#07 75と48の慕情 婚約数について/〔14536〕

 走る。
 走って、走って走って走って、唯先輩の姿を探す。
 校舎を出て、桜並木を横切ると、その葉はすでに落ち始めていた。
あの時踏みしめた薄紅色のビロードは、こげ茶色の絨毯になっている。
 肺へなだれ込んでくるのは秋口の底冷えする空気で、私をとりまく何もかもが、爛漫だった春との違いを克明に表していた。
こんな当たり前の時の流れから取り残されて、深く傷ついている人が、必ずどこかにいる。でも、どこに?

梓「――――そうだ、唯先輩の家――――」

 息切れ切れになりながら、呟きを落とす。もう直感だった。
 当たり前の時の流れから取り残されて、深く傷ついている人が、どこかにいる。
 私の、大好きな人が、どこかで悲しんでいる。

 そう思うだけでこの体は見る見る内に力を取り戻して、両足はいっそう強く大地を蹴っていた。


 平沢家の呼び鈴を鳴らすと、憂さんが姿を現した。
ドアノブに手をかけていた彼女は、膝に手をついて息を整える私を見るなり固まった。

憂「中野さん……? っ、お姉ちゃんになにかあったの!?
 帰ってきてすぐ部屋に篭っちゃって、私、なにがなんだか解らなくて――」
梓「ごめんなさい。お邪魔します!」

 憂さんは混乱した様子で、でもいまはそれを気遣っている余裕も無い。
一言断ってから玄関に押し入り、靴をほっぽり出して階段を駆け上がる。

憂「中野さん!?」
梓「大丈夫っ、だいじょうぶだからっ!」

悲鳴のような平沢さんの呼び声に、そうとだけ返した。

 ――――唯先輩の部屋の前まで来た。
扉は硬く閉ざされていて、全てを拒絶しているような冷たさを持っていた。
 中から聞こえるのは、ギターの音と、鼻をすする音。それに時折、うめく様な嗚咽。
まるで、親においていかれた子どもみたいな、懸命な演奏だった。
転んでも、転んでも、立ち上がって、もう姿も見えない親の後を追うみたいな、悲痛な。

 息を整えて、

梓「……唯、先輩」

 呼びかけるように。

梓「唯先輩。一緒に練習しましょう。部室に戻って、みんなで」

 それでもすすり泣く声は止まらなくて、ギターの演奏も、とまらなくて。
その全てが私の胸を詰まらせていた。
 唯先輩のギターは、そんなギターじゃなかったはずです
 泣かないでください、どうか、泣かないでください。

 言いたいことは山ほどあった。
けれども、いくらそうしようとしても、言葉が喉へ上がってこようとしない。

唯「……ごめん。ごめんね。梓ちゃん。私、忘れちゃうから。
 どれだけ練習しても、75分後には忘れちゃう。
 みんっ、な、嫌いになるよ。こんな、わたしの……ごめん。ごめんねぇっ……」

 扉の向こうで、唯先輩が泣いている。
扉にもたれかかるように座り込んで、それでもギターだけは手放さないで。
私は少しでもそれに寄り添えるようにと、振り返って、先輩と背中を合わせるようにして座り込んだ。

梓「嫌いになんてなりません! 唯先輩が忘れるって言うなら、何回だって言います。
 私は、唯先輩の事が。ずっと、ずっと。大好きです」

 運動のせいだけでは決してなく、心音が酷く高鳴る。
扉一枚隔てた向うから、息を呑む音が聞こえてきた。

唯「……わたしはっ。私の、記憶は、75分しか、もたないんだよ。
 たった、75ぽっちの女の子なんだよ……っ?」

 涙声が響き、かっと顔が熱くなった。もうここまでくると意地だった。
私は、自分で驚くくらいの大声で宣言する。

梓「――そんなの、知りません! だから、言ったじゃないですか!
 忘れるって言うなら何度でも、何度でも言いますっ
 私が、唯先輩が75だっていうのなら、私は、唯先輩の48に、なりますから――!」

 75と、48。
唯先輩の記憶の総量と、私の受験番号。

唯「……75と48、って――」

 扉向うから聞こえてくる唯先輩の声は震えていて。

 コツン、と扉に頭をつけて、瞳を閉じた。
瞼で蓋をしないと、あふれ出してしまいそうだったから。
通じたことの喜び。唯先輩のことが大好きだって気持ち。やっと笑ってくれた、って、感慨。

