。
視線が一点集中しているのを肌で感じながら、私は思った。
うん。そうだ。だって、そんな話を聞いたからって――どうだっていうんだ。
目を白黒させている先輩方へ視線を一巡させて、いう。
梓「私は、皆さんと一緒に演奏がしたいんです。
辛いことはあるかもしれないけど、そんなのは当たり前のことで。
この先、苦難があったとしたら、いいえ、あったとしても。
それって、そのときに、考えればいい事じゃないですか?」
言い終わってから、楽観的すぎる意見だと気恥ずかしくなった。
ともすれば、タライ回しや問題の先送りと揶揄されるかも知れない。
それでも、痛烈なくらいに思ってしまったのだ。
そんなことはどうでもいいからこの人たちと音楽がしたい、と。
それだけは胸を張って宣言できる。決意と言い換えてもいい。
ほとんど全員がぽかんとした顔をしていたけれど、ムギ先輩だけはくすくすと笑っていた。
紬「唯ちゃんと同じことを言うのね」
梓「え?」
目を細めながら、ムギ先輩が言った。
聞き返すと、内緒話を囁く前みたいに笑う。
すっかり中身の温くなったティーカップを取り、両手で包み込みながら、続けた。
紬「唯ちゃんはね、記憶が無くなってしまう、という話を聞いて。それでも笑ったの」
唯『あはは。これで同じお菓子が何日続いても、私は絶対に飽きないねぇ。
ムギちゃんのおいしいお菓子が、いつでも美味しいんだよ。
それって、とっても良いことだって思わないかな、ムギちゃん――』
唯先輩の声で聞こえた言葉は、私の発したもの以上に楽観主義的。
『楽しいは楽しいだよ』と笑う唯先輩の姿が脳裏を過ぎる。
ああ、この人なら言いそうだなって、納得して、苦笑いが漏れた。
ムギ先輩は唯先輩を一瞥してから、睫毛をそっと伏せた。
紬「だから――私たちは、唯ちゃんと一緒にいて、力になろう、って思ったの」
――――こうして、私の新生活が始まった。
ちょっと変わった先輩たちと過ごす、放課後の部活動。
少し、いやかなり、不真面目なのが玉にキズだけど――
私は、ここに居たい、と。そう思ったのだ。
そしてその日から。
唯先輩のブレザーの内側、心臓に一番近い左胸へ、
「
中野 梓 新入部員!」と書かれたシールが張られることになった。
最終更新:2011年07月19日 22:40