関節油が切れたロボットのように、唯は下着を、制服を身につけていく。
それから、公園の大きな時計で時刻を確認する。日付が変更されていた。
…さっきから、頭が割れるように痛い。上半身裸で寝ていた上に、パンツもぐしょぐしょに濡れていたから、風邪をひいたのだろう。
…何もかもがどうでもいい。朝になったら、夜の闇と一緒に自分が溶けてしまえばいいのに。
唯はまた、あてもなく歩きはじめる。濡れた下着が気持ち悪い。

「あっ、あれ…唯ちゃん?唯ちゃん!律ちゃーんッ!憂ちゃんッ!唯ちゃん、唯ちゃんがいたわよーッ!!」


…公園の向こうから、ムギが大きな声で呼びかける。普段おっとりしたあいつに、あんな切迫した声が出せるなんて。
あたしは憂ちゃんを連れて、真夜中の公園を走る。夜露で靴がびしょびしょになるが、気にならなかった。
憂ちゃんは、すでに泣きそうになっていた。口元がひくひくと震えている。まるで迷子になった子供だ。
やっと見つけた。千切れんばかりに手を振るムギと、あと一人。あの背格好、あの髪型…唯!
「お姉ちゃああっぁああん!うわああぁぁあん!!!」
憂ちゃんが唯を思い切り抱きしめ、号泣する。あたしは憂ちゃんの、こんなに子供っぽい姿を見たのは初めてだった。
ムギも目が真っ赤になっていた。あたしも唯を怒鳴りつけようとして、声がかすれてしまう。
「何やってたんだよ…。唯のご両親も、さわちゃんも探してるんだぞ…。バカ唯ッ…!」
あたしは唯を改めて睨みつける。不覚にも涙で目が霞む。
…泥だらけの制服。髪につく草の切れ端。そして目…目に光がない?
あの可愛らしいブラウンの瞳に…光がない。
「…ゆ、唯?」


第三章:うちの子に限って
終劇



空の浴槽。脱ぎ散らかされた衣類。
唯は一糸まとわぬ姿で、風呂場に立っていた。窓から降り注ぐ正午の光が鬱陶しい。
光の宿らない目は、まっすぐに鏡に映った自分の姿に注がれていた。口元に嫌悪感がべったりと張り付いている。
「気持ち悪い」
唯は呟く。彼女の目は、サラサラした肩に届く茶髪を見つめる。澪に汚された髪。
「こんな髪、いらない」
彼女の目は、決して大きくはないが形の整った胸を見つめる。梓に傷つけられた胸。
「こんな胸も、いらない」
彼女の目は、若い陰毛に覆われた秘部を見つめる。ありとあらゆるヒトに犯され、踏みにじられた秘部。
「こんな何も、何もない私もいらない」
輝きを失った目から、涙が流れだす。涙は排水溝に消えてゆく。
唯はその場に突っ伏し、嗚咽を漏らす。柔らかな午後の光が、彼女を嘲笑う。


「どうして私には、ついてないの?」


最終章:さらば愛しき魔性

…あの日から、一週間過ぎた。
妹や級友に発見された唯はあの後、駆けつけた両親達に保護された。彼女の母親は放心しきった娘を抱いて、泣きに泣いた。
保護された唯には胸の爪痕以外、目立った外傷はなかったが…その心は粉々に砕け散っていた。
何度かカウンセリングを担当した医師は、彼女が重度の女性不信に陥っていると説明した。…無理もないことだった。
非情な学校や医師は、唯をデータとして分解し、整理してしまう。彼女が一生懸命に隠していた胸の傷も、憂の知るところとなってしまった。
学校はいじめの主犯として、中野梓秋山澪真鍋和の三人を停学処分とした。真鍋和は生徒会を首になった。
三人が事件の重大さに釣り合わない軽い処分ですんだ理由は不明瞭。軽音楽部顧問の教師が暗躍したとの噂が生徒の間で囁かれている。
そして現在、その軽音楽部の部員は、田井中律琴吹紬の二名のみであった…。


唯を失った教室は、信じられないほどに「平常通り」だった。
今は昼休み。律はむっつりと黙り込み、クラスメートの会話の会話に耳を傾ける。紬も塞ぎ込んでいた。お弁当をつつく箸が、ちっとも進んでいない。

