#03 微分積分、不十分。それからネコミミのこと

 翌日の事。
 教室で、唯先輩の妹でクラスメイトの平沢 憂さんに声を掛けられた。
昼休みの2/3も過ぎ、自分の机で昼食をとり終えて、人心地ついていた頃だった。

憂「――ごめんね? あのときは、無理に誘っちゃって」

 新歓のライブに付き合わせたことを、まだ気にしていたらしい。
 ソースと醤油とお米の残り香が漂う中、おずおず、といった態で切り出す平沢さん。
両手を胸元で合わせ、こちらを伺う彼女の姿は、まるで何かに祈っているようにも見えた。

梓「ううん。私、軽音部に入ることにしたから」

 ありがとう。と、そう伝えるつもりだった。
 出会いのきっかけをくれたのは、何を隠そう目の前の彼女だから。
私は着席したまま、机の横についている平沢さんに頭を下げる。

憂「…………え?」

 しかし、当の平沢さんは戸惑った様子で。

憂「え、でも。あの、お姉ちゃんのこと、知ってるの?」
梓「唯先輩の。記憶の、こと?」
憂「……知ってるんだ」

 返答はため息と一緒で、続く言葉は疑念と一緒にだった。

憂「――でも、ね、中野さん。本当に良いの?
 本当に、全部忘れちゃうんだよ。毎日、積み重ねたはずのこと、全部、なんだよ?」

 辛くないの、と、口以上に物を言う瞳が私を詰る。
 普段、人当たりよく、誰にでも分け隔てなく接する彼女の姿はどこにもなかった。
 垣間見たことのある言動と響きの不和――――平沢さんの攻撃性の由縁が、
それを向けられたことで、始めてわかったような気がした。

梓「……あなたは、辛いの?」

 口にしてから、しまった、と思った。

 当たり前だ。

 家族なのだから、誰よりも唯先輩と接する機会は多いはずだ。
忘れ続ける姉について、どんな思いを抱いているか、なんて――
私には解らないし、簡単に整理が付く問題じゃない。

 そして、きっと、だからこそ、彼女は戸惑っていて。

 混乱を面に出せず、気持ちを整える暇すら与えてもらえない環境に置かれて、
だからといって、非情に徹して切り捨ることも出来ずにいるから。

 姉のことが好きだから。

 知らない子を無理やり捕まえて、ライブを見に行ってしまうくらい、大好きだから。


 そんな場から生まれる不安、不満のエネルギー総量はいかばかりか。

梓「――――……」

 固まってしまった私の表情から全てを察したように、平沢さんは肯首した。
鈍い光を携えた瞳は以前、私を捉えて離さない。

憂「……わからない、よ。どんなに楽しくても、どんなに嬉しくても、どんなに、悲しくても。
 お姉ちゃんはそれを覚えてないの。だから――」

 平沢さんはその先を口にはしなかった。
 私はそれでもあの場所に居たいと口にしたけれど、
本当に、その思いはずっと果たされるのだろうか? 果たしていけるだろうか?
 こんなにも苦しんでいる彼女を前にして、胸を張れるだろうか。

 そう考え込みそうになった思考は、平沢さんの呟きに掬い取られた。

憂「……私ね、中野さんが羨ましいんだ」
梓「――――……え?」

憂「あなたは、お姉ちゃんにとっていつも知らない女の子かも知れない。
 だけど私は、いつまでも妹の憂なんだよ」
梓「……それが、どうかしたの?」

 積み重ねた事を忘れてしまうことと、
その人の存在自体を忘れてしまうこと。

秤にかければ、どちらが幸福かなんて目に見えているではないか?

 白状すれば、私にだって他の先輩方や平沢さんを羨ましいと思う気持ちがある。

 せめてあと1年早く生まれていれば、と、昨日の夜何度考えたかわからない。
細めた視界の中で、平沢さんは諦めたように笑っていた。

憂「お姉ちゃんにとって、私はずっと『中学3年生』の妹なんだよ?」
梓「…………っ」

 向けられた視線に、浅はかな私の抗議は根っこから刈られた。
それまで錆付いた鉄のようだった光が、冷たさと鋭さと精彩を取り戻して、一直線に向かって来る。
 彼女の内でのたうち回っている激情。その芯の部分に、いま、触れた。


 ――――それは、痛烈なまでの悲嘆だった。


憂「本当ならね、私もお姉ちゃんの部活に入りたかったんだよ。
 でも見学しにいった初日にね、お姉ちゃんったら慌てながら言うの。
『どうして憂がここにいるの? 中学はどうしたの、憂!?』って。
 困っちゃうよね、私はとっくに高校1年生で、お姉ちゃんの後輩なのに。
 ――――時間が経てば経つ程、『妹』と『私』は離れていっちゃうんだ。
 私、妹なのに、お姉ちゃんを置いていっちゃうんだよ?」


 息継ぐ間もなく言いのけて、平沢さんが一歩パーソナルスペースへ踏み込んでくる。
何事かとざわつき始めた教室の空気を認識しながら、
彼女の抱える傷をむざむざ暴いてしまった事に深い羞恥が残った。
 平沢さんの瞳は一片の曇りもなく、ただ昏い。

