Ch.085 misery
一袋のポテトチップスと一本の凍らせたチューペット。
これは唯の中で祝杯を意味する。
唯が曲を作るときは決まって山奥の別荘で缶詰になる。
そして曲が完成したら必ず一袋のポテトチップスと一本の凍らせたパッキンアイスでささやかな祝杯をあげる。
今回はアルバムに収録する曲の原型が完成したのでその記念だ。
唯はシングルやアルバムを数枚出してそこそこヒットしていた。
曲調や歌詞の方向性は甘くて楽しくて元気が出るような感じだ。
だが今回のアルバムは違う。
今までの路線ではなくどちらかと言うと切なかったり暗かったりする曲が多い。
これは新しい事に挑戦したいという唯の考えだ。
自分の今まで見せられなかった一面を見せる。
そのコンセプトを元に頑張ってきただけあって彼女にとって渾身の出来だった。
そしてこのアルバムにはもうひとつ新たな取り組みが施されている。
曲ごとにストーリーが設定されており、全体を通して聞くとひとつの物語が現れる。
内容は曲のコンセプト通り暗めな物語だが、痛みを伴う進化というテーマがある。
聞いてくれる人が物語を読むような感覚で感情移入してくれることを狙っているのだ。
と、中々チャレンジャーな作品なので原曲が完成しただけとはいえ唯の喜びはひとしおだった。
唯は祝杯の準備に取り掛かった。
唯がチュッチュポッキンアイスを手に持って力を入れる。
「ふっ!」
チュッチュ棒は綺麗に割れた。
「乾杯!」
唯は満足そうにそれを見つめると二ついっぺんにほおばった。
よく冷えたポッキンアイスが唇に痛みに近い冷たさをもたらす。
唯はそれに耐え切れなくなってアイスを口から出すと中身が口から少し零れた。
「おっとっと」
一見無駄な食べ方だがこの無駄加減が一仕事終えたという事を唯に実感させる。
一仕事終えて飲みに入ったり遊びに行ったりするような感覚なのだろう。
唯が零れたポキニコを拭っていると何かを考えて始めて動きを止めた。
こういう時真っ先に口を拭ってくれる妹の事が唯の頭を過ったから。
「憂、大丈夫かな」
憂。
唯の年子の妹で唯の事が大好き。
唯が都会へ行って音楽活動を始めてからは会う機会が減ってしまい、元々姉が大好きな憂は寂しい思いをしていた。
そんな憂にも大切な人が見つかる。看護師として働いていた憂が仕事場で出会った人だ。
二人が結ばれて籍を入れるのにそう時間は掛からなかった。
ようやく憂も姉離れする事が出来て幸せな家庭を築くことが出来た。
しかしその幸せはあっけなく終わる。憂の夫が事故で帰らぬ人となってしまったのだ。
再び依存していた人物が遠くへ行ってしまった憂は心を病んでしまう。
唯は当時多忙で憂の事を助けてあげられなかった。
会えない日々が続く中で唯は段々憂に会うのが怖くなってきていた。
心を病んで変わってしまった憂と会ってもどうすればいいのかわからなかったから。
それでも唯にとって憂はたった一人の妹。
唯は姉として妹を何とかしてあげたいとずっと思っていた。
「憂……」
唯は思いつめて思案していたが、決意の表情とともに突然ポテトチップスの袋を引きちぎった。
(私は憂のお姉ちゃんなんだから私が何とかしないと!)
