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#06 悪魔の定理/〔14264〕

 放課後に行われる自己紹介の挨拶に、一つの数字が付け加えられるようになった。
 私が一番最後に部室に顔を出した時、音頭を取るのは決まって律先輩で、
そんな場合ほど、彼女は溌剌と笑いながら声を張り上げる。

律「よぉしー! 点呼をとるぞー! 14228っ!」
 きょとんとしている唯先輩へ、真向かいのムギ先輩はたおやかに笑いかけていた。
 時間は穏やかで、緩やかで。
楽しげな空気が部室を目一杯満たしていて、私たちが数字の上で仲良く手と手を取り合っている事を実感できた。

紬「は~い、12496~」
 律先輩に倣って、ムギ先輩が挙手しながら言う。
梓「15472、中野梓です」
 胸を張りながら、私も答える。
澪「はあ……14536」
 穏やかに澪先輩が言葉を紡ぐ。
 それから皆で、こみ上げてくるおかしみを堪えながら、笑って唯先輩を見るのだ。

唯「ふぇ? えーっと……なら私が14264、かな。
 ――あ、そっか新入部員の子、だね!」


 唯先輩は首を小さく傾げて、いつだって正解を難なく探し当てる。
それから、ガタン、と勢い良く席を立ち私へ歩み寄っては、体全体で歓迎と親愛の表現をしてくれた。

 それこそルーティンワークのように行われている行事だったけれど、
気恥ずかしさだけはいつまで立っても消えることが無くて、赤面してしまう。
 彼女は私をその腕へ迎え入れる時、『先輩』という気概でもって、正当な庇護者足らんとしていた。
暖かなそれに包まれているだけで、私は無上の幸福感や安心感を得ることが出来たのだ。

梓「……にゃー」

 唯先輩にしか聞こえないほどの小さな声量で漏れた呟きに、

唯「あはは、梓ちゃん、何だか猫みたいだねぇ。梓、で猫だから――あずにゃんだね」

 腕の力をより一層強めて先輩が返す。

『あだ名は、『あずにゃん』で決定だね!』

 ――何があっても変わることのない先輩の天真爛漫さ、
優しさに触れるたび、私は唯先輩の事が好きになっていった。

 それからまたしばらくして、文化祭の時期が近づいてきた。
 気温こそまだ夏の暑さが名残惜しむように尾を引いているけれど、
気がつけば蝉の声も遠くなり、空からは少しづつ露が晴れて、高く澄んだ秋の色が日に日に濃くなっていく9月初頭。

律「何やる? って、ま、とーぜんライブだよなぁ」
澪「当たり前だろ。軽音部なんだからな、私たちは」

 律先輩と澪先輩がそんな話を始める。
私にとっては初めての文化祭になり、他の先輩方は二回目の。
 ポッキーに手を伸ばしつつ、そんなことを考えていると、脳裏に思い浮かんだ言葉が意図せずぽろりと漏れていた。

梓「――――新曲」

 それは小さな独言だったけれど、隣に座っていた律先輩は拾ってしまった。
片方の眉を上げながら、こちらを見やった。

律「……ん? おぉ、いい事いうなぁ、梓。新曲! 新曲、ね。
 よし! 澪、いっちょ頼んだぞー!」

 律先輩はニコニコ笑いながら、殊更明るい声で澪先輩へバトンを渡す。
だけれど、肝心の彼女は浮かない顔つきだった。

澪「え――でも……」

 澪先輩は、ちらりと、唯先輩の方を盗み見る。
それきり気まずそうに顔を伏せて、烏の濡れ羽色をした長い黒髪で瞳を隠してしまう。 

梓「あ……」

 今になって自身の迂闊さを呪う気持ちがこみ上げてきていた。
社交数の上に関係性が築けて、浮かれすぎていたのかも知れなかった。

 そうだ、唯先輩は、新しい記憶を忘れてしまう。
『新曲』を覚えることなんて、出来るはずがないのだ――

 沈黙が下りる。
今までの曲をやりましょうよ、と取り繕うような語を継ごうとした口は、

唯「……やりたい。やろうよ! 新曲!」

 屈託のない笑顔で笑う唯先輩に止められた。
 一瞬、巡廻があった。やりたい気持ちと、大丈夫だって思う気持ちと、恐怖。
駆け引きのように皆で顔を見合わせて、やはり何を言えばいいのか解らず黙る。 
 ――そんな中で、口を開いたのはいつものように部長の律先輩だった。