…平沢さん、隣の秋山さんに犯されちゃったんだって。ぎゃーっ、平沢さんカワイソー。秋山さん、やらしーっ。
でも私、秋山さんの気持ちわかるかも。あー、わかるわかる。平沢さん、可愛いもんね。母性本能くすぐられるって言うの?
でも女同士っててキモくね?竜崎さんってコッチ系?…そう言うさゆりんはどうなのよ?いざとなったら、レイプでも何でもしそうだけど?
ぎゃっ、それ名誉毀損!立法機関に通報してやるっ!立法機関って国会じゃん。あはははは…


「…ムギ、行こっか」

律と紬の二人の影が、校庭に長く伸びる。律はポケットからチューインガムを取り出すと、空高く放り投げた。重力に縛られたガムは、律の口にストンと落ちる。
「唯のやつ、もう一週間も学校来ないな」
律はガムをつまらなそうに噛むと、器用に膨らませる。ピンク色の繊細な風船玉が、青空を見上げる。
紬は答えない。律には紬がどんなに悲しみ、傷つけているかがよくわかる。こいつほど友達思いなやつ、ざらにいないからなぁ。
「ともかく、このままじゃうちの部もお手上げだよ。重要な部員が3人も減っちまったんだからな。早くみんな帰ってこないかな。特に唯」
「…秋山さんも中野さんも、帰ってこなくていい」
律の風船玉がパチンとはじける。律は怪訝な顔で紬を覗き込む。悲しみの海溝に沈んだその目に、黒い怒りの炎が踊っていた。
「私は絶対に許せない。唯ちゃんを、あんなに優しくて妹思いで可愛らしい唯ちゃんを壊したあのヒト達を許せない。例え唯ちゃんが許しても、私は許さないっ!」


「ムギ…」
紬の肩が激しい怒りで震えている。律は彼女から発せられる暗い憎悪の念に思わずたじろぎそうになる。
「…そうかな」
律は精一杯落ち着いた声を出す。ほとばしる感情と、紬の念に流されないよう、ぐっと堪える。増水した川で、足元をすくわれないよう耐えている気分だった。
「…あたしは、わかるけどな。唯の気持ちも、澪達の気持ちも」
律はまたガムを膨らませる。無垢な風船玉は、律の心境など何も知らない。


…去年のお年玉の残りが1万と3千円。万が一不足が出たら別な日に出直せばいい。金ならいくらでも工面できる。
唯は机の上にありったけの所持金をぶちまけ、暗い目で睨む。外で憂が戸を叩き、何か喚いているが無視する。 あとは、タイミングだけ…。


「お姉ちゃん、今日こそ学校行こうよ、お姉ちゃん!」
憂は唯の部屋の戸を叩く。大人びた彼女には似つかわしくない乱暴な叩き方だ。
彼女は不安で潰れそうだった。姉はもう一週間も登校していない。今まで風邪で数日休んだことはあっても、こんなに長い間欠席したことなどなかった。
もしこのまま、お姉ちゃんがいわゆる不登校になったら私はどうすればいいの?誰と一緒に学校までの道を歩けばいいの?
もしお姉ちゃんにまた何かあったら、私が絶対に守るから。だから今日こそは、今日こそは出てきて…!
ふいに憂の肩を、優しく力強い手がつかむ。憂達二人の父親だった。父は憂が安心するように、穏やかになだめる。
「唯は強い子だ。そのうち自分から行くようになるよ。無理に連れていくことはない。今は休ませてあげなさい」
そして唯の部屋の戸を静かに叩く。乾いた木が優しい音をたてる。
「唯、たまには外の空気を吸わないと。二人で散歩にでも行かないか」
その言葉を待っていたように、唯が飛び出してくる。まるで落ち着きの足りない子犬のように。
「うんっ、行く行くッ!」


唯の父親は、娘の心のケアのために特別に休暇をもらっていたのだ。普段は娘二人を放り出して妻と世界中を駆け回っているが、娘への愛は掛け値なしに本物だった。
そして唯は、その愛にすんなりと答える。あそこに行きたい、あれが食べたいと饒舌に語る。
だが憂は、姉のそんな様子を悲しげに見つめていた。
はしゃいでいるふりをしているが、憂は騙されない。だってお姉ちゃんの目、何であんなに真っ暗なの…?
唯は父親の腕に幼いわんぱくな子供のようにぶら下がる。憂には一目もくれない。あいさつの一言もない…。 
すれ違いざま、憂は姉の口元が、笑いのかたちに歪んでいるのを確かに見た。


