「ちょっ、待って」

左手を強く引かれて、靴の片方がひっくり返っているのを気にしながら階段を駆け上がる。
リビングに辿り着くなり身体ごと押されて、もつれ合うようにソファに倒れ込んだ。

「ちょっと、待ってってば、ねえ、まっ……!」

馬乗りになった彼女に唇を塞がれて、言葉を奪われる。
ひょいと外された眼鏡の行方は、多分またソファの背もたれの上だろう。

噛み付くような激しいキスに呼吸が乱れて、
たまらず開いた唇の隙間から柔らかな舌が滑り込んできた。

「……んっ、……ん」

「……っ、すきっ……、のどか、ちゃんっ、すき……!」

彼女は両手で私の頬をがっちりと押さえて、
忙しく舌を絡ませながら、吐息を漏らすように私の名を呼ぶ。

「……ッ、はッ……、まっ……、待って!」

酸素を求めて互いの唇が離れた隙に、ぐい、と両手で彼女の肩を押し上げた。
腕の長さぶんだけ二人の唇が遠のく。

「っはぁ、はあ……」

「はっ……はー……」

窓を閉め切った蒸し暑いリビングに、二人の荒い呼吸が響く。
お預けされた犬のような目で見下ろしている彼女の額から鼻先へと滑った汗が、
ぽたり、と私の頬に落ちた。

両手で彼女の肩を掴んだまま深呼吸をしたら、肺の中が汗と唾液の匂いで満たされた気がした。
なんとか息を整えてから、ようやく口を開く。

「……玄関、鍵掛けてないよ」

「……あっ、忘れてた」

慌てちゃった、と舌を出した彼女に、小さく息を吐く。

「それと……、制服も皺になるし……暑いし……。汗、かいてるし……」

「うん?」

「……先に、シャワー浴びない?」

私の提案に彼女は少し眉を上げて、すぐにいたずらっ子のような笑顔を作った。

「そうだね。シャワー、浴びよっか」

「それに……」

「うん、わかってる、だいじょーぶ」

私の言葉を途中で遮り、頬に落ちた汗の粒をぺろりと舌先で掬い上げる。

ぬるい室温の中、しょっぱいね、と呟いた彼女の唇が緩やかな弧を描くのを
私はぼんやりと見上げていた。



ーーーーーー



「和、おはよう」

「おはよう、澪。今日も暑いわね」

「ほんと。夏だからしょうがないけど、毎日こう暑いと嫌になるよ」

私よりも5分ほど遅れて教室に入ってきた澪と挨拶を交わす。
教室のアチコチで夏を恨むような会話が飛び交い、うちわ代わりの下敷きがぱたぱた揺れる。

「……あれ?和、首の後ろ」

「え?」

「蚊に刺されたの?」

赤くなってるぞ、と澪に指摘されて、咄嗟にてのひらで押さえた。

「ああ……。うん、ゆうべしつこい蚊がいてね。どおりで痒いと思ったわ」

「痒み止め持ってるけど、塗っとく?」

「うん、ありがとう」

「あ、自分じゃ見えないだろ。塗ってあげるからあっち向いて」

澪はそう言って、
スクールバッグから取り出したスティックタイプの痒み止めを私の前に掲げてみせた。

「襟、ちょっとめくるよ。……うん?なんかこれ……」

「あぁ、ちょっと掻きすぎたのかも。そんなに赤くなってる?」

「あ、うん、結構赤いよ。虫さされはあんまり掻いちゃだめだぞ?痕が残るから」

「分かってはいるんだけど、つい無意識にポリポリッと、ね」

「ははっ、まあわかるけど」

首筋を撫でるぬるりとした感触に、思わず身震いする。

「あっゴメン、沁みた?」

「ううん、ちょっとくすぐったかっただけ」

ありがとう助かったわ、と口角を上げてみせた私に、
澪は、どういたしましてと微笑みを返した。

予鈴が鳴って、クラスメイト達がおしゃべりしながらそれぞれの席に向かう。
ふと用事を思い出して、澪を呼び止めた。

「軽音部、また書類出し忘れてるわよ」

「えっ。何の書類?」

「校外活動の申請書。今年も合宿するんでしょ?」

「ああ……。あ~もう、律の奴!」

はぁ、ごめんな、と溜息を吐いた澪に、大丈夫よと微笑んでみせる。