律「よし! じゃあ新曲だ! アンコールの後に一曲! 頼んだぞ、澪!」

 意気地の無かった気持ちが、元気の良いその発言に勢い良く背中を叩かれ、一歩進む。
一握の期待が、雪ダルマ式に膨らんでいく。なんだかんだで、私たちは『けいおん部』なのだ。

澪「……別に。決まったなら、書くけど」

 でも、いや、だからこそ、なのか。澪先輩の様子が、その時少しだけ心の淵に引っかかっていた。

      /

 澪先輩が新曲の歌詞を持参して来たのは、意外にもその翌日のことだった。
部室には、唯先輩以外の全員がもう揃っていて、お馴染みのティーセットも机の上に並んでいる。

紬「……え? 嘘、澪ちゃん、もう書けたの?」

 私には作詞の経験がないから、その大変さというのはよく解らないのだけれど、
何だか後ろ向きだった昨日の返答や、澪先輩からルーズリーフを渡された
編曲担当のムギ先輩が心底驚いた顔をしているのを鑑みれば、そのスピードがどれ程の物か察することは出来た。
 その様子を訝しげに見ていたのは律先輩で、からかう様な笑いを顔に貼り付けて冗談めかして言った。

律「んんー……適当に作ったんじゃないだろうな?」
澪「まさか」

 澪先輩らしくない、真っ直ぐ視線と、力強い言葉での否定。
面を食らったのはその場にいた全員だった。

澪「これは、私たちの曲だろ。だったらそんな適当なこと、出来るもんか」

 怒気すら感じる迫力を背負って、澪先輩は私たちに詰め寄る。
笑い飛ばせない気負い。ルーズリーフに込められた気持ちの総量を言い表しているかのようなそれだった。
 ムギ先輩は、無言で歌詞へと視線を落とす。

 張り詰めた緊張感が沈黙となって部室を包囲しようとしたその時、

唯「出頭してまいりました、平沢唯です!」
和「お邪魔します」

 場違いに明るい声が響いた。
扉が開いて、見慣れた二人が入ってくる。唯先輩と、和先輩だった。
 じゅ、重役出勤だなぁ! と取り繕うような律先輩の合いの手が入る。

唯「えへへー。和ちゃんとお話してたんだよぉ」
和「ごめんなさいね。でもコレ、ちゃんと届けたから」
唯「荷物扱い!?」

 ひどいよ、と涙目になりながら抗議する唯先輩と、それをどこ吹く風と受け流す和先輩。
コントのようなやり取りで、遠慮なんて欠片もないものだったけれど。
 傍から見ていて、安心感すら生まれてくる微笑ましい光景だった。
二人の友愛の契りは、何があっても途切れることはない。そう思えてくる。

『U&I和(ゆーあいかず)。たいせつなしんゆう』。
 そのシールが書かれた日から、二人の仲は気がつけば以前よりもずっと強固なものになっていた。
雨降って地、固まるということだろうか。そうぼんやり考えていると、唯先輩の瞳が私を捉えた。
 ニコリ、と瞳が弓なりにしなって――

梓「うなー!」

 タックルの勢いで抱きついてきた。うり坊も免許皆伝せずには居れない突進である。
それにもみくちゃにされながら、私は間抜けな叫び声を上げる。
 やれやれ、と漏らされたため息が、先ほどまでの緊張が霧散されて行くのを告げていた。

