で。
 満杯に入れられた紅茶が、すっかり冷めてしまう位の時間が流れて、現在。

梓「……あの、なんですか、これ」
さわ子「ネコミミだけど?」

 しれっと答える山中先生。
2杯目はストレートにしたらしい。カップの中の紅茶を優雅にくゆらせていた。
 ひくつく口元が、最初に抱いた印象が崩れていくのを伝えていた。
脳内ではデマゴークの危険性についての論議が白熱している。
 私の視線は、机の上へ落ちていた。
黒カチューシャの上に、ファサファサした毛並みの三角がついているソレ。


 ネコミミ。いやでも何故にネコミミ。

 これはお茶会もたけなわの内から、山中先生が嬉々として取り出してきたものである。
かろうじて動く口先で、私は先生を見る。

梓「いえ、それは、わかるんですが。これを、どうすれば……」
さわ子「…………ふっふっふっ」
梓「ひぇっ!」

 妙な笑い声と共に先生は私の背後へと回り、肩をつかんだ。
柑橘系のコロンの香りが鼻先をくすぐるが、
ぞわわわわっ、と大量の毛虫が割拠して背筋をせり上がって来るような悪寒が走る。

 だらしなく椅子に座っていた律先輩が、その様子を見ながらひらひらと手を振った。

律「あぁ、だいじょぶだよ。軽音部の、儀式みたいなモンだから」
梓「何の儀式ですかぁ!?」

 声量を上げて叫び、掴まれた手を振りほどく。身を両腕で庇うようにして、先生を睨む。
しかし目の前の悪代官は、下世話な笑みを浮かべながらネコミミを手ににじり寄ってきていた。
 効果なしッ!?

 まさか、良いではないか、とか言い出さないよねこの人!?

さわ子「――もう。恥ずかしがり屋さんねぇ」
梓「当たり前です! 先輩方だって恥ずかしいですよね!?」

 ――振り向くと、和気藹々とネコミミを着けて話し合う姿が。


 え。えぇー? あれ? 私がおかしいの?


さわ子「んっふっふっふっ、良いではないか良いではないかー」
梓「この人言ったぁ!?」

 ぎょっとしていたら、唯先輩が近くに寄ってきていた。

唯「はい。次、梓ちゃんの番」

 そう言って、ネコミミを差しだしてくる。

 受け取り、手にとって、思案顔。
これはなんだ。いやネコミミだけど。それはわかってるけど。
どうするの。着ける。本当に?
恥ずかしい。でも。どうしよう。見られてるし。

 細切れの思考は、プライドと実行の間をゆらゆら反復していた。
頭がこんがらがりそうになって、ううっと呻きながら、なんとか頭に載せてみる。

唯「わぁ――――!」

 酷く恥ずかしい。

律「おぉ――――!」

 歓声が上がっている。

 現実から逃避したくて俯くと、その姿も肴にされる。なんという悪循環……。
 板張りの床を眺めながら嘆息を漏らすと、視界の端にローファーと黒タイツが見えた。
顔を上げると、私にネコミミを渡した唯先輩がいる。
 沈み込んで行く気分を掬い上げるように、先輩は優しい声色で話しかけてきた。

唯「すごく似合ってるよ、梓ちゃん」
さわ子「私の目に狂いは無かったわ」

 椅子に腰掛けながら長老みたいにうむうむ頷いている人は放って置く方向性で。

梓「……ううっ」

 先輩の励ましは心に響いたけれど、やっぱり気恥ずかしくて、
頭上に居座る違和感にとにかく落ち着かなかった。
 姿見があったら椅子で叩き割っていたかも知れない。

 先輩たちは一様に顔を見合わせながら、示し合わせたように一笑した。
そこには私がまだ立ち入れない絆の存在が確かにあって、私に孤独を教えてくれる。

 律先輩はくしゃりと、ムギ先輩と澪先輩はふわりと上品に笑い、
唯先輩は幼子のような無垢な笑顔で笑っていた。
 そして、せーの、の掛け声もなく、

律・澪・紬・唯「「「「軽音部へようこそ!!」」」」
梓「ここで!?」

 割と訳がわからなかった。
 けれど彼女たちが精一杯歓迎してくれているということは伝わってきて。
張っていた肩が落ちて、気持ちが幾分かほぐれてしまった。苦笑が漏れる。