それから黙々とポテトチップスとチューチューアイスを食べながら予定を立て始めた。
翌日、唯は早々に別荘を後にして平沢家へと向かった。
唯にとっては数年ぶりの我が家である。
唯は久しぶりの実家を眺める。
玄関先やバルコニーの植木は昔のままで手入れが行き届いていた。
憂が手入れしているとしたら……。
思い切って玄関のチャイムを鳴らした。
「はーい」
暫くすると聞き覚えのある声が聞こえた。
それは明るめの声で昔の妹が容易に想像できた。
唯に希望が湧いてくる。
これなら心配する事も無かったんじゃないかと。
「憂、私だよ」
唯も明るい声で返事をする。
「……お姉ちゃん?」
家のドアが開かれた。
そこには昔と変わらない妹の姿。
「ただいま憂」
「お姉ちゃん!」
憂の瞳が喜びで見開かれる。
自分に会えた事を喜んでくれる憂を見て唯まで嬉しくなった。
「憂、いままで会いに来なくてごめんね」
「いいんだよ。それより入って入って」
姉を暖かく迎える憂を見て唯は安堵した。
それから見慣れたリビングへ向かいソファに腰を下ろす。
唯はとてもいい気分だった。
「お姉ちゃん」
「なあに憂」
「お姉ちゃんてば」
「どうしたの憂?」
「お姉ちゃん、お姉ちゃん」
「はーい」
「お姉ちゃん、起きてよお姉ちゃん」
「起きてるよ~」
「もう、お姉ちゃんてば……」
「……ん?」
「――あ、憂」
「やっと起きたね。お姉ちゃん」
「……え、あれ」
唯が目を覚ますとそこには見慣れた天井があった。
窓からは日が差し込んでいる。
「私の部屋?」
「そうだよ。私が運んだの」
そう言って憂は微笑んだ。
唯は彼女を見た。数年ぶりに会った彼女は少しやつれている様に見えた。夢の中の憂は唯の記憶の中の憂でしかなかった。
「あれ……憂、私どうして自分の部屋で寝てるの?」
「覚えてないんだね……昨日の事」
「昨日の事?」
唯は寝ぼけている頭で昨日のことを思い出し始めた。
「確か昨日は別荘で曲を完成させてから……」
曲を完成させてから憂に会う事を決めた唯は祝杯の後に帰り支度を始めた。
既に暗くなっていたが今日中に実家につけると踏んで別荘を後にする。
それから終電ぎりぎりで地元の駅へ到着して徒歩で家まで向かって、
家の前まで来た唯は後方から来た車に轢かれて意識を失った。
「そうだ……私多分車に轢かれた」
「うん。それでお姉ちゃんが家の前に倒れてたのを私が見つけて部屋まで運んだの」
「そうだったんだ。ありがとう憂」
「いいんだよ。それより身体痛くない?」
「そういえば痛いかも。……特に足が」
「お姉ちゃんの両足ね……骨折してるの」
「……え」
両足の骨折が一番大きな怪我だった。後は打撲や擦り傷等。
唯が両足を動かそうとするが痛みが先行して動かせなかった。
「無理しちゃ駄目だよお姉ちゃん」
「私看護師やっててよかったよ」
唯の怪我の手当ては全て憂によるものだった。
「そっか、憂が手当てしてくれたんだね。でも病院とか行った方がいいよね」
「そうだね。でも暫くは安静にしてたほうがいいよ。痛み止めとか包帯もうちにあるし」
「わかった」
憂に従う事にした唯は痛み止めを飲んでからもう一眠りする。
昼過ぎに再び目を覚ますと憂の作ってくれたご飯を口にした。
その味を昔と比べようとしたが昔の味を思い出す事が出来なかった。
食事をとった後は憂とひたすら会話していた。
憂は唯の話が聞きたいと言って唯に色々な話をせがんだ。
唯は自分がデビューしてからの事を中心に話を進める。
「そうだ、私お姉ちゃんのCD全部買ってるんだよ」
「ほんと? ちょっと照れるや」
「私お姉ちゃんの大ファンなんだから。私はお姉ちゃんのナンバー1のファンだよ」
憂には最後の心の支えがあった。
唯の曲。
それを聞き続ける事で心の傷も癒えたのかもしれない。
