唯先輩たちがいないというのに、学校は朝からどこか騒がしかった。

 今日から3年生は修学旅行で、来週明けまで戻ってこない。

 他の部活は違うだろうけど、その間私一人になる軽音部はお休みだ。

 先輩たちは、たくさんメールをするからねと言ってくれたけれど、今のところまだ1通だ。

 楽しくて忘れてしまっているなら、別に……構わない。

 だけどさっきから何度も横で憂の携帯がぶるぶる震えているのを見ていると、

 少し、嫉妬がましい気持ちも芽生えるかな、などと思うところ。

 ほら、また。

憂「お姉ちゃんからだ」

梓「見せて見せて」

 私は憂の開いた携帯を半ば強引に覗き込んで、メールを見せてもらう。

 今日の私は、そうしてなんとか寂しくならないよう保っていた。

 授業が終わるまでに、メールはあと2通来た。

 4時間目の真っ最中に律先輩から来た金閣寺の写メ(自称、金閣! と寒い上に間違ってるダジャレ付き)と、

 6時間目の終わる直前にムギ先輩から来た、お茶用意できなくてごめんね、という律儀なメール。

 後者には、今日はそんなこと気にしないで楽しんでください、と返信を打っておいた。

 律先輩は、ほうっておいたら追撃してくるかと思ったけれど結局そのままだったから、

 帰りのHRのあと、おもしろくありませんと返しておいた。

 ともあれ、どうにか居たたまれない思いがこらえきれなくなる前に学校が終わってくれた。

 明日と明後日は休みだから、寂しければ泣いても、先輩に電話したっていい。

 私はかばんを肩にかけ、立ち上がる。

憂「梓ちゃん、純ちゃん、ちょっといい?」

 そしてドアに向かおうと歩き出す前に、憂が声をかけてきた。

純「どうしたの、憂?」

 部活に行く準備をしていた純が答えた。

 私も憂に顔を向ける。

憂「ちょっと、お姉ちゃんの教室寄りたいんだけど……」

 相手が純だったら、一人で行ってればとあしらって帰ることもできた。

 ほんとなら一刻も早く一人になりたいし、唯先輩たちの教室なんて入りたくない。

梓「唯先輩の教室って、どうして?」

憂「私もメールで言われて気付いたんだけど、お姉ちゃん昨日お弁当箱忘れてきちゃったみたいだから」

純「ああ、持って帰らないとって」

憂「うん。ちょっとだけつきあってほしいかなって……」

 だけど憂は、そういうことを言われるキャラじゃないし、何より私たちの友達だ。

 私はそれとなく純を窺ってから、あきらめて頷いた。

梓「まあそのぐらいなら……」


 当然だけど、3年生の教室は電気がついておらず、うす暗かった。

 私は廊下の窓から、唯先輩たちの教室に誰もいないことを確認すると、そっとドアを開けた。

憂「失礼しまーす……」

純「別にどろぼうしようって訳じゃないんだし、そんなにコソコソしなくても」

梓「そうだよ、憂」

純「いや、梓に言ってるんだけど……」

梓「……」

 純の言葉は都合が悪いので無視して、私は足音を立てないように教室の真ん中へと行った。

梓「唯先輩の席は、窓際のいちばん後ろだよ」

憂「ほんとだ、お弁当箱あった……ありがとう、梓ちゃん」

梓「どういたしまして」

純「澪先輩の席は?」

梓「たしか、そのあたりだったと思うよ」

 答えてから、私は内心、身構えた。

 純も少しにやりと口元を歪める。

純「唯先輩の席はわかるのに」

梓「覚えやすい場所にあるから」

 そう、隅のわかりやすいところにある。

 だから覚えていただけ、と口の裏で繰り返した。

純「まあいいけど……うーん、この席!」

 純はいじわるな顔をやめ、並んだ机を見比べた後、適当な席に座った。

梓「……なにしてんの?」

純「澪先輩の席に座って、澪先輩の魅力をいただけないかと」

梓「ばかすぎるね」

純「私は本気だ」

 でも、言われて少し思うことがあり、私はちょっと鼻をきかせてみた。

 さすがにほこりっぽい匂いがするだけで、先輩たちの匂いを感じられるわけはなかった。

 毎日かけている席でも、堅い木には人の匂いなんてしみつきはしない。

 しみつくとすれば、彼女のぬくもりくらいだけれど、少し風が通ればすぐに冷め、

 表面にニスのつややかな発光を残すだけになる。

 それはまるで私と、彼女のように匂い、