梓「――――婚約数、っていうんですよ」
唯「あ、はは。なんだか、ロマンチックだねぇ」

 心臓の音は落ち着くどころか激しく主張を続けていて。

 ――――1回。ギターの音が、鳴り響く。
 それは、聞き間違えなんて絶対無い。私にとって特別な、始まりの音。
囁くような声量で、唯先輩が問うてくる。

唯「……今の音。なにか分かるかな」
梓「D、♯の7-5(セブンスフラットファイブス)、です」
唯「わあ……すごいねぇ。聴いただけで分かるんだ。
 ……そう。第1フレットの第『4』弦と、第2フレットの第『3』弦と第『2』弦と、第『3』フレットの第1弦。
 3と、2と、3を足したら、8。
 ――『75』の中に『48』が出来たね、あずにゃん」

 どうかな、と先輩が言う。
恋愛映画から借りてきたような口調に、こらえきれずに笑ってしまった。
 向こうで気配が動くのを感じて、私は立ち上がる。扉ともう一度真正面から向かい合った。

梓「いくらなんでも無理矢理すぎますよ、唯先輩」
唯「……そうかな?」
梓「そうですよ」
唯「えへへ。あずにゃんには、敵わないなぁ……」

 部屋のドアが開いて――暗がりの中から、涙で顔がぐしゃぐしゃになった唯先輩が出てきた。
気が付けば、私は笑っていた。唯先輩も笑っていた。

 ――本当に。どうしようもないくらい、私たちは、ロマンチストだ――

 衝動的に抱きしめた唯先輩の体は温かかった。
頬にあたる柔らかい髪がくすぐったくて身をよじると、腕の中で笑い声が聞こえる。
 ぺたんと座り込んだフローリングの床は冷たく冴えていて、膝から温度を奪っていく。
それはあたかも、零れ落ちる準備を今も刻々と続けている唯先輩の脳の様子のようだった。
怖くなって、私は腕の力を強める。途端、わっぷ、と苦しそうに先輩が呻いた。

梓「あっ、すみません……っ」

 力を弱めて体を離す。

唯「あずにゃん、」

 すると、今度は先輩の方から、私に抱きついてきた。
気分が落ち着いていくのを感じながら、私は小さく頷いた。

唯「例え持てる記憶が75分でも、1分でも、
 あずにゃんがあずにゃんなら、私、あずにゃんのこと好きになると思うんだ」

 照れの無い言葉。愛の告白に相応しいまっすぐな言葉たち。
 唯先輩は、真剣に、真摯に、神妙に。言葉を重ねていく。
額と額がぶつかり合って、先輩の吐息が顎をやさしく撫でた。

唯「好きだよ、あずにゃん」

 唯先輩はそういって、フンス、と胸を張った。
いやいや、そこでドヤ顔しちゃうとポイント減りますよ、と忠告してあげてから私も笑う。

梓「いちたすいちより、簡単ですね」
唯「簡単だねぇ」

 初歩的な一次方程式。
思い返せば、私たちを支えてくれたのはいつだって数学だったような気がする。
 唯先輩に惹かれるきっかけを作ってくれた『友愛数』。けいおん部を繋いでくれた『社交数』。
紅茶とお菓子と一緒になって放課後を彩った『レピュニット数』や『ピタゴラス音階』。
 そして――始まりの音と共に私たちを取り持ってくれた、『婚約数』。

 とても幸せな気持ちだった。

この人を抱きしめる以上に、幸福なことはこの世に存在しない。
 1秒ごとに更新されていく、唯先輩を好きだって気持ち。
このままこれを待て余していたら、私はどうにかなってしまうだろう。

 人を好きになって、こんなにも胸が苦しくなるなんて知らなかった。
 恋をする気持ちが素晴らしい物だなんて、一体誰が言い始めたのか。
ううん、でも、授業じゃこんなこと、教えてくれなかった。
楽しいことばかりだって、嬉しいことばかりだって思っていた。

 好きで、その人のことが好き過ぎて、涙が出そうになるなんて考えもしなかった。


 ね、唯先輩――?