唯は憂の心の支えになれていた事が嬉しかった。
「そうだ、憂に新曲を聞いてもらおうかな」
「本当!?」
「うん。本当は自分で演奏したいんだけどまだちょっとね。だから録音したCDを聞いてもらおうかなって」
唯の言葉で憂の表情がみるみる綻んでいく。
「まだ完成したわけじゃないけど一応私の轢き語りみたいな感じになってるから」
「聞く! 聞きたい!」
「私の鞄の中にCDと歌詞が入ってるから」
「うん、それじゃ早速聞いてくるね!」
「あっ聞き終わったら感想聞かせてね」
「は~い!」
憂は喜んで部屋を出て行った。
それを見送ってから唯は三度眠りについた。
唯が目を覚ますと部屋も窓の外も暗くなっていた。
時間を確認しようを首を傾けて唯はぎょっとした。
「う、憂?」
「……」
そこには憂が何も言わずに佇んでいた。
唯はとりあえず何か喋る事にした。
「あ、えっと、曲どうだった?」
「うん、良かったと思うよ。ただ……」
「ただ……何?」
「……やっぱりなんでもない」
「言ってよ。別に怒ったりしないし参考にしたいからさ」
「……なんだか今までの曲と違ってた」
「うん、今回のコンセプトはね――」
新しい挑戦だという事を話した。
が、どうやら憂は今までの曲の方が好みらしい。
「これが成功したらもっともっと新しい事にチャレンジしようと思ってるんだ」
「でも……悲しい曲ばっかりだよ」
「それは今回のコンセプトだからね」
「……駄目だよ。以前の様な素敵な曲が聞きたい」
唯は面食らった。
憂は元々相手を否定するような意見をこんなにはっきり言う人じゃなかったから。
唯は憂に解ってもらいたくて説明を続けようとした。
「でもね――」
「あんなのじゃ駄目だよっ!!」
突然憂が怒鳴り出した。
「今までのお姉ちゃんの曲は明るくて楽しくて幸せでそれを聞いてる私も幸せだった!」
「なのに今度の曲は暗い曲ばっか! 詩の中の登場人物がかわいそうだよ!」
「私はあんなの認めない! あんなのじゃ私は幸せになれない!」
憂のヒステリックな声が唯を攻め立て続ける。
怒鳴りながらベッドの脇に置いてあった時計を掴んで壁に叩きつけた。
唯にとって憂のこのような怒り方は初めて目にするもので、
驚きと恐怖で声が出せずコンセプトの説明どころではなくなった。
暫く怒鳴り散らしていた憂は突然我に返ったかのように大人しくなった。
「あ……ご、ごめんお姉ちゃん。つい熱くなっちゃって……」
「……私今日はもう寝るね。お休みお姉ちゃん」
「あ、うん」
唯は返事をするのがやっとだった。
憂が部屋を出て行ってから落ち着いて考えを巡らす。
やはり憂は心を病んでしまったのだろうかと。
考えても答えは出ないし正直忘れてしまいたい事だったので唯はさっさと寝ることにした。
翌朝、目が覚めた唯は時間を確認しようとベッドの脇を見やるが時計が見つからない。
そこで昨日の事を思い出し少し憂鬱になったが気を取り直して憂の事を呼んだ。
憂が来るまで部屋を見回してみたが時計の残骸はきれいさっぱりなくなっていた。
コンコン。
ドアのノックと共に憂が部屋に入ってきた。
「おはようお姉ちゃん。昨日はゴメンね。朝ごはん出来てるから後で持って来るね」
「うん、ありがとう」
いつもの憂がそこにいた。
暫くして憂が持ってきてくれたご飯を食べて、薬も飲む。
「それじゃあ安静にしててね。後で病院に行こっか」
「わかった」
「何かあったら呼んでね」
「はーい」
唯は少し安心した。
憂は元々優しい子だから大丈夫なんだと自分に言い聞かせて。
どうしたら憂の心の傷が癒えるかを考えていると急に睡魔に襲われてしまい唯はまた眠りに付いた。
次に目が覚めた時、唯は自分の部屋にいなかった。
だが部屋に見覚えはある。
ついこの前まで缶詰になっていた山奥の別荘だ。