唯は父親と、朝の洗練された空気の中を連れ立って歩く。娘は父に、仕事の話や昔の思い出話をたくさんせがむ。寝る前に絵本の朗読をねだる小さな子供のように。
…その明るさはどう見ても偽りのものだった。父は、娘のけなげな態度に思わず涙しそうになる。鼻の奥がツンと痛い。
「…それでさ、お父さんはお母さんと二人でパリで見たんだよね。そのなんとかって絵。それってさ、」
「…唯。…もしつらかったら、学校、変えてもいいんだぞ。転校の手続きは、お父さんがなんとかしてやるから」
唯はしばし、不思議そうな目で父親を見つめる。

…やがて、満面の笑みを顔に咲かせる。闇夜の海のような暗い目を細める。
「じゃあじゃあ、私、今度は男子校に行きたいなぁ。女子校はもう充分楽しんだから」
「はは、唯は面白いことを言うなぁ」
二人の笑い声が、空に虚しく消えてゆく。


散歩の途中、唯は父にトイレに行きたいと告げた。
「そこの公園ので済ませちゃうから。ちょっと待たせちゃうけど、堪忍してね」
父は快く快諾する。唯は笑顔で走り出す。髪が風にたなびく。
公園の前で停止すると、唯は笑いの仮面をかなぐり捨てた。それから、父がどこかよそを見ているのを確認して、公園の隣に位置するホームセンターに向かって走り出した。
ホームセンターのやたらと広い駐車場を走りながら、唯はもう一度計画を確認する。
…沈黙させる道具は何でもいい。問題なのは、処理する道具。単純な性能だけでなく、耐久性が必要になってくる。それには…。


唯は数日前、ヒト以下の忌まわしいモノになる決心をした。


銀に輝く平たい刃を品定めしながら、唯はほくそ笑んだ。それはどこか、自嘲めいた笑みであった。ノコギリなんかをまともに選ぶことが、私の人生にあるなんて。
買ったノコギリは、公園のどこかに隠していく予定だった。あまり清潔な公園じゃないから、敷地に散らばっているゴミに混ぜておけばいい。
唯は比較的大きく、使いやすそうな一本を選ぶ。だが、その値段を見て唯の顔つきが変わった。あまりに高すぎる。同じものを何本も買ったら、予算を簡単にオーバーしてしまう。
もっと安くて唯の体格にあった小さいのはあるのだが、妥協はしたくない。
唯は舌打ちしたくなるのを必死で堪える。腹の中が悔しさで煮えくりかえる。畜生、今日というチャンスを逃したくなかったのに…!

「やあ、遅かったな」
「ごめんなさい」
唯は笑いの仮面を再度貼り付け、父のもとへ帰る。父は唯に缶ジュースを手渡してくれた。
唯はそれをちびちびと飲む。甘いフルーツの味が、敗者の味に思える。
唯はまた饒舌に話しながら、資金を得る算段を練る。


唯はその日、一日中資金を得る手段について頭を悩ませていた。
工面する方法はいくらでもあるが、それらは実行するとなるといささか厄介な問題がいくつもある。ハイリスクハイリターン。
それに、次に抜け出すタイミング。両親や憂は、唯を心配して目を離そうとしない。ノコギリなんて物騒なものを、堂々と買うわけにはいかない。
金とタイミング。この二つが、ただノコギリを買うだけのことを邪魔する。計画を遂行するまで、果たしてあとどれだけ邪魔が入るのだろうか。
唯は部屋の中を、役立ちそうなものがないか見回す。

答えは、意外にも簡単に見つかった。
部屋の片隅に置かれた、唯の愛用のギター。澪の両親が、お詫びにきた際に置いていったのだ。
唯の端正な顔に、三日月型の大きな切れ目が入る。
このギターは確か、10万以上はしたはずだ。紬がコネで大きく負けてくれたが、これを売りさばけば…。
唯はかつての相棒に、そして今は忌まわしい記憶の象徴であるギターに、優しく語りかける。
「最後の仕事だよ。ギー太」


