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―――
――気が付いた時、私は知らない場所に立っていた。
周囲は見渡す限りの草原。頭上には眩しいほどの月。既に夜の帳は下りた後のようだが、その月のおかげで視界は何とか保たれていて。
そして、遠くに見える背中が一つ。
澪「……唯…?」
一歩、歩を進めてみる。その際に踏みつけた足元の草から、蛍光塗料のような光を放つ、翡翠色の球体が舞い昇る。
蛍のようだが、垂直に、真っ直ぐ天に昇っていくその光は、どう見ても命あるモノではなくて。
でも、別段不気味ではなく、恐怖心も無く。むしろ美しくて。
だから私はただ真っ直ぐに、唯らしきその背中に向かって歩を進める。
澪「唯っ!!」
近づけば近づくほど、その背は唯のものであると確信するのに。
唯は、私の声に振り向いてはくれなくて。
それが……どうしようもなく淋しくて。泣きたくなって。
何も起こっていないのに泣くなんておかしいから、涙を堪えて走るけれど。
唯まであと数メートルというところで、足が草に絡まって転んでしまった。
澪「ゆいっ!!!」
ダメだ、と思った。涙が溢れて止まらなかった。
何がダメなのか、何故泣くのか、私自身にもわからないのに。
それなのに、その直感は正しいと、意味のわからない確信があって。
だから、私はただ、叫んでいた。
そして、ようやく声が届いたのか、唯は振り向いてくれた。
唯「……澪ちゃん」
振り向いた瞬間、唯の足元から無数の翡翠色の光球が一斉に飛び散って。
その光は、一瞬だけ滞空した後、重力に逆らい、ゆっくりと天へと向かう。
つられて天を仰ぐも、そこには月しかなくて。
どうしようもなくみっともない気持ちが溢れてきて、私はまた涙を流す。
足に絡まった草は、解ける気配が微塵もなくて。動くことさえままならない私に、唯はゆっくりと近づいてくる。
澪「ゆい……」
唯「澪ちゃん…」
膝を付き、私の頬に両手を添え、唯が顔を近づけてくる。
キスしてくれるのかな、と思って目を瞑ったけれど、訪れたのは頬を舐められる感触。
唯「……しょっぱい」
困ったように笑う、その笑顔を見て。また涙が溢れ出して。
でも、唯はもう舐めてはくれない。その笑顔が物語っていた。
澪「ゆい……やだ、いかないで……」
唯「…ごめんね、みおちゃん。今までありがと。毎日が楽しかった」
聞きたくない。
今の唯が言う言葉なんて、何も聞きたくない。
耳を塞ぎたい。
でも、これが唯との最後の会話だって、どこかで思ってしまっていて。
結局、何をしても、私では唯を引き留めることは出来なくて。
ここでお別れなんだとしたら、最後の会話で、耳を塞いでしまうなんて出来るわけなくて。
唯「ずっと、ずっと澪ちゃんのことばかり見てた。小さい頃はただ一緒にいて楽しいからだったけど、大きくなった澪ちゃんは、かっこよくてしっかりしてるように見えてもやっぱりどこか危なっかしくて…」
余計なお世話だ、なんて憎まれ口も叩けない。叩ける気がしない。
冗談だと受け止めてくれるとわかっていても、そんな汚い言葉、口にしたくない。
唯「でも、もう今はそんな風には見えないよ。しっかりしてるし、しっかりできる。全部がかっこいい女の子だよ」
ちゃんと気持ちよくしてくれたし、とか何とか小声で言ってくれるけれど。
でも、それでも。
澪「違う…違うよ、唯。誤解だ……私は、私がちゃんとできるのは、唯がいてくれたからだよ…!」