その別荘の二階の部屋で唯がいつも使っているベッドで寝ていた。
「な……なんで?」
答えが見つかる前に憂が部屋に入ってきた。
「あ、目が覚めたんだ」
「……憂?」
「朝ごはん持って来るね」
そう言って部屋から出て行った。
「……また朝ごはん?」
唯が最後に食べた食事から一日が経っていた。
窓から差し込む朝日と遡ったように見える部屋の時計を見て唯にも理解出来た。
だがおかしい。
いくらなんでも丸々一日寝るはずがない。
だとすると……。
そこまで考えたところで憂が再びやってきた。
唯は憂が持ってきた朝食に恐る恐る手をつける。
そうしていると憂がぽつぽつと語り出した。
唯がいなくなってからの話。
勤め先の病院で主人と出会った話。
その主人に新たな生きがいを見出した話。
「あの人がいなくなって気が狂うかと思った」
「そんな時、偶然お姉ちゃんのCDを見かけて……それからずっと聞いてた」
「お姉ちゃんの曲が私の新しい生きがいになったの。なのに」
憂の態度が豹変する。
「あんな曲を作るなんて!」
「やっぱりお姉ちゃんは私の事を捨てるんだね」
「そ、そんなことしないよ」
「これからは今までと違うからね。ここに来てる事は誰にも教えてない。私に何かあったらお姉ちゃんも死ぬんだからね」
唯は視界がぐらつくような感覚に襲われた。
両足の自由を奪われた唯が山奥につれて来れれる。当然今の唯では脱出する事は出来ない。
監禁同然だった。
唯の朝食を片付けてから憂は車に乗ってどこかへ出掛けようとしていた。
唯はその様子を部屋の窓から眺める。
憂の車は以前から平沢家で使われている物だった。
だが、車は前面のバンパーがへこんでいた。
それを見た唯は強く思う。
ここにいたら殺される。
逃げるなら今しかない。
唯は何とか部屋から出ようと考えて、一人ではベッドから降りることも困難な事に気付く。
足が動かない事がこんなにも不便だなんて。
その原因を作った憂に怒りの矛先が向く。
が、今は逃げることが優先される。
まず腕を使って上半身をベッドから下ろし始めた。
上半身とお尻が床に着く。次は折れている足だ。
ギプスでもついていれば多少はましだったかもしれない。
唯はゆっくりと左足を持ち上げるが体勢が悪く腕に力が入らない。
両腕で左足を床にゆっくり下ろしたところで右足がベッドから落ちてしまった。
「あ゛ああああーっ!」
右足に激痛が走る。
両目を閉じて必死に痛みが去るのを待った。
「あ……はあ……はあ……」
額には脂汗がびっしりと浮かんでいる。
それでも憂が戻ってくる前にここから逃げるためには動くしかない。
足を引きずってやっとの思いで辿り着いた部屋のドアには、鍵が掛かっていた。
唯は結局逃げることが出来ず、かといってベッドに登る事も出来ず、床で眠りについた。
次に目が覚めたのは憂に起こされた時だった。
「お姉ちゃん大丈夫? ベッドから落ちちゃったんだね」
「う、憂……」
「今戻してあげるね。痛いけど我慢してね。せーの!」
「うっ……ぐ……!」
痛みを伴いながらベッドに戻された。
「痛み止め持って来るから大人しくしててね」
憂は部屋を後にする。
逃げる事の出来ない唯は憂に従うしかなかった。
唯は扉の開く音で目を覚ました。
憂はバーベキュー用のグリルを部屋に持ち込んでくる。
「何それ? 部屋でバーベキューでもするの?」
「そうだね。ほら」
憂がグリルの蓋を開ける。
網の上にはCDと紙が置かれていた。
「私やっぱりこのアルバムは駄目だと思うの。これがお姉ちゃんの考えた物語だなんて間違ってる」
「だからね、お姉ちゃんには作り直してもらおうと思うんだ」
「それにはまずお姉ちゃん自身の手でこの駄作を無かった事にして欲しいの」
苦労して作った曲を燃やしてなかった事にするなんてありえない。
