#05 社交数の夕暮れ/〔15472〕

 それから、何ヶ月かの時が過ぎ、私はいくつもの放課後を先輩たちと過ごした。
私と唯先輩は、お菓子とお茶の数だけ出会いを積み上げて、崩して、また積み上げる。

唯「えへへぇ、ねね、りっちゃんりっちゃん。数学って、面白いねぇ」

 唯先輩について知れたいくつもの事柄の中で、一番感動したのは彼女の数学的センスだった。
 レピュニット数や、素因数分解、素数について話す時、彼女はいつも優秀な生徒で、
私が隠し持っている答えを一足先に探し当てては楽しげに笑った。
 時に意地の悪い難問に行く手を阻まれても、頂へたどり着こうとする懸命な姿勢だけは何があっても崩さなかった。
そのひた向きさたるや、横から見ている他の先輩方も舌を巻くほどなのだ。

律「うぇー、部活の時にまで勉強のこと持ち出してくるなよ唯ぃー」
梓「いつからこの部って紅茶飲んでのんびりするです部になったんですか」
澪「ほんとにな……」

 苦虫を噛み潰したような顔で舌をべーっと出す律先輩、私に同調する呆れ気味の澪先輩。
 肩を寄せ合うようにして出来た机の島の上にルーズリーフを広げながら、
唯先輩は色ペンを走らせる手を止めることなく、数式を求めていた。

律「実生活になんの特があるっていうんだか……」

 律先輩は学生の定型句を漏らしながら、それでも目だけは優しく唯先輩の姿を追っている。

梓「いいえ、律先輩。それは違います。
 何の役にも経たないからこそ、数学の秩序は美しいんですよ」

 私はコホン、と咳払いして、律先輩を見据えた。

 極めて穏やかに日々は流れていた。
夕日に照らされた窓が床に移す黄金柱が、その象徴のようにも思えた。


梓「素数の性質が明らかになったとしても、生活が便利になる訳でも、儲かるわけでもありません。
 だけど、絶対的な法則って、確かにここにあるじゃないですか」

 唯先輩が手で押さえているルーズリーフを指さして言う。
諭された彼女はまだ不満顔だったけれど、口元には隠し切れないニヤけが浮かんでいた。

澪「物質にも自然現象にも左右されない、永遠の真実、か――」

 じっと、唯先輩の手を見ていた澪先輩が呟きを落とす。
 私はゆったりと頷いた。
それは目には見えないものであるけれど、変わることのない、絶対的なものだ。

紬「そういえば、数学って音楽みたいな部分があると思わない?
 ほら、先生がよく言ってる、まずは問題を音読してみましょう、って、とっても音楽らしいと思うの」
唯「ほえ?」

 両手を胸元であわせて、ムギ先輩がニコニコ笑いながら皆へ質問した。

 唯先輩は顔を上げて、カバンを漁りはじめたムギ先輩を見て小首を傾げる。
子リスのような可愛らしい仕草だった。
 ややあって、ムギ先輩はお目当てのものを見つけたようだ。
深い紺色で、パステルカラーの三角錐と立方体が表紙の薄い教科書を取り出すと、机に広げる。

紬「たとえばね――この文章問題。
 音読して、『文章のリズム』を掴むと問題全体が見渡せるし、
 落とし穴が隠れていそうな場所の見当もつくようになるの」

 律先輩が、ムギ先輩の方へ身を乗り出して覗き込む。

律「えーっと……袋に虫くいリンゴとふつーのリンゴが合計10個入っていて、
 袋から1つずつリンゴを取り出します。6個目が虫くいリンゴのとき、
 9個目が普通のリンゴである確立を求めなさい。ただし、虫くいの確率は1/3とする――、ねぇ。
 で、このりんごってふじりんご? それとも王林?」
澪「問題はそこじゃないだろ」

 冗談めかして最後を付け加えた彼女の頭へ、ゴチンと澪先輩の拳骨が落ちる。
頭を抱え、大袈裟に机へ突っ伏した律先輩。
 それを見てムギ先輩がクスクスと笑い、
唯先輩と言えば、真剣な表情のまま、それよりも産地はどこかな、なんて相談を持ちかけていた。
 ――夫婦漫才は放って置こう。

梓「ん……あながち間違いでもないと思いますよ、ムギ先輩。
 音楽も、数学と同じで、れっきとした学問だったんです」
唯「ふぇ――音楽が学問って、どういうこと?」

 先輩は机に前のめりになりながら聞いてくれている。

 掬い上げたところで溢れてしまう記憶の砂を、
それでも丁寧に扱おうという先輩の優しさはいつも失われることはなかった。

梓「例えば、ピタゴラス音階といって――」

 ムギ先輩も頷いてくれる。
 大抵、私の話は退屈な話と右から左に流されるのに、
ここでは私はまるで大学の教授になったかのように皆が耳を傾けてくれるのだ。

 ――繰り返されるそんな毎日は、いつだって蜂蜜色をしていた。 
 演奏するのも、みんなで雑談したりお茶を飲んだりするのも、やっぱり少しどうかとは思うけど、楽しい。

 ただ、気がかりなことといえば、自己紹介の定型句を述べる時折、
ちくりとした痛みが胸を刺し始めていることだった。
 楽しい放課後を過ごした翌日、音楽室をドアを開き、迎え入れてくれる無垢な瞳を見る度、
唯先輩の頭の中にある75分が、時計よりも正確で、冷酷なことを教えられた。