翌日。軽音部の部室。
律は自分一人しかいないテーブルで、つまらなそうにガムを噛み続ける。
つい一週間ほど前までは、正面に唯が座ってて、澪と梓が隣にいたのに。そしてたわいない話に花を咲かせていたのに。 紬がお茶を持ってきてくれる。律は無理やりガムを飲み込む。
「ありがと」
「どういたしまして」
会話が続かない。律はのろのろとカップを口に運ぶ。味がしない。
「…練習、しよっか」
「…と言っても、ギターもベースもボーカルもいないからなぁ」
世界広し、と言えども、ドラムとキーボードだけのバンドなんてざらにないだろう。紬はうなだれてしまう。 また沈黙が支配する。


やがて律は、決然とした表情で立ち上がった。
「ムギ。あたし決めたよ。」
「?」
「あたしが直接、唯のやつを説得する。そして復帰させる」
紬は驚いたような、呆れたような顔で律を見つめた。自分でも単純で幼稚な方法だとわかっている。
だが、いくら考えたところで、これ以上いい方法など全く思いつかない。
「でも先生は、唯ちゃんを刺激しないよう、様子を見ていようって…」
「様子を見ている間に、唯のバカが何かとんでもないこと考えてたらどうする!それだけは避けたいんだよ!阻止するには一刻も早い対処が必要なんだ!」
律はカバンをひっつかむと、ドアに向かって決然と歩む。紬がその手を捕らえる。
「待って!なら私も行くわ!」


「いや、ムギは待っていてくれ」
「そんな、私だって唯ちゃんの友達なのに」
「ダメだ」
紬は納得できない。なぜ律がこんな意地悪を言うのかわからない。鋭い怒りが、律に向かって発せられる。
「なんで!なんで律ちゃんだけが!私だって、私だって唯ちゃんに会いたい!むしろ誰よりも一番会いたい!」
「わかってるさ。…だからムギ。お前が二番目だ」
紬はいぶかしむ。二番目?
「いいか?もし私達二人で行って失敗したらどうする?今度こそ八方ふさがりだ。だけど、一人ずつなら、失敗は一度だけ許される」
紬は律の目に宿る、強い炎を見る。怒りや憎悪とは無縁の、強い炎。
「私は友達を大切にする心で、ムギに勝てる気がしない。だからムギ。私が失敗したら、次はお前だ。お前が必ず唯を引きずり出すんだ」
紬は律の圧倒的に強い炎に負ける。そして力強くうなずく。
「ありがとう、ムギ」
そして律は、決然と音楽室の戸を開け、階段を一気に駆け下りた。

…待ってろよ、唯!


唯はその日一日中、ベッドの上でぼんやりと過ごしていた。
ギターを売りに行く予定だったのに、何故か腰を上げる気になれない。
そう言えば、かつて和は部活に所属していない唯をニート呼ばわりしてくれた。今の私、本当にニート同然だな。
…親は二人とも急用でいない。憂の一人や二人、振り払うのは簡単だろう。行くか、ギー太を売りに。
ベッドから起き上がり、最愛のギターを手にしようとしたその時、
ドアベルの音がした。


律は片手で胸を押さえて、息を整えていた。胸の高鳴りは、決して全力疾走したせいだけではない。
我ながら情けないなぁ。律は一人呟く。あれだけ勇んで飛び出してきたのに、緊張で喉に冷たいものがつっかえたような感じがする。まるで絶叫マシンで急降下する直前のような心境だ。
ドアが開き、唯ではなく憂が出てくる。憂はこれ以上ないくらいに嬉しそうな笑顔で迎える。
実際、律の来訪は、憂にとってこれ以上ないくらいに嬉しいものだった。この一週間、ずっと泣いたり落ち込んだりですっかり参ってしまった憂の心に、強い光が差し込む。
「おいっす、憂ちゃん」
「こんにちは、律さん」

律は憂に、今日の目的を、言うべき言葉を伝えようとする。ところがせっかく用意した台詞を、どこに落としてきてしまったらしい。頭がヒヤリと冷たくなるような焦りを感じる。
「お姉ちゃんのことですね?」
憂はもどかしげな律を、たった一言で落ち着かせる。律は首をぶんぶんと縦に振る。
「そ、そうそう、そうなんだ!」
憂は微笑むと、律と入れ違いに門から出る。夕飯の買い物があるらしい。
「なるべくすぐに戻りますね。ごめんなさい、せっかく来ていただいたのに、お留守番みたいなことさせちゃって。どうしても手が足りないんです」
「気にすんなって」
律はあっさりと返す。そしてやけに力強く、平沢家の戸を開ける。家に染み付いた唯達の生活の香りが、律の鼻孔をくすぐる。
憂は戸の向こうに消えてゆく律の背中に、ぽつんとつぶやいた。
「律さん…お姉ちゃんをお願いしますね。私、あなたと紬さんだけは信じてます」