 視線が示し合わせたみたいに重なって、私たちの間に沈黙が降りた。
唇は、気がついたら――なんて言葉を前置詞にして、重なっていた。

梓「んっ……」

 柔らかな感触と、リップクリームのわずかな粘り気が唇に触れる。
 押し付けるだけの稚拙なキス。
唇の温かさと一緒に、胸に広がる幸福感と達成感。

 好きです。大好きです。
 唯先輩が、大好きです。

 時間が止まれはいいのに、と、
それがどれだけ残酷な願いかと知りながら、それでも願ってしまった。
ちゅ、と、可愛らしい音と一緒に唇が離れ、

唯「え、えへ。 えへへへへ。キス――しちゃったねぇ」

 唯先輩がはにかんで笑う。
腕の中のぬくもりが、ほんの少し温度を上げた。

梓「はい、キス、しちゃいましたね」

 睦言を交わして、私たちはもう一度触れるだけのキスをした。
 1秒、2秒。唯先輩が僅かに身を捩ったのを合図に、唇と上体を離すと――


 きょとん、と、新品のビー玉みたいにキラキラした二つの瞳が、私を見ていた。


梓「――――――…………あ」

 デジャビュ。
チャンネルをまわす瞬間に挟まる砂嵐みたいに、『あの日』の光景が脳裏をよぎる。


『ほぇ……? あのぅ、ごめんなさい。お名前、聞いてもいいかな』

 思わず瞳を閉じた。喉が引き攣りを起こして、目頭が熱くなる。
悲鳴をあげなかったのは、きっと、ついさっきのキスのおかげだった。
 大丈夫。いちたすいちはに、のように、簡単なことだ。
抱いた想いがある。伝えられた想いがある。キスの熱さが、まだ唇に残っている。

 だから――

 瞼を押し上げると、まだ上手く状況を飲み込めていない唯先輩の姿があった。
せわしなく動き回る視線は、私と空中を行ったり来たりしている。
先輩が何か言葉を発する前に、私は口を開く。

梓「はじめまして、唯先輩――」

 かすれた声だった。かまうもんかと続ける。

   梓「大好き、です」

 涙交じりの愛の告白。
 瞬間、確証に似た感覚が胸元から競りあがってくる。
それは決して絶望なんかではなく――前向きで、希望に満ち溢れた気持ちだった。

 私も、この先何度だって、唯先輩に恋をする――

      /

 梓の姿がなくなった音楽室には、気まずい沈黙が蚊帳のように降りていた。
アンプも、ギターも、キーボードも全部中途半端に出しっぱなしで、投げ出されていて。
ドラムの傍らに立ちながら、雑然とした風景を眺めて、まるで自分の心境のようだな、と律は心中で苦く笑った。

律「…………」

 脳裏に、これまで会ったいくつもの出来事が過ぎる。
けいおん部設立。部活動。寄り道。授業中の戯れ。文化祭。夏の合宿。
そして――あの、忌まわしい事故。少しだけ変わってしまった仲間。
それ以来、唯と接するたびに表情へ影を落とすようになった親友と自分。
優しさと思いやりをもってずっと支えていた友人。
新入生歓迎ライブ。初めての後輩。――向き合えと、叱咤してくれたその姿。

 いやぁ、田井中さんまいっちゃったね。
そろそろ腹をくくらなきゃいけないらしーぜ?

律「…………なぁ、澪」

 ベースを担いだまま、表情を後悔で凍りつかせている親友の名を呼んだ。
自分が出せ得る限りの優しい声色と表情で、一歩一歩歩み寄っていく。
まるで、寒さで震えている人へ柔らかい毛布をかけてやる様にして。

澪「…………」

 返答はない。
 今頃、心を世紀末的な後悔に切り刻まれているのだろう。

律「お前が……いや、私たちがやりたかった『音楽』ってさ。
 こんな、辛い顔するようなもんじゃなかったよね。
 みんなで、笑って、演奏して。それだけで、楽しかったじゃないか」

 澪の肩が小さく触れた。よし、とうなづいて律は続ける。
投げかける言葉は、今ですらグズグス悩み続ける律自身への言葉でもあったし、
あの可愛くも堅物の後輩が、真正面から、ぶつかって来てくれたから得ることの出来た答えだった。

律「唯が忘れるっていうんなら、私たちが覚えてやればいいんだ。
 たとえ忘れても、覚えて無くても、それは確かにあったことで――
 そこで生まれた感情まで、なかったことにしちゃいけないんじゃないか?
 演奏したい、つー『気持ち』を大切にしたからこそ、私たちの音楽が出来たんだろ。
 それを忘れなければ――ううん、それだけで、きっと、あの楽しい『音楽』は帰ってくるよ。
 な、澪」

 な、私。

 律は心の中だけでそう付け足して、澪に歩みよっていく。


 紬は唯と放課後ティータイムを思って見守ることにした。
律は唯を思って先に進むことができなかった。
澪は先に進めなくなった放課後ティータイムを思っていた。
 三者三様違う形ながら――、大切にしたい場所は一緒だった。