『あ、あれ平沢さんじゃない? 同じクラスの。……なんか、困ってるっぽいね』

『でも見学しにいった初日にね、お姉ちゃんったら慌てながら言うの』

 部室の扉を覗いた時、何やら困ってる様子であたふたしていた彼女の姿。

 それが、今の発言と繋がった。

梓「……っ」

 もうたまらず、息を呑んで視線をずらしてしまった。私は、結局、逃げたのだ。

 平沢さんは、臆病者が竦んだのを敏感に感じ取っていた。
刀を納めるように瞼を伏せると、眉根を下げながら申し訳なさそうに笑う。

憂「……あはは。ちょっと気持ち悪いよね。ごめんね、中野さん」
梓「う、ううん。私の方こそ、ごめん」

 緩慢な動作で首を降り、謝罪する。
備え付けのスピーカーからチャイムが鳴り響いたのはその時だった。
それがタイムホイッスルの変わりか、リングに投げられたタオルかはあいにく判別がつかない。

 私達はもう一度、お互いに謝罪の言葉を交わしながら別れる。
張り詰めていた空気は霧散して、教室にはいつの間にか温度と平穏が舞い戻ってきていた。
 数学を受ける準備を各自で始めて行くクラスメートを背景にして、
あめ色のポニーテールが揺れながら遠ざかっていくのを、複雑な心境で見送る。



「あー、もうチャイムが鳴っているだろう。各自席につくよう」

 それからややあって、教室の扉が音を立てて開いた。
出てきた若い男性の数学教師は、紺色の薄い本を脇に挟みながら教壇に立った。

「さて、今日の授業だが、君たちは約数について覚えているかな?
 数字を割り切れる数字のことだ。6なら、1と2と3と6がこれにあたる。
 ではこの数字、220と284だが、これは共に助け合い、支えあう数字――友愛数と呼ばれている。
 何故かというと、不思議なことなのだがこの約数は――」

『唯先輩』『ノートとエンピツ』『平沢さん』『けいおん部』『75分』。
 色々な事を考えて。ぼんやりと、先生の話を聞いていた。

その時先生が口にした二つの数字が、なんとなく気になった。
 広げただけのノートに220と284とだけ書き出して、
書き出すことが出来たのは、自分がその数字を覚えているからだと気がついた。

 『記憶』。

 覚えること全てを忘れてしまうというのは、どんなものなのだろう――?


       /

唯「……えっとー」
梓「新入部員の中野梓です。よろしくおねがいします!」

 放課後、部室へ赴くと先輩方はもう既に勢ぞろいだった。
こんにちは、と挨拶しながらソファーにカバンを置き、自分に割り当てられた席へ座る。
 唯先輩の心象としては、私は突然の乱入者だろう。
戸惑った様子の彼女に、明るく笑いかけながら宣言する。

 彼女は、また当然のように私の事を忘れていた。

 でも、それはもう、わかっていたことだから。
私は私に出来ることをやろう、そう決めた。なら、辛いなんて今更思えない。

律「おぉ! 元気いっぱいだな。それじゃ早速――」
梓「練習ですか!」
律「お茶にしようっ」
梓「……えぇっ!?」

 身を乗り出していた肩から崩れ落ちた。
その様子を見ながら、律先輩は楽しげにケラケラ笑う。
 能天気な人だなぁ……。とジト目になっていると、いつの間にかテーブルにはティーセットが並んでいた。
まるでこれが通常の姿であるとでも言うように、律先輩は椅子の上に胡坐をかいて紅茶をすすっている。

梓「――あの、音楽室でこんなことして、大丈夫なんですか?」
律「だいじょーぶだいじょーぶ。心配すんなー」

 言葉の響きが軽すぎて、ちっとも大丈夫には思えない。
少し肩身の狭い思いをしていると、扉を開けて先生が姿を現した。
 ホワイトスーツに橙色のインナー。
スカートからスラッと伸びた両足、蜂蜜色のストレートロングの髪に、細い楕円フレームの眼鏡。
 キャリアウーマンのパブリックイメージに手足が生えて歩いてるみたいだった。
でも、眼鏡の奥に仕舞われた眼精は穏やかで――あ。そうだ、音楽の山中さわ子先生。

梓「あ」

 先生はつかつかと歩いてきて、椅子に腰掛けた。
おしとやかな大人の女性像そのものな先生は、やはりというべきか新入生の間でも評判がいい。
 そういう類の情報網において、最末端の私でも存在を耳に挟んだことがあるくらいだから、
その人気ぶりたるや相当なものなのだろう。

 山中先生は机の上に両肘をつきながら、
疲れた、と大袈裟にため息を吐いてみせる。ムギ先輩が席を立った。

梓「……あのっ! あの……これは……」
さわ子「私ミルクティーね」
梓「えぇっ!?」

 この人も。私か? 私がおかしいのか?

 はーい、と間延びした返事をしながら、ムギ先輩は笑って
食器棚(どうしてあるの!?)から新しいポットを取り出している。

 夕暮れ時にふさわしい、穏やかな時間の流れだった。
うん。でも少なくともけいおん部の日常の一コマでない。……ないよね?

さわ子「顧問の山中さわ子です。よろしくね」
梓「よ、よろしくおねがいします」

 はあ……綺麗な人だなぁ……。
部員のみんなは、当然のようにお茶とお菓子を口にしつつ雑談に興じていた。


 …………ここ、軽音部だよね…………?


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最終更新:2011年07月19日 22:43