「放課後にでも、申請用紙持って部室に寄るわね」

「そんな、悪いよ。律に生徒会室に行くよう言っとくから」

「いいのよ、あわよくばムギの淹れたお茶を飲ませてもらおうって算段だから」

そう言うと澪はきょとんとした顔をして、それからくしゃりと表情を崩した。

「わかった、じゃあ待ってる。いつもありがとう、和」

どういたしまして、と笑みを返すのと同時に教室前方のドアが開いた。

慌てて自席に向かう澪の背中を目で追いながら
首筋に付いた痕をそっとてのひらで隠して、私は小さく溜息を吐いた。



ーーーーーー



「ぷぅ~ん……ちくりっ」

「やめなさい」

くすくすと笑いながら首筋の痕をつつく彼女の手を、やんわりと払う。

「見える所にキスマーク付けないでって、いつも言ってるでしょ」

「付けようと思って付けたわけじゃないよ。ついうっかり、だよ」

「付けたなら同じことよ」

「手厳しいなぁ、和ちゃん。……ゴメンね?」

言葉とは裏腹に彼女は依然として笑ったままで、上体を起こして私を見下ろすと
ゆっくりと顔を近づけ、ちゅう、とわざと音を立てて唇を吸った。

「……もう。全然反省してないでしょ」

反省してるよ~?と応えた彼女の頬を軽くつねってから、栗色の髪に触れる。
指をゆるゆると滑らせて後ろ髪を束ねる山吹色のリボンをつまんだら、
駄目だよ和ちゃん、と彼女は笑顔のまま私の手首を掴んだ。

「メッ、だよ。こうしてる時は、髪を解かないって約束だよね?」

「……そうだったわね、ごめんなさい。……憂」

その名前を呼ぶと彼女は僅かに目を細めて、
はぁ、と大きな溜息とともに私の胸に顔をうずめた。

「ねえ和ちゃん」

「うん?」

「お姉ちゃんが合宿行っちゃうと、寂しい?」

「……。そうね、寂しいかもしれないわね」

「……ふぅん」

「……」

私の呼吸に合わせて上下する彼女の頭をやんわりと撫でる。
彼女は少し身じろぎして首を捻ると、右耳と頬を私の胸に押し当てた。

「……ねえ、和ちゃん」

「なあに?」

「どうすれば私たち、フツーに幸せになれるんだろうね」

「フツーに幸せ……ねえ」

「……」

「……」

「……。和ちゃんの心臓、トクントクン鳴ってる」

「そりゃあ、生きてるからね」

「……うん」

「ねえ。フツーの幸せって、たとえば?」

「え……。みんなとおんなじように、フツーに色々できること、かな」

「みんなって?」

「うんと……。友達とか、クラスメートとか?」

「そう」

「……」

窓を閉め切った部屋に籠った空気を、扇風機が首を振ってかき混ぜ続けている。
日が落ちたとはいえ、昼間の熱が残る部屋は居るだけで汗が噴き出す。

彼女のベッドの上、裸で抱き合う二人の汗はどちらのものか分からなくなるほど混ざり合い、
火照った肌を滑り落ちてオフホワイトのシーツを湿らせていく。

髪を撫でていた手を止めて、しっとりと濡れた彼女の背中に両腕を回す。
ぎゅっと力を入れて抱きしめたら、彼女は温かな溜息を漏らした。

「……私はね、」

「んー?」

「私は、誰かを基準にしないと計れない幸せなんて別に欲しくないわ」

彼女が一瞬、呼吸を止めたのが分かった。
少しの間があって、はぁー……、と長く息を吐いて全体重を私に預けてくる。

「……なんか今、すっごい幸せ感じちゃった」

私の胸に頬を付けたまま喋る彼女の声が、振動となって身体に響く。
それがやけに心地よくて、知らず笑みがこぼれる。

「そう? よかった、って言っていいのかしら」

「えへへ……。ねえ、和ちゃん」

「うん?」

「大好き」

「……。私もよ」



ーーーーーー



夏休みも二週目に入った。
立てたスケジュール通り順調に宿題をこなしていたら、勉強机の隅で携帯が鳴った。
ディスプレイを見ると、軽音部の夏合宿に行っている唯からの着信だった。