唯「いつでも一緒だよ、澪ちゃん。だいじょうぶ」
澪「大丈夫じゃないっ!! 隣に居てよ…手の届くところにいてよぉっ!!」
唯「……それは、もうずっと昔の時点で…叶わないよ」
どうして、どうしてなんだろう。どうして叶わないんだろう。
大切な人が出来た。隣に居て欲しい。当然の事じゃないか。
ただそれだけなのに、それの何がおかしいんだろうか。
何が悪いんだろうか。何が間違っているんだろうか。何が何に反しているのだろうか。
――至当を謳う私は、そんなに罪深い存在なのだろうか。
唯「……ごめんね。本来いないはずの私のワガママのせいで、澪ちゃんに…こんな形でのお別れをさせちゃって」
澪「どうしても……?」
唯「…うん。いるはずのない私がいるのは、やっぱりいろんな人に迷惑だよ。憂もだけど、澪ちゃんだって私と会わなければこんな風に泣くこともなかった…」
……それは、そうかもしれないけど。
でも、そういう言い方だけはされたくなかった。
澪「……唯を…好きになったことは、後悔してない。今の私があるのは全部、唯のおかげなんだから…」
だから。
澪「だから、唯に会ったことも、また逢えた事も、絶対迷惑なんかじゃない…!」
唯「……ありがと、みおちゃん」
……意外にも、唯は一切、涙を流していない。
私の事なんてどうでもいい…というわけではないのはわかってる。唯の中で、この『別れ』は必然だった、というだけ。
だから、私の言葉ごときで引き留める事は叶わず。私の言葉にできるのは、唯の心残りを減らしてあげる、それくらい。
そう、私が何を言おうと――仮に私以外の人でも、何を言っても唯を引き留めることは不可能。
ようやくその事実に気づいた私は、唯が背を向けると同時に、草原に顔を伏せた。
澪「……さよなら、唯……」
それは精一杯の強がり。
私は別れなんて認めてもいないし納得もしていないけれど、それでもそれはこの期に及んで唯の心残りを増やしていい理由にはならない。
だから、願わくば、私の言葉に返事なんてしないで、そのまま去ってほしかった。
いつの間にいなくなったのか、私に理解させないでほしかった。
でも。
唯「……さよなら、澪ちゃん」
でも。
唯「……ずっと、大好きだったよ」
――何よりも残酷な言葉を残して。
唯「幸せに…なってね」
――きっと笑顔で、唯は消えたんだ。
――
―――
――ここではない何処かから目覚めた私を待っていたのは、見慣れた背中。
……だけど、見慣れない視線。
澪「………」
……当然か。いろいろな意味で、これは当然の結果と言える。
憂「……服、着たほうがいいと思いますよ」
澪「……そうだな。ありがとう」
憂「今からご飯作りますけど、食べます?」
見え見えの社交辞令。善意のカケラもない、むしろ相手に「頷くな」と言わんばかりの敵意が込められた言葉。
しかし、私にもそれは理解できる。自分の身体を穢した相手に、善意を振舞える人間のほうがどうかしてる。
……いや、もしかしたら問題はもっと深いところにあるのかもしれないけれど。それでも答えは変わらない。
澪「……いや、大丈夫。帰るよ」
憂「そうですか。ご自由に」
私より一足早く起きて着替えていたと思われる憂ちゃんは、髪を縛り、部屋を出た。
出がけに「汚らわしい」と睨みながら呟いてくれたけど、その程度の言葉じゃ私の心は微動だにしない。
……むしろこの先、心を動かされるような出来事があるのかさえ怪しい。
