#04 U&I和(ゆーあいかず)/〔220,284〕〔14228〕
それから三日後の放課後だった。
自己紹介、抱きつかれのルーティンワークをこなして、お茶を飲んでいた
(これにあまり抵抗感を抱かなくなっていることを自覚した時は、大いに戦慄した。)時のこと。
?「ちょっと律! 新歓の講堂使用申請書、またミスがあったんだけど」
叱咤の声で扉が開いて、茶色いショートヘアで
赤いアンダーリムの眼鏡が理知的な女生徒が入ってきた。
棒タイの色から察するに、上級生だ。
唯「あ、和ちゃん」
和「…………唯」
その先輩の姿にはなんとなく見覚えがあった。
たしか、生徒会役員の人だったか。唯先輩と知り合いなのだろうか?
それにしては、目を伏せて、視線を手元の書類へ逸らして――返答もあまりにそっけない。
小さく手を振ろうとしていた形で、笑顔が氷ついたまま唯先輩が固まった。
律「あー、はいはい! 書類、書類ね! えーっと、なんだって?」
わざとらしいくらい大きな声で、律先輩が割り込む。
立ち上がり、入り口付近で立ち尽くしているその人の方へ歩いていくと
和「あ、ああ。そう、ここのところなんだけど……」
律「うぇー。なんとかならないかなー、だいたい終わったことじゃ――」
二人は少し話しこんで、ノドカ、という先輩は部屋を後にした。
――最後まで不自然なくらい、唯先輩とは目を合わせずに。
梓「……唯、先輩?」
唯「あ、うん。今のは和ちゃんって言って、私の幼馴染、なんだけど」
少しずつ、声が小さくなって震えていく。
先輩は痛みを堪えるように俯くと、膝のスカートをきゅっと握り締めた。
唯「私が、ばかになっちゃったから、のどかちゃんは、きらいになったの、かなぁ」
ぽたり、と、俯いたままの顔から雫が落ちる。
堪えきれずにとうとう泣き出してしまった。
ムギ先輩が、傍らから撫でるようにしてなだめている。
澪「……どうせ、しばらくしたら忘れるさ」
律「澪っ!!」
それを見ながら吐き捨てるように口にした澪先輩と、叫ぶように諌める律先輩。
……私は、何かを考える前に矢も盾もたまらず駆け出していた。
律「あ、おいっ、梓!?」
背中で律先輩の呼び止める声を聞きながら、引っつかんだドアノブ。
蝶番が、心の軋みを代弁するようにキキィと鳴いた。
使命感とか義務感ではない何かが、心の中で生まれた瞬間だった。
それが一体何なのか考える暇もなく、この体ははじき出ていたけれど。
――――そして、件の和先輩は階段の踊り場に立っていた。
私は彼女の後姿を睨め付るように見下げながら、問う。
梓「あのっ! なんで、唯先輩の事、避けるんですかっ」
こちらを見上げたその瞳は、思っていたよりも、酷く――泣きそうなもので。
和「あなた、新入部員? ……そう。勘違いしないで。別に避けてるわけじゃないの」
和先輩は震える声で言って、私から視線を逸らした。
場に沈黙が落ちる。
私は愕然とした。
――これは、何て、弱弱しい姿だろうか。
振り上げた拳の降ろし所が解らないというのは、こういうことをいうのだろうか。
橙色をした放課後の空気だけが、この重苦しい場を自由に漂っていて、
音楽室からは、何の音も聞こえてこなかった。
和「――私に、あの子の隣にいる資格なんてないのよ」
和先輩は自嘲気味に笑い、滔々と語り出した。
和「私ね、あの子が高校に入っても、また同じような日々の繰り返しだって、信じてたの。
気がつけば唯が隣にいて、頼られて、しょうがないわねって笑って、世話をして」
階段の手すりに置かれている銅像の亀の甲羅を撫でながら、続ける。
和「でも、けいおん部に入って、やりたい事を見つけて、熱中して――