「もしもし、唯?」

『あ、和ちゃん?元気にしてるー?』

「一昨日会ったじゃない」

『そうだけどさあ、なんとなく言いたい気分ってものがありまして』

「はいはい、元気よ。そっちも元気にやってる?」

『うん、みんな元気だよー。海で遊んで、あずにゃんなんかもう真っ黒になっちゃって』

「遊んでって……。練習はしてないの?」

『えっ、うん、練習も、ちゃんとやってるよ、うん』

「……ギター失敗して、梓ちゃんを困らせたりしてない?」

『おや真鍋さん、妬いていらっしゃるので?』

「用事がないなら切るわよ」

『まっ!待って!あるある、用事あるから!』

「はぁ……。それで、何?」

『んとね、合宿から帰ってからのことなんだけど』

「うん?」

『お父さんとお母さんが戻ってこれないみたいで、私があっちに行くことになっちゃって』

「うん」

『だから、合宿から帰って、また一週間ほど留守にしちゃうんだ』

「そうなんだ」

『……ごめんね?』

「別に、謝らなくてもいいわよ」

『……うん』

「……」

『……』

途切れた声の代わりに、波の音と、さくさく砂を踏む音が聞こえてくる。

「唯、いま外にいるの?」

『うん、ムギちゃんちの別荘からすぐの砂浜。星がきれーだよ。和ちゃんにも見せてあげたい』

「そう」

『ねえ和ちゃん』

「なあに?」

『お父さんたちのところから戻ったら、二人でどこか出掛けようよ』

「……そうね。でもその前に、唯」

『うん?』

「そんなに遊んでて、宿題、夏休み中に終わるの?」

『うぐっ……。痛いところを』

「……まあ、いつも通り泣きついてくるんだろうけど」

『えへへ……いつもありがと。和ちゃん大好き』

「はいはい」

『んもう、違うでしょ!』

「え?」

『私が、大好きって言ったら?』

「……」

『……』

「……。私も大好きよ、唯」



ーーーーーー



耳を突く、蝉時雨。
激しく降る雨音のように絶え間なく流れ込んでくるその鳴き声が、
空っぽになったこの身体をいっぱいに満たしてしまいそうな気にさえなる。

喉が乾いた。

見慣れた自室の天井を仰ぎ見たまま、こくり、と喉を鳴らして唾液を飲み込む。
額にぷつりと浮いた汗が、つう、と眉間から頬を滑って白いシーツに落ちる。

こんな時でも喉は乾くんだ。当たり前のことが悲しくて、視界がじわりと歪む。
こんな時でも私の身体は水分を欲して、まるでもっと泣けとでも言われているみたいだ。


ふ、とあの子の笑顔を思い出した途端、胃がぐるりと反転したような不快感に襲われた。
背中を丸めてシーツを噛み締め、せり上がってくる吐き気をこらえる。

「……ッ、うぅ……ッ」

脂汗と涙が混ざり合ってこめかみを伝い、シーツにぱたぱたと染みを作った。


唯が軽音部の夏合宿から帰宅した翌々日。
ご両親の赴任先に向かうため乗った空港行きの高速バスが、多重事故に巻き込まれた。

バスは運悪くトレーラーと橋の欄干に挟まれる格好となり、
乗客に多くの死傷者を出すことになってしまったそうだ。
事故の仔細は、葬儀中ずっと後ろに立っていた近所のおばさんたちの会話で知った。

葬列には、互いの肩を抱いて泣きじゃくる澪と律、ムギの姿が見えた。
それから今にも崩れ落ちてしまいそうな梓ちゃんと、彼女の小さな身体を支える山中先生。
他にも見知った制服姿の子が居たように思うけれど、誰だったのかは全く覚えていない。

私はというと、喪服姿の父に肩を抱かれたまま、涙の一粒も流せずにいた。
ショックが大き過ぎて現実を受け入れられないのだろうと同情の目を向けられても、
ただぼんやりと、綺麗な花で縁取られた唯の笑顔を見ていることしかできなかった。


……唯の葬儀が終わって、3日目の夜。
それまで一切食べ物を受け付けなかった胃が空腹に耐えきれず鳴いたとき、
私はようやく声をあげて泣いた。


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最終更新:2011年08月03日 18:28