――次の日。
あんなことがあった翌日だけど、私は普通に登校していた。
唯にフラれた、とかなら落ち込んでいただろう。でも今の私の心に影を落とすモノは、そんな低次元なモノではない。
一万円を貰ったなら使い道に悩むが、一億円を貰ったら途方に暮れるだろう。それと同じだ。
要するに、何も考えられないからとりあえずいつも通りの日々を過ごすことを選んでみた。それだけのこと。
和「――来たわね」
澪「…和?」
教室に入ると、早々に声をかけられる。
待ち構えていた、と言うに相応しいその態度。敵意こそないが、問い詰めるといった気迫はひしひしと感じられる。
……そういえば、和と唯は幼馴染だったっけ。
和「昨日、唯からメールを貰ったわ。消えることにした、ってね」
澪「……それで?」
和「今までありがとう、って。それと、最後に会う人に澪を選んでゴメン、ってさ」
澪「………」
それで…何なんだろうか。和は私に何を言わせたいんだろうか。
「唯を取っちゃってゴメン」とでも言えばいいんだろうか。もうこの世のどこにも唯はいないのに。
和「…澪は、もう唯には会えないと思う? 希望を持たせるような意味じゃなくて、最後に会っていた人として、確証が持てるくらい…ちゃんとお別れをした?」
あの、翡翠色の草原での出来事が思い出される。
状況から考えれば夢に違いない。あの日…情事の後に疲れて寝てしまった私の脳が見せた幻覚。
でも、あの感覚は現実だ。
流れる涙の熱さも。唯の体温も。私の悲しみも。
そして実際に、目覚めたその時に、唯はいなくなっていた……
澪「……朝、目を覚ましたら、さ」
和「?」
澪「隣に好きな人の笑顔があって、ちょっと頬を染めて「おはよう」って言ってくれたりとかさ、そんな『少女の夢見る小さな幸せ』みたいなシチュエーション、和だって憧れたことはあるよね?」
和「……何よ、急に。無いとは言わないけど…」
澪「……それが、もう叶わないとして…その現実をどう受け止めればいいか、和は知ってる…?」
和「澪……」
澪「知ってたら……っ、教えてよぉ……っ…!」
和「…ごめんなさい。軽く尋ねていいことじゃなかったわね…」
私の意志とは無関係に零れ出てきた涙。それで制服が濡れることも厭わず、和は私を抱きしめてくれた。
……和だって、幼馴染がいなくなって辛いだろうに。それなのに私は甘えてしまった。
……ほら、唯。私はこんなにもダメな奴なんだよ。唯がいないと何も出来ないんだよ……?
和「――落ち着いた?」
澪「……ごめん。迷惑かけた」
唯がいなくなった。目には見えないその事実を、それでも誰よりも実感している私は、ある意味では孤独だった。
数年来の親友の律にさえも相談できない真実はとても重くて、潰されそうで。そんな矢先、計らずとも『捌け口』になってくれたのは、やっぱり唯がいたからこそ知り合えた和だった。
本当に…私は唯にどれほどのものを貰っているんだろう。
和「いいのよ。軽率だった私が悪いんだから」
澪「そうじゃないよ……和だって辛かったはずだし」
和「そう、ね。確かに、澪みたいに会えたわけでもない。あっさりとしすぎたお別れだったわ」
澪「えっ…? 会ってないの?」
和「そう。本題はそっちなのよ。唯は昨日は澪と過ごしたかったのだから、私と会うなら一昨日になる。でも会わなかった。いえ、会えなかったのよ。だからメールで済ませた」
会えない? どうして?