どんどん私を置いて輝いていく唯を見るのは少し寂しかったけど、
そんな風に成長していくあの子が、とても誇らしかったのに」
私という穴を通して、どこか遠い風景を見ているような目だった。
吐き出される懺悔を聞き届ける人は、私しかいない。
和「唯がああなったって知った時、一瞬、嬉しい、と思ってしまった。
これから積み重ねる事のないあの子が、また私を頼ってくれる。そう思った。
……最低でしょう?」
一息に口にすると、そのまま階段を下りて行ってしまう。
私は、何も言い返せずに、また追うことも出来ずに立ち尽くしていた。
?「梓」
背中にかけられたのは、穏やかな声。
梓「……りつ、せんぱい」
律「あー、悪い。立ち聞きするつもりはなかったんだけどな」
ばつが悪そうに頭を掻きながら、扉に寄りかかっていた律先輩は
一歩一歩、踏みしめながら階段を降りてくる。
律「和のこと、あんまり責めないでやってくれよ」
悪戯を咎められた子どものような顔つきだった。
梓「…………」
律「それぞれにやっぱこう……後悔って奴があるんだよ。
――私だって、あの時。唯を助けられてたら、もしこの手が届いていれば、って、思ってる。
私は部長で……ううん、唯の友達だから」
それは、魅力的で、苦しい仮定だ。
もし、ああしていたら。なんて。――第一、そんなこと。
梓「……エゴですよ、それは」
今の唯先輩を、否定する言葉じゃないか。
梓「勝手なんです。みんな。全部全部、自己完結して、勝手に落ち込んで。
唯先輩の気持ちも聞かずにそんなこと思って、離れて、それで傷つけて!
そんなの、ただの自己満足じゃないですか!?」
癇癪を起こした子どもみたいに私は叫んで、律先輩に詰め寄っていた。
何故こんなにも必死になって食いかかっているのか、わからなかった。
自分では抑えきれない激しい感情のうねりがお腹に渦巻いている事だけが確かだった。
律「――――中野」
梓「っ!?」
三度目の呼び声は、とても静かな声。
底冷えするような声色と瞳で、律先輩は私を見下ろしていた。
律「忘れたのか? アイツは、唯は覚られないんだぞ……?
許しを貰ったって、75分後にはそれをアイツは覚えてない。覚えてるのは私だけだ。
そんなの、それこそ自己満足じゃないのかよ!? それなら、それならさぁっ」
いっそ私たちも、ぜんぶ忘れちまえって思う気持ちは、間違いか――?
最後は消え入りそうな声でもって、感情を辛そうに吐き出す姿。
――今の私には、彼女たちの「痛み」を、否定できる言葉がなくて、
何も言い返せず、黙り込むしかなかった。
梓「…………」
律「――でも、いや、だから、かな。
お前がけいおん部に入ってくれて、『私たち』はホントに助かったんだぜ?」
律先輩は、固まった空気を解すように、軽い口調で言う。
律「あんなでもさ、やっぱりその、パニくる時とかあんだよ。泣き喚いたり」
信じられない、というような顔でも私はしていたのだろう。
彼女はそこまで楽しそうではないにしろ、笑ってみせた。
律「でも梓が来るとそれがピタっとおさまるんだ。
後輩の前でそんなみっともない姿を見せらんねーって思うんだろうな。……おかしいよ、ホント」
放物線を描くように徐々に落ちていった彼女の視線を、誰が責められるのだろうか。
能天気な人だなって、幾度となく思った。
だけど、律先輩にしろ、他の先輩方にだって、苦悩がある。痛みがある。
それを私は否定出来ないけれど――やはり、気に入らなかった。
梓「ねぇ、律先輩。提案なんですけど――」
どうやら唯先輩の中では、後輩は絶対に愛さなければいけない、という公式があるらしい。