「たのもーっ!」
律の声が、しんと静まり返った家に響き渡る。…何の物音も返ってこない。
滑ったかな?そう思った刹那、コトンとわずかな音が二階から聞こえた。かつて遊びに行った、唯の部屋の方からだ。
「唯ーっ、お前は完全に包囲されておる!速やかにお縄を頂戴しろーっ!」
おちゃらけた口調だが、律は緊張で声が裏返りそうだった。喉が渇いてきた。一歩一歩、力強く階段を踏みしめる。


唯の部屋のドアの前で、大きく息を吸い込み、吐き出す。それから人差し指と中指で、軽快にノックする。
「唯、入るぞ」
「それ以上近づかないでっ!」
唯の絶叫するような声が、律を拒む。覚悟はしていたが、唯の拒絶の声に律は深くえぐられた。心に物悲しい隙間が生まれる。
「…はは、ひどいな。せっかく来たっていうのに」
「せっかくのところ悪いけど、帰って。私、あなた達の顔なんか見たくない」
二度の拒絶の言葉に、律はカチンとくる。思わず声を荒らげてしまう。
「あなた達って…、私はお前に何もひどいことしてないだろうが!」


「今、この家にいるのは二人だけ。しようと思えば、いくらでも私を好き勝手にできる。あなた達は、そういう人達だもん」
「その“あなた達”ってのを止めろよぉっ!」
律は絶叫する。ドアの向こうの唯が沈黙する。律は肩で息をしている。真っ赤な怒りが暴れ竜のように、律の中でのたうちまわっている。律はそれをなんとかなだめる。
「…怒鳴って悪かった。今日は唯に、謝りたいことがあってきたんだ」
律はそこでひとつ息をつく。唯は沈黙を保ったままだ。
「…あの日、梓が唯と二人で猛練習するって言った時に、私たち全員であいつを止めるべきだった」
唯が演奏を乱して、梓が怒って。唯はあの時、三人全員に救いの手を求めていた。なのに三人とも、それに応じなかった。平和な光景程度にしか考えていなかった。
「あの時、あたしたちが止めていたら、後のことは全部おこらなかったはずなんだ。…すまなかった、唯。…ごめんな」


ドアの向こうの唯は、沈黙を保ったままだ。律はこれだけのことを言うのに、せっかく貯めてきたエネルギーをほとんど使ってしまう。エネルギーの缶の底をかき回すように、律は言葉を探す。
「だから、…唯、もしも私を許してくれるなら、約束してくれ。学校に戻ってくるって」
言葉のひとつひとつが、喉が火傷しそうになるくらいに熱い。
「ムギのやつは、毎日弁当もろくに食えないほど落ち込んでる。さわちゃんなんか、張り合いがなくなったってお茶を飲みにすらこない。…唯が必要なんだよ、みんな」
鼻の奥が詰まって、それ以上言葉が発せられない。唯は一言も口をきかない。
「…ごめん」
やがて律は、背を丸めてのろのろと階段に向かう。
一歩降りたところで、背後で戸が開く音がした。唯が、戸口に立っていた。
「入っていいよ」

律はテーブルの前にちょこんと腰かける。かつて、四人で勉強会をやったあのテーブルだ。唯はベッドの片隅に座っていた。
部屋は以前見た時とは、比べものにならないくらいに散らかっていた。衣類や小物などが、無秩序に放置されている。
律はそれらの中に、合宿の写真の残骸を発見した。写真は全部バラバラに引き裂かれ、一部ライターか何かで焼かれた跡があった。律の胸の隙間に、冷たい風が走る。
「とにかく、入れてくれてありがとうな。ずっと立ったまんまだときつくてきつくて」
唯はそれには返事しない。律は唯の机の上に携帯を発見する。
「なんだ、手元にあるじゃん、ケータイ。何通メールしたと思ったんだよ」
「…うん、律ちゃんからはたくさん来たね。悪いけど、見る前に全部消しちゃったよ」
律はメールを消されたと聞いても動じない。むしろ、“律ちゃん”と呼んでくれたことに感謝する。胸にひたひたと熱いものが湧き上がる。
「でも、あのヒト達からは、全然こないの」


5
最終更新:2010年01月22日 03:00