確かに、後夜祭の更に後に私は憂ちゃんと唯に会った。時間が無いと言えないことも無いけど、親友同士の間柄ならよほどの障害でもない限り、夜中にちょっと話すくらいはできるはず。
和「……会えなかったのは、あちらの都合よ。わかる?」
澪「……誰かが邪魔した?」
和「いいえ。いつもいる誰かが邪魔だった、とは言えるけど」
……いつもいる誰か…って、それは……
澪「まさか……」
和「そう。唯は…憂に黙って消えた。その道を選んだ。それについて、ちょっと対策を練ろうと思って」
澪「た、対策って……」
和「それくらい、憂の唯に対する依存は深いのよ。ちょっとでも消えることを匂わせたらヒス起こしかねないほどに」
憂ちゃんの想いには、昨日の態度とかで薄々感づいてはいたけれど。
もっとも、その想いが私のような恋愛感情だとまでは断定できない。けれど、きっと私に劣らないほどの熱意ではあるだろう。
……私の唯を好きな気持ちが、誰かに劣っているとは思いたくないけれど。それでも、生まれてからずっと育み続けてきた憂ちゃんの想いは相応に重いのは明らかだ。
和「憂に言えば、絶対に唯は後ろ髪引かれて消えられなかった。だからといって言わずに消えた唯のやり方を肯定は出来ないけれど、過ぎたことである以上、私達がなんとかするしかないの」
言いたいことはわかる。
でも、私はそれに素直に頷けない。
澪「……純粋な疑問なんだけど」
和「何?」
……純粋な疑問なら、何でもぶつけていいという訳じゃないとは思うけど。
というか、これはむしろ言わない方がいい類の言葉だとわかっていたけど。
それでも、私は口にした。その時の私は、躊躇いなく口にしてしまった。
澪「何で私が憂ちゃんのことを気にかけないといけないの?」
和「………」
私だって、それなりに根に持つことはあるんだ。
澪「私は憂ちゃんから嫌われてるよ。汚らわしいって言われたし」
和「…そう、なの?」
澪「あの侮蔑の視線は忘れないよ」
私の行動が招いた結果だけど、だからこそ私が憂ちゃんを気にかける理由は、無い。
私は私の行動に後悔なんてしてないし、いや唯が消えたことはそりゃ後悔してるけど、それは私の行動が招いたわけではなく、唯の決意が固かっただけだし。むしろ…
澪「むしろ和は、なんで唯を止めなかったの? 消えることをなんで許したの? ねぇ!」
和「……ごめんなさい、私が悪かったわ。許してちょうだい、澪…」
澪「………っ……ごめん」
そうだ、止めたかどうかは知る由はないけど、唯が消えていいなんて、親友の和が思うわけないんだ。
……落ち着け、私。和は唯も憂ちゃんも大事にしてる、それだけじゃないか…
和にイヤミを吐くのも、憂ちゃんを敵視するのも、ただの私の八つ当たりに過ぎない。
……まぁ、私が憂ちゃんから嫌われてるのは確かなんだろうけど。でもそれは私の行為が招いたことなんだから私から嫌うのは筋違いで、せめて話し合うくらいはしないといけないのだろう。
結果がどうなろうと私は執着しないけど、それでも最低限の責任は果たすべきなんだ。
澪「……和、私は何をすればいい?」
和「…ありがとう。でもね、私達がするべきは『対策』なの。つまり、こちらからすることは特に無いわ」
澪「……どういうこと?」
和「…唯がいないことに気づいた憂は、最後に会っていた貴女を問い詰めに来る。間違いなく、ね」
和のように、か。……いや、和よりも激情に任せ、敵意を剥き出しにして問い詰めてくるだろう。私が憂ちゃんだったらそうするだろうから。
憂ちゃんの気持ちはわかる。もっとも、だからといって逆に私の事も理解してくれとは思わないのは、やはり……唯を奪ったという後ろめたさか。
和「澪にして欲しいことは、憂に何を問われても冷静に対応して欲しい。それだけ」
冷静に、というのは先程のように感情に任せて相手を傷つけるような言葉を吐かないでくれ、ということだろう。
しかし、それは和相手でも叶わなかった事だ。なのに、険悪な仲となってしまった憂ちゃんとの会話で堪えろ、というのは…
澪「……それが一番難しいと思うけど」
和「わかってる。その上でお願い。私もフォローするから」
澪「……努力するよ」
私は憂ちゃんに嫌われる理由こそあるが、私のほうから憂ちゃんを嫌う理由は『嫌われているから』以外には無い。
だから、そこだけを堪えて接すればいい。憂ちゃんの知らない唯を知っていることに対する報いだとして受け入れれば、ちゃんと憂ちゃんが納得するように事情を説明できるはずだ。和も手伝ってくれるんだし。
……この時は、本当にそう思っていた。
この時『まで』は。
最終更新:2011年07月25日 22:27