たとえ自分の状況に折り合いがつかないような場合でも、私がいるだけで先輩は先輩足ろうとしているそうだ。
なら、きっと。たくさんある唯先輩の公式の中で、『友人』に関するものも、あるはずで。
目の前の小心者に、それをなんとしても教えてあげなくちゃって私は思った。
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?「何なのよ、律。用事って」
律「いーからいーから!」
?「待って、っ、押さないでって。……貴女、何か企んでない?」
翌日、律先輩は半ば無理矢理『彼女』を部室に呼び出していた。
私が昨日、階段で頼んだことで、律先輩は渋々承諾してくれたことだ。
部室には、まだ私と唯先輩の姿しかない。
澪先輩とムギ先輩は、掃除当番で遅くなる。勿論、それを予め聞いた上での作戦だった。
律「ほら、入った入った!」
?「ちょ、ちょっと――」
例の『挨拶』を一通り終えて、部室のソファーに並んで腰掛けながら
唯先輩が歪な猫の落書きをするのを見ていた時、扉が開いて、
梓「律先輩!」
律「おう。連れて来たぞー」
私は跳ねるように立ち上がり、そちらを見やる。
肝心な所はちゃんと決めてくれる部長は、彼女の肩に手を置いて、背後から押し出すようにして入ってきた。
彼女といえば驚いた顔でこちらを見ると、背中にいる律先輩へ、恨むわよ、と小さく漏らす。
唯「和ちゃん!」
和「唯……」
唯先輩は昨日と同じように、全身から歓迎の念を表して、
一方の彼女――和先輩は昨日と同じように、気まずそうな顔で視線を逸らしている。
――でも、それじゃ駄目だ。
条件を一つ加えて、証明可能にするように、私は促した。
梓「先輩。……話したいことが、あるんじゃないですか?
話さないと伝わらないと思うんです。お二人とも、友達、なんですよね?」
まだ証明が得られていない命題はすべて未解決問題であると、心の中で唱える。
それに、すれちがったままは、悲しいから。
例え唯先輩が忘れてしまったとしても、積み重ねたことは、きっとそこにあるんだって思う。
和「…………」
唯「和ちゃん?」
ここまでお膳立てされると、和先輩も流石に観念したらしい。
唯一の逃げ場である出入り口も、律先輩によって封鎖されている。
私を親の敵のように見ていた厳しい眼差しから、ふっと力が抜けていって。
和「…………唯、」
迷子のような弱弱しい声が、唯先輩を呼んだ。
和「ごめん。私、とても――とても酷い人間なのよ。
唯が記憶を保てなくなって、それで、また私を頼ってくれるって、そんなことを考えてた」
眼鏡を外して胸ポケットへ直し、彼女はためらいながらも、唯先輩へと歩み寄っていく。
震える手が、部室のソファーに座っている唯先輩へと伸びて――止まって、落ちる。
和「こんなことを考える私には、唯の隣にいる資格なんてないんだって、そう考えて。
だから唯から逃げた。こんな酷い私を見せたくなかった。
……ううん、これだって言い訳。わたしは、ただ、怖かったのよ」
唯が映す自分の姿が、酷く恐ろしくて、醜くて、逃げてしまいたかった。
罪の吐露は、胸を押しつぶす言葉と涙を伴っていた。
和「ごめんなさい、唯。――本当に、ごめんなさい。
わたし、ずっと唯の親友でいたのに、たいせつ、なのに、
それなのに、わたしっは、唯、ごめん、ごめんね、ごめんなさい――」
ごめんなさい、ごめんなさい。
抉り出した傷から、次々と溢れて出る謝罪の言葉。
頬に流れて落ちていく涙は止め処なく、このまま血まで涙にして
干からびてしまうのではないかと見ていて心配になる程だった。
一体どれほどの苦痛と、どれほどの苦しみだったんだろう。