梓「……にゃー」

 やっぱり唯先輩にしか聞こえないくらいの声量。
 安心感や幸福感でゆるやかに溶かされていく心へ、
漠然とした不安がしこりのように残っているのを、私は感じていた。


 とにかく、それからは毎日、新曲の練習をすることになった。

 意外にも、他の先輩方は真面目に取り組んでいて、お茶をする時間は、少しづつだけれど確実に減っていた。
それを寂しく思う気持ちはある。それでも、前を向いて練習を続けた。
 やる気や邁進する気持ちで心は一杯で、新曲、というのがモチベーションをずっと上げ続けていた。

 澪先輩が持ってきた歌詞には『NO,Thank You!』という題名がつけられて、
メインボーカルは諸般の理由から澪先輩に決定した。
 ちなみに編曲のムギ先輩は、あの日の澪先輩に応えるようにして、
その翌日、楽譜を完成させて部室へ持ってきた。
 目の下にクマを作りながらぽわぽわ笑うムギ先輩を、流石に部長は気遣っていたけれど、
瞳は爛々と輝いていて、すぐにでも演奏したいとうずうずしていたのが印象深かった。

 正統派ロックというべきかな、その曲はエネルギーで満ちていて――。
『私たちの曲だ』と愚直なまでの姿勢で応えた澪先輩を裏切らないものだった。
 凛とした歌声が、歌詞を、そこに込められた気持ちをなぞる度、
ギターをかき鳴らしながら私はたまらない気持ちになった。

 多忙な中にあって、部室はいつでも笑顔で溢れていた。
これまで感じたことのなかった『進んでいく感覚』が私の四肢を包んで、力を与えてくれているかのようだった。
 ……でも、それに反比例するように、澪先輩は、日に日に不機嫌な様子になっていった。
 細やかなミスや、リズムが狂って演奏が止まる度、
メッキが雨風に晒されて剥げて行くような按配で、それは表に出るようになった。

 そして、ある日。

澪「っ――――またっ! 同じところばっかりで!」

 唯先輩の失敗で演奏が止まった時に、痛みに堪えかねたように首を振って、澪先輩が怒鳴った。
 全ての音が止んで、間延びしたベースの音だけがアンプに残る。
びくり、と全員が肩を揺らして、矢面に立たされた唯先輩の瞳が揺らいだ。

唯「…………えっと、ごめんね、澪ちゃ、」

 愛用のギターであるレスポール・スタンダード(ギー太だよ、って何回紹介されたっけ)を
ギタースタンドへと一旦立てて、澪先輩へ手を伸ばす。
 ギリッ、と、神経質な歯軋りの音が微かに耳を掠った。

澪「謝らなくていいっ、いつもいつも同じところでミスして!
 なんのための練習だ、ふざけるなよ!」

 乾いた音は、伸ばされた唯先輩の手を振り払ったから。
ムギ先輩が息を呑み、律先輩はドラムから立ち上がった。

 静止する前に、澪先輩は爆弾を落とす。
気持ちが総量を超えてしまった後のことは、ダムの決壊と似ていた。


澪「いい加減に『覚えて』よ――――!!!!」


 それは、それだけは、この場で決して言ってはいけない言葉だった。
どんな場面でも、どんな時でも、不可侵条約のようにその一線だけは良心が止めていたのに。
 澪先輩はハッとした表情で唯先輩を見た。
やってしまった、とは、本人が一番よく解っているだろう。

唯「っ、ごめん、ごめんね、わたしのせいで――!」
紬「唯ちゃんっ!?」

 唯先輩は泣きそうな顔で、ギー太だけを抱えて部室を飛び出した。
ムギ先輩の呼び止める声も聞こえていない。それこそ弾丸のような速さだった。

律「澪、お前――!」

 乱暴な音で部室のドアが閉められて、律先輩は掴みかかる勢いで詰め寄る。
手にしていたものがボロボロと崩れ落ちていくのを感じながら、
それでも私は、唯先輩を追いかけずにはいられなかった。




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最終更新:2011年07月19日 22:50