唯「うぅーん、梓ちゃん、かわいー」

 そして、唯先輩が抱きついてくる。

律「ニャーって言ってみて! ニャー! って!」

 律先輩がそんなことを言った。

梓「……に、にゃぁーっ」

 唯先輩に抱きつかれながら、素直に要望に答えて(上目遣い+猫の手までして)しまったのは、
歓迎の言葉のお礼だったのかもしれない。

 ……サービスしすぎた、と思わないでもないけどね。

 ああ――だとか、感嘆の言葉を漏らす先輩方だった。
 その中にあって、黙ってぶるぶる震えていた唯先輩は、その震えが最高潮に達すると同時に腕の力を強めた。

梓「ふにゃ……っ!?」
唯「あだ名は、『あずにゃん』で決定だね!」

 ……なんなんですか、それ……。

私の髪がくしゃくしゃになるのも構わず、頭を撫で回しながら先輩は言った。
先輩の接し方はとてもフィジカルで、揺れる頭と視界。

 ヒューヒューと律先輩が遠巻きに囃し立てる。
澪先輩が嗜めているけれど、効果は薄そうだった。
 強い光が一度、二度と瞬いたのが見えて、驚いてそちらを見れば、
ムギ先輩がカメラのシャッターを高速で切っていた。…………えぇ!?

梓「っー!」

 これ以上絡まれるのは流石に堪えると、私は猫耳を外して距離を取った。

唯「これを使えば、とっても可愛い後輩が、梓ちゃんが、もっと可愛くなるねぇ」

 先輩は笑いながらそういって、お菓子のくずが散らばったテーブルの隅へ、
角ばっていて、無機質な――先輩にはちっとも似合わない――真っ白いシールを貼ると、
胸元からピンク色のペンとり足して不細工なたぬきのイラストを書いた。

『あずにゃん』。

 ……訂正。
たぬきじゃなくて猫のつもりらしい。
書き終わったそれを満足げに眺めてから、唯先輩はまたこちらへ寄って来た。

唯「ね、ね、ね。あずにゃんのこと、もっと教えてよ!」
梓「……中野梓、1年2組。東中出身で、ギターを少々。誕生日は11月11です」

唯「うお、すご。ゾロ目なんだね。11、11ね。んんー……」
梓「どうかしました?」

 データだけを簡潔にまとめて言うと、先輩は最後の数字に食いついてきた。
誕生日ではなく、その数字について言われたのは初めての経験だ。
 先輩は腕を組んで軽くうねると、素朴な感想を告げてきた。


唯「11ってフシギな数字だよね。いっぱい友達はいそうなのに、ひとりぼっちな感じもする」

 あー、と言葉を濁して、私はその数だけが持っている特別な意味を口にする。
自分に関係するということもあってか、よく覚えていた横文字の言葉。

梓「すべての桁が1である数をレピュニット数って言うんです。1,11,111……」

 滑り出しが堅苦しすぎる私の話に辟易する様子もなく、先輩は目を輝かせた。

 自分の記憶に関して、先輩はどこかで負い目を感じているのも確かだろう。
なるべく私にそういった心苦しさを感じさせないよう、努力しているのかもしれない。

梓「ちなみに、レピュニット数を用いた計算で面白いものがあるんです。
 111111111×111111111はですね――――」

唯「12345678987654321……あ、すごい! 綺麗な形だねぇ!」

梓「……なんだ、唯先輩、知ってたんですか?」

唯「ううん、暗算しただけだよ?」

律・澪・紬・さわ子・梓「「「「「すげぇ!!!??」」」」」


 ――かくして、その『あずにゃん』シールは、
左胸のシールのすぐ横に張られることになったのだった。

 忘れちゃダメだから、と、こちらが引いてしまう程の真剣味で、
猫もどきのイラストが書かれたシールをワッペンのように胸元へ貼ろうとする
唯先輩を全力で止めたのは、その余談だ。




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最終更新:2011年07月19日 22:43