親友の姿を、自分自身を否定しながら、積み重ねてきた重みは。
両手で何度も何度も頬を擦って、それでも涙は止まらなくて、嗚咽が漏れて。
その姿は、やはり迷子の子どものように頼りなく、弱弱しかった。
唯「――ねぇ、和ちゃん」
唯先輩は、ソファーから立ち上がって
和「…………っ」
和先輩と向かい合うと、お腹からぐるっと腕を回して、抱きついた。
胸元に耳をつけると目を閉じて、あやす様な甘い声で言う。
唯「私と和ちゃんはね、220と284なんだよ」
和「……え?」
唯先輩が口にしたのは、どこかで聞いたような覚えがある数字だった。
そう古い記憶ではない。ほんの一週間ほど前、数学の先生が授業の中で言っていた――
梓・和「「友愛数……」」
唯先輩に抱きつかれたまま、固まっている和先輩と同時に呟いていた。
唯「220の約数って、1、2、4、5、10、11、20、22、44、55、110。ぜんぶ足したら284だよね。
284の約数は1、2、4、71、142――ぜんぶ足したら、220。
220の中には284がいて、284の中には220がいるんだ」
すらすらと、まるで何かの呪文のように約数が唯先輩の口から紡がれていた。
梓「――――――……」
初めてレピュニット数について話した時にも驚いたが、今回のことで一つ確信した。
数字と向かい合うとき、唯先輩には躊躇いがないのだ。
真摯で、心配りに溢れ、親愛の情に富んだ姿勢でもって向き合うその姿は、
気心の知れた友人とじゃれ合っているかのようであり、初めての客人を諸手を上げて歓迎しているようでもあった。
数学的なセンスの煌きを見せながら、先輩は腕の力を一層強めて言う。
唯「怖かったのは私もなんだよ、和ちゃん。
こんな私と、和ちゃんはいっしょにいてくれるのかなって、一番最初に思ったんだよ?
きっと、これまでも、これからも。私が思い浮かべるのは、和ちゃんのことだと思う。
ばかになっちゃった私なんか嫌になって、愛想尽かしちゃうんじゃないかなって」
友愛数は、約数という強固な繋がりで共に支えあって存在している。
それは『数字』という概念がこの世に誕生した瞬間から決まっていることで、
これから何があっても変わることのない絶対的なものだ。
220は284に、284は220に寄り添うようにして、膨大に広がる数字という砂漠の中で抱きしめあっている。
そう、まるで――あの二人のように。
唯「でもね、和ちゃん。和ちゃんはいつだって、
ずっと、わたしの、大切な、幼なじみなん、だよ……?」
感極まって、唯先輩の瞳から涙が流れた。
言葉を詰まらせながらも、一つ一つの言葉を想いで包みながら伝えている。
和「唯――」
唯「ごめんね、和ちゃん。和ちゃんが苦しんでること、わからなくて。ごめんねぇ――」
ぐじゅ、と鼻をすする水音が聞こえた。
私だけそちらを見ると、扉の前で弁慶のように仁王立ちしていた律先輩が貰い泣いている。
視線は二人から逸らされることなく、真っ直ぐとそちらを見ていて。
作戦は、大成功といえるだろう。
涙でぼやける自分の視界の中、私は小さく微笑んでいた。
和「違う、それっ、違うわよ、謝る、のは、私のほう、なのっにぃ……」
力強く首を振って、和先輩が――やっと、唯先輩の体に腕を回した。
もう何があっても放さないと体言する頼もしさで、先輩を抱きしめ返している。
放課後のオレンジ色の中、宙を舞う埃が夕日を浴びてキラキラと輝いていて。
まるで、黄金色の宇宙を漂っているみたいだった。
―――その日以来、唯先輩のシールがまた一つ増えた。
「U&I和(ゆーあいかず)。たいせつなしんゆう」。
最終更新:2011年07月19日 22:44