唯は憂の言葉を無視し続けた。
「これはお姉ちゃんがけじめをつけないと駄目なんだよ。お姉ちゃんはマッチに火をつけるの」
そう言って唯にマッチを渡した。
唯はそれを手に取ることなくそっぽを向いている。
「今度は幸せな物語が見たいな」
憂が話しかけながらCDと楽譜と歌詞ノートに油をかけ始める。
「お姉ちゃんがこれを燃やさなきゃ駄目なの。わかるよね」
憂は唯の掛け布団にも油をかけ始めた。
「や、やめて……」
慌てて静止するが憂はマッチを顎で指すだけだ。
仕方なく唯がマッチに手を伸ばす。
躊躇していたが憂が再び布団に油をかけようとしたところでマッチに火をつけた。
グリルに投げ入れられえた瞬間、唯の新しい挑戦と努力の結晶があっけなく燃えかすに変わり果てる。
プラスチックの燃える嫌な臭いが充満する。
パチパチと紙の燃える音と唯のすすり泣く声、それを励ます憂の声が静かに響いていた。
後日、憂は唯に車椅子とギターとノートパソコンをプレゼントした。
唯に一から曲を作らせるつもりらしい。
憂は唯を車椅子に乗せた。
「ありがとう」
唯は一応礼を言った。
憂は車椅子を押して机の前に移動させる。
机の上にはノートパソコンが置かれていた。
「お姉ちゃんて作詞するときはいつもパソコンを使ってるんでしょ?」
「よく知ってるね」
「雑誌のインタビューに書いてあったよ。私お姉ちゃんのことなら何でも知ってるんだから」
にこやかに話す憂。
「ギー太は車に轢かれた時に壊れちゃったから……これで我慢してね」
そう言ってギターを唯に手渡した。
唯はそのギターを見つめる。
どこのメーカーかはわからないがレスポールタイプで色もギー太に似ている。
似てはいるがおそらくいいギターではないだろう。性能や音は言わずもがな。
唯は試しに演奏してみた。
「あ……この弦」
「え?」
「私がいつも使ってるのと違うや。これだと私が出したい音色が出ないよ」
「せっかくお姉ちゃんのために買ってきたのに……」
「それなのに文句ばっかり言わないでよ!!」
憂はギターに付属していたミニアンプを唯の足に落とした。
「……っあああ!」
痛みに悶える唯を尻目に憂は弦を買いに出掛けた。
次の日から唯の曲作りが始まった。
車椅子に乗って机のノートパソコンに向き合って歌詞を考える。
こういう作業は自身の気分が作品の質や作業の進行に大きく影響する。
唯にとって今の状態は最悪としか言いようがなかった。
こんな状況で明るく楽しい曲を作れというのだからなおさら気が進まない。
カタカタカタ。
何かを少し打ち込んではすぐにバックスペースを押して白紙に戻す。
カタ。
f┃
カタカタカタ。
fuck┃
カタカタカタカタ。
fuckfuck┃
カタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタ。
fuckfuckfuckfuckfuckfuckfuckfuckfuckfuckfuckfuckfuckfuckfuckfuck┃
カタ。
┃
それでも少しずつ曲が出来始める。
憂からたまにダメ出しされることもあったが、唯は適当に手直しして憂の機嫌をとった。
唯にとってここまでやる気の起こらない作曲活動は初めてだ。
だが作らなければ何をされるかわからないので仕方なくやっている。
憂が喜ぶ曲でも唯にとってみればどうでもいい適当な曲でしかない。
それをたらたらと書き綴っている。
そんなある日、憂は車に乗って数日に一度の買出しに出掛けた。
ブロロロロ……
車の音が遠くなったところで唯は部屋のドアの前まで車椅子を進めた。
そこで髪の毛を留めているヘアピンをひとつ外して折り曲げる。
それを鍵穴に差し込んでかちゃかちゃと動かした。
かちゃかちゃかちゃ……がちゃり。
「うっし!」