『私は、あの子の隣にいる資格なんて、』
『アイツは、覚えられないんだよ……!――』

 そんな時ほど、泣き出しそうな顔で言葉を吐き出す二人の姿が思い浮かんだ。
彼女たちを侵していた痛みが、私の心にも影を落とし始めたのかどうかは解らない。
それでも、振り切ることの出来ない何かが私を追っているのは確かだった。

 そんな時、私たちにとって1つの転機が訪れる。
きっかけは――数学の時間、粉だらけになった手でチョークを弄びながら、
数学の先生が言ったことだった。

「さて、次の題に進む前に、今日はちょっと数字の話をしようか」

 先生は前置きしてから、小難しい理論と公式で固められた教本を教壇へ伏せた。
目を細め、目尻を下げ、まるで奥さんとのロマンスを語るような
うっとりした顔つきで私たちを見渡すと、喋り始める。

「社交数というものがある。
 これはずっと前に説明した友愛数の発展になる、3つ以上の組み合わせを言う。
 Aの約数の和がBになり、Bの約数の和がCになって、最終的にはAへと戻ってくるものだ」

 たくさんの約数とチェーンのように繋がっているから、社交数。
 友愛数や完全数に初めて触れた時もそう思ったけれど、
普段使っている言葉でも、数学と結びつくと途端にドラマチックになるのはどうしてだろう。
 まるでその言葉が、その数字を表すために予め用意されていた物のように感じてしまう。

「社交数は、大きいものになると5つの組み合わせもあるんだぞ」

 では続きを、と顔つきを教師のそれにして、教科書を手に取る先生。

『社交数』『結びつき』『5つ』。
 閃光ようにその単語が目の前で瞬いて、

梓「――――それだ!」

 授業中にもかかわらず、私は思わず立ち上がっていた。
 その瞬間、教室中にあった全ての視線が私に刺さった。やってしまった、と気づいたのは
ギギギ、と錆付いたブリキみたいな動作で先生の方を見返した時。すでに遅し。

「……中野? どうした、何か閃いたか?」
梓「…………あ、い、いえ、その……な、なんでもありません……」

 それはもう、酷い恥をかいてしまった。


      /

唯「えーと、」
梓「新入部員の中野梓です!」

 いつもの挨拶を早口で済まし、カバンをソファーに放り投げる勢いで置いて、私は席へついた。
揃っていた先輩方は、何事かと目を丸くしている。

律「おお? なんだ、やけに元気だな。何かあったのか?」
梓「はいっ! あの、合言葉を決めませんか!?」

 いち早く復帰した律先輩が笑顔で問うて来て、私はシュビッ、と挙手しながら言葉を返す。
その動作に澪先輩とムギ先輩はさらに驚いたみたいで、あんぐりと口を開けていた。


唯・律・澪・紬「「「「合言葉?」」」」

 異口同音だった。
 顔を気恥ずかしさで赤らめながら、私はそれでも力強く頷く。
そして、例の数字と、その関係についての説明を始める。

澪「――へぇ。社交数ねぇ」
梓「はい! それに、五つの組み合わせがあるらしくて」

 一通りそれが終ると、澪先輩が興味深そうに呟きを漏らした。
それにはっきりとした口調で返して、私は唯先輩を盗み見る。

唯「んーーと……」

 先輩は、腕を組みながら黙考していた。……一秒、二秒。
皺の寄っていた眉間が、ぱあっと晴れる。

唯「……あっ。12496、――14228、15472――14536、で――14264、かな」

 暗算している訳ではなく、あたりにフワフワと浮かぶ数字のイメージを捕らえて、
直感で答えていることがこれまでの経験から容易に想像できた。
 ほう、と感心しきりのため息をムギ先輩が吐いていた。

梓「正解です――」

 目に見えない世界が、目に見える世界を支えていく実感があった。
運命的な数字のチェーンが、しっかりと私たちの関係性に結びついていく。

律「私は14228、かな」
澪「――14536」

 律先輩と澪先輩が、壊れ物を扱うような慎重な口ぶりで言う。

紬「ふふっ……私は12496かしら」
梓「15472、です」

 ムギ先輩が、宝物をぎゅうっと抱きしめるように笑いながら言う。
私は追従して、まだ赤みが引かない顔を伏せた。
 霧に満ちた暗闇を貫く一筋の光が、私たちを真っ直ぐ照らしていた。
暖かく、揺ぎ無く、安らぎすら芽生えるそれに当てられた心が、その時初めて全容を見せた。

梓「あ――」

 それまで翳っていた部分が晴れて、私に生まれていた感情が一体何なのかが解る。
これまでの行動に関しての納得と、これからの出来事に関しての想いが溢れてきて、震える声が出た。
 そんなこと露とも知らぬ唯先輩が、ニコニコと笑いながら私を見やる。

唯「14264っ! よろしくね、梓ちゃん!」

 差し出された手に指先を絡めて、はいっ、と元気よく返事する。
ささめくような笑い声を皆で交わして、その後何度も点呼した。


――そうだ。私、唯先輩のことが、好きなんだ――

 胸に去来するこの暖かい感覚を幸福と呼ぶのだと思った。
そう思えることがなんとも誇らしく、自身に割り当てられた数字以上に嬉しかった。

 そして、唯先輩の制服に張られたシールがまた増える。
それには「みんなの合言葉 社交数」と、丸っこい文字で書かれていた――




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最終更新:2011年07月19日 22:47