澪「……………………私、は」

律「唯が戻ってきたら、ゴメンって言って、また練習しよう。
  そういうもんだろ。――友達、って」
澪「わた、し…………ぅ、く、ああああああああ――――っ!!」

 堪え切れずに涙があふれていた。頬に幾筋もの涙が伝い、跡を残していく。
膝元から力が抜けるようにして、澪はその場にへたり込んだ。

 私は、『友達』と、一緒に楽しく、音楽がやりたかっただけだ――

 嗚咽交じりに、細切れになりながらも、その言葉をしっかりと口にした。
律は、なにかと不器用な親友の頭を撫でながら優しく微笑む。

 おかえり、澪。

 祝福の鐘の音のように、グラウンドを走る運動部の掛け声が聞こえてきた。
それは再開の音であり、再生の音であり、これから全てを始めるための号令だった。


      /

律・澪「「ほんっっっっっっとうに、ごめん!!!」」

 翌日の部活のこと。
唯先輩が来るなり、扉近くで待ち構えていた澪先輩と律先輩が深々と頭を下げた。
 ドアノブに手をかけたまま、何が何だか飲み込めず混乱する当人へ、
ムギ先輩が事の顛末を話すまでひと悶着あったのは言うまでも無い。
 猪突猛進な所まで友人同士でシンクロしなくてもいいだろうに、と遠巻きに見ながら思ったものである。

 ムギ先輩から昨日あったことについて説明を聞き終えた唯先輩は、
ブレザーの内側、右胸に張られた一枚のシールを指して言った。

唯「りっちゃんは14228、澪ちゃんは14536。私は14264だよ……ね?」

 その笑顔はとても晴れやかで、慈愛に満ちていて。
なら、何があっても大丈夫だと、唯先輩は最後にくけ加えたのだった。

律「っ、は、ははっ……何だよぉ、それ」
澪「……唯は変わらないな」

 泣き笑いの表情で二人が返すと、場にいつもの空気が戻ってきた。
律先輩は徐に立ち上がり、唯先輩と澪先輩の肩を引っ掴んで強く包んだ。
 目尻に涙を浮かべながら、三人は強く抱きしめあった。
夕日に照らされて、その光景は神々しいものに感じられた。

『私と和ちゃんはね、220と284なんだよ』

 ふと、脳裏にあの時の光景が蘇る。
 ――これで、唯先輩はまた一つ、得ることが、取り戻すことができたのだろう。
 事故を境にして壊れてしまった関係が、数字を接着剤にして、修復されていく。
それは喜ばしいことであったし、そのきっかけを作った自分に胸を張りたくなった。

澪「唯、これ……」
唯「んー。なぁに、澪ちゃん」

 名残惜しそうに身を離した澪先輩が、唯先輩に紙の束を手渡した。

澪「その……良かったら、演奏前に読んでみてくれないか?
 唯がよくミスする場所、書き出してみたんだ。
 どうしてもここのリズムが――って、ど、どうした……?」

 まだ怒ってる? と上目遣いで見やる澪先輩。
唯先輩は、ふるふる微細に振動していた。
 ……あー、これ澪先輩倒れないかなー。なんて心配したとほぼ同時に、

唯「ふ、ふぉぉおおお……! み、みおちゃぁぁぁあん……!」
澪「わっ、ちょ、ゆ、唯っ、抱きつっ こらぁ! どこ触ってるんだよぉっ!?」

 唯先輩が勢い良く抱きついた。 
標的は一瞬だけバランスを崩したけれど、しっかりと受け止めていた。
 猫が甘えるみたいに身体を摺り寄せて、唯先輩が笑う。

唯「えへ、えへへ。えへへー 澪ちゃぁーん」
澪「ああ……もう、しょうがない奴だなぁ……」

 諦めたような顔で微笑みながら、
澪先輩は唯先輩の頭を薄手のガラスを扱うような手つきで撫でる。

梓「――めでたし、めでたし、ですかね」

 腰に手を当てながら私は言う。

紬「うん、本当によかった。みんな仲良しが一番だもの」
律「……ん。そだな。これがけいおん部のあるべき姿だ」

 律先輩とムギ先輩が続いて言った。
眼下では、まだ澪先輩と唯先輩がじゃれ合っている。

梓「あれ? それにしては、お茶が足りなくないですか?」

 何気ない私の一言に、ちらっと二人は目配せして感慨深そうに

律・紬「「…………梓(ちゃん)も馴染んで来たなぁ(わねぇ)」」
梓「にゃあああ!? れ、練習、練習するですーー!」

 素っ頓狂な叫び声が響く。
けいおん部に、日常が帰ってきた。




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最終更新:2011年07月19日 22:52