唯にとってダメ元でやってみるだけの選択肢だったがうまくいった。
唯はドアを開けて一階へと通じる階段まで向かう。
ここからは車椅子を降りなければ先に進めない。
唯は車椅子を降りてゆっくりと階段を降り始めた。
「はあ、はあ」
汗を滲ませながらなんとか階段を降りる。
それから唯は玄関と反対方向へ這いずりだした。
周りは山と林に囲まれていて公道までは一本道。
この状態では車椅子があったとしても公道へ行く前に憂と鉢合わせしてしまう。
かといって山に入ってもこの足では満足に動けない。
ここでの通信手段は携帯電話を使用していたが自分のはおろか憂のすらどこにも無い。
唯は別の方法で打開しようとキッチンへ向かった。
憂がここで料理をするようになってキッチンに道具が増えた。
唯は包丁を手にとって思案する。
憂にこんな事をするなんて。でもこのままでは自分が殺されてしまう。
「ごめんね」
唯は何かに謝ってから包丁を持って自室へ戻り始めた。
階段を上り始めたとき、
ブロロロロ……
聞き慣れた車の音が唯の耳に届いた。
瞬間、唯の鼓動が跳ね上がる。
腕を使って一段ずつお尻を持ち上げていく。
「痛っ! ……っく、はあ、はあ」
急ぐあまり足を階段にぶつけてしまう。
それでもこの状況がばれるよりマシと判断して鬼気迫る表情で階段を上った。
何とか階段を上りきり車椅子に座る。
車のエンジン音はもうしない。
憂が玄関を開けるまでに自室に戻らなければ。
唯は必死に車椅子を漕いだ。
ガチャ。
憂が玄関を開けるより僅かに早く唯が自室のドアを閉めた。
「はあー、はあー」
唯は汗だくで、おまけに腕を酷使したせいで力が入らなかった。
かちゃ がちゃり かちゃ がちゃり
憂は帰ってからすぐに唯の部屋に顔を出した。
「ただいまお姉ちゃん。……どうしたの?」
「あ……」
唯は全身から汗を垂れ流している。
汗の言い訳を用意していなかった唯の顔は蒼白だ。
「大丈夫お姉ちゃん?」
「はあ……はあ……」
唯は何も答えられない。
「お姉ちゃん」
「……っ!」
「もしかして痛み止めが切れちゃったの?」
「そ、そう! 憂、早く薬持ってきて」
「待ってて、すぐに持ってくるから」
憂は薬を取りに行った。
唯はその間に急いで包丁をベッドとマットの間に隠した。
「それじゃあまた後でねお姉ちゃん」
「うん」
憂が部屋を出て行く。
唯は包丁をいつでも出せる位置に移動させる。
次に憂が来た時に行動するつもりだ。
「……」
唯は頭の中でその時のシミュレーションと憂への懺悔を繰り返していた。
そうして時間は過ぎる。
「――んぁ」
「……えっ!?」
唯が気が付いた時目の前に憂がいた。
いつの間にか唯は眠ってしまっていたのだ。
憂は唯を押さえつけて注射を刺した。
それからすぐ唯は放心状態になり、自分が何をしているのかもわからなくなってしまう。
その後唯は眠ってしまった。
唯が起きたのは翌日の日が昇ってからだった。
「……」
ぼんやりと天井を眺める。
「……あっ」
ようやく正気に戻ると傍には憂がいた。
憂は何も喋らない。
唯は身体を動かそうとして、それが出来ない事に気が付いた。
ロープでベッドと一緒に縛られている。
異様な雰囲気を感じ取った唯は急いで包丁の隠してある辺りに手を伸ばす。
だが全身をベッドにくくりつけられている所為でベッドの隙間に手が届かない。
必死にもがいていると憂が喋り始めた。
「……探してるのは、これ?」
そう言って包丁を唯に見せ付ける憂。
唯の顔が引きつった。
「お姉ちゃん、この包丁で何しようとしてたの?」
唯は答えない。
「私がいない間に勝手に部屋から出て……元気いいね」
「でもそれじゃ困るよ」
憂は話しながら何かの準備をし始めた。
「ご、ごめん憂! もうこんなことしないから許して……!」
「お姉ちゃんの足治ってきたのかな。だからこんないけないこと考えちゃうんだよね」
「悪かったから、もうしないから。ごめんなさい……!」
唯の言葉は憂には届いていない。
「い゛っ……!」
憂が唯の足を開かせた。
その動作には怪我人に対する配慮がまるでない。
それからふくらはぎの間に長方形の木箱を置く。
唯の足はロープと木箱の所為で固定されてしまった。
「な、何してるの……?」
ふくらはぎに置かれた木箱が何をするためのものなのかわからない。
それでも唯の恐怖はどんどん膨らんでいく。
「もうこんなことはしないでね?」
「うん、もうしない! だから……」
「よい……しょ!」
唯の左側に回りこんだ憂は床から巨大な槌を持ち上げた。
柄の部分は1メートル近くあり、錆びて輝きを失った頭部がやたら重そうに見える。
「……え」
唯には何がなんだかわからない。
そんな事お構いなしに憂は槌を振りかぶった。
「せーのっ」
「や、やめてやめて嫌いやごめんなさ――あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っっ!!」
槌は野球のスイングのように振られ唯の左足のくるぶしより少し上にヒットする。
足は木箱とロープで固定されていたため、すねの辺りの骨が綺麗に折れた。
唯は自分の左足が折れる瞬間を目の当たりにした。
「あ……ぐ……っは!」
唯が痛みでもがくが縛られていて上手く動けない。
「……」
憂は躊躇なく唯の右側に回りこむ。
それを確認した唯が本気で哀願する。
「や゛めてっ! お願い、ごめんなさい! 許してえ!」
「んっしょ……!」
先程と同じ要領で右足を折ろうと憂が振りかぶる。
唯はおもいきり目をつぶった。
カタ。
カタカタ。
カタカタカタカタ。
アルバム製作も終盤戦。
後2曲で完成というところだ。
唯がいつもの様に曲を作っていると憂が部屋のドアを開けた。
「買い物に行って来るね!」
「いってらっしゃい」
憂はご機嫌な様子で、唯はいたって普通に言葉を交わす。
唯が窓の外を見やると憂が丁度車に乗り込むところだった。
お互いに目が合う。
憂は唯に向かって笑顔を向けながら手を振る。
唯は無表情で右手の中指を突き出した。
憂は機嫌よさげに「まったくもう」といいながら車に乗り込み出掛けていった。
いよいよアルバムも完成間近になり、唯は憂に最後から二番目の曲を聞かせていた。
「……すっごくよかったよお姉ちゃん!」
「そう?」
「そうだよ~主人公の女の子が頑張ってる感じが素敵!」
「それはどうも」
「……でも」
不穏な空気。
「お姉ちゃんの足が治ったらまたどこかに行っちゃって私の好きな歌を作ってくれなくなっちゃう」
「そんなことないよ。私はずっと憂の傍にいるよ」
「……嘘はだめだよお姉ちゃん」
「本当だよ」
唯の嘘は憂には通じなかった。
それどころか、
「もう、お姉ちゃんを殺して私も死んじゃおうかな……」
「……え?」
憂が突然包丁を懐から取り出した。
「そうしよう……お姉ちゃんはもうどこにも行かない」
憂が唯に近付く。
「ま、待ってよ憂! まだアルバムは完成してないんだよ!」
「……」
「じゃ、じゃあせめてアルバムが完成するまで待って! 憂だって最後の曲が気になるでしょ?」
憂が立ち止まった。
「お願い憂、私に最後までやらせて。それからでも遅くないよ」
憂は暫く考えた後、
「そうだね。私もお姉ちゃんの最後の曲聞きたい」
そう言って部屋から出て行った。
それから一週間後。
「出来たよ、憂」
「本当!? やったねお姉ちゃん! じゃあ早速……」
「ふふ、慌てるのはまだ早いよ。ねえ憂。憂は私のナンバー1のファンなんだよね?」
「うん、そうだよ」
和やかに会話が進む。
「それじゃあ、私がいつも曲を作り終わった時に何をするか知ってる?」
「……あ!」
憂がはっとして答える。
「一袋のポテトチップスと一本の凍らせたチューペット!」
「正解。今回のアルバムは憂と作ったからね。一緒に祝杯をあげようよ」
憂が感嘆の声をあげる。
「うわぁ~! いいのっ!?」
「もっちろん!」
祝杯はいつもリビングでとり行う。
だから唯もリビングまで連れて行ってもらった。
ギー太モドキも一緒だ。
「それじゃあポテトチップスとチューペット持って来るね!」
「よろしく」
楽しそうにキッチンへ向かう憂は先程からとても浮かれている。
「おまたせ~!」
憂は一袋のポテトチップスと一本の凍らせたチューペットを持ってきた。
「わーいチューペットだ。でもチューペットはもう一本いるかなあ」
「えっ」
「これは一人で一本を食べるから、憂の分もなくっちゃね!」
そう言って憂にウインクした。
「わ、わかった! すぐに持ってくるね!」
憂が大急ぎでチューペットを取りに行っている間に唯はポテトチップスの袋をわざとテーブルの下に落とした。
「今度こそおまたせ!」
「憂~ごめんポテトチップス下に落としちゃった」
「今拾ってあげるね」
憂が四つんばいになってテーブルの下のポテトチップスに手を伸ばす。
唯は静かにテーブルのチューペットに手を伸ばす。
チューペット、ポッキンアイス、棒ジュース等様々な呼ばれ方をするこのアイス。
憂が頭をテーブルの下から出した瞬間、それをヌンチャクのように振り下ろした。
「ぐっ……!?」
憂の後頭部にクリーンヒット。
唯はうずくまる憂にすかさずギー太モドキを叩きつける。
「お……おね……ちゃ……」
憂は倒れて動かなくなった。
「はっ……はあ、はあ……やった」
唯はこの一瞬を狙っていた。
憂は気持ちの高揚と低下が激しい。
憂にとって高揚しそうな場面でなら油断するかもしれないと読んでの行動だった。
唯はここから出る準備を始めようと考え始める。
その時突然車椅子が倒された。
「あぐっ……!」
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛お゛ね゛え゛ち゛ゃんんんんんんん!!」
憂が唯にのしかかる。
同時に骨折している部分を手で叩いた。
「ああああっ!」
唯に激痛が走る。
それでも必死になってギー太モドキに手を伸ばす。
「う゛う゛う゛う゛う゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!」
憂は錯乱して唯の首を締め出した。
「ん……ぐ……!」
伸ばした手がギー太モドキに届く。
唯は再び憂をギー太モドキで殴りつけた。何度も何度も。
憂が動く事はもうなかった。
あの事件から一年後。
唯は社会復帰する事が出来た。
一度は燃やす羽目になったアルバムも作り直して無事に発売された。
「やっほー和ちゃん!」
「唯、久しぶり」
小さなバーで待ち合わせをしていた二人は早速昔話に花を咲かせる。
「それにしても……大変だったわね」
「うん、生きてるのが奇蹟みたいだよ」
「今こうして無事でいてくれて嬉しいわ」
「えへへ。昔さわちゃんが貸してくれたCDの曲みたいな体験だったよ」
「ふうん、じゃあその体験を曲にしたら売れるかもね」
「やめとくよ」
「そうよね」
「そういえば今日はもう一人呼んでるの」
「えっ誰々?」
「久しぶりに会えるって言うから……あ、来たわよ」
唯が振り向くとそこには懐かしい友人がいた。
「澪ちゃん!」
「久しぶりだな」
「会いたかったよ~」
「私もだ。半分はファンとしてだけどね」
「そうなの!?」
「ああ、CDやグッズは全部そろえてるし唯が出てる雑誌もチェック済みだ」
「す、すごいね……」
「なんて言っても私は唯のナンバー1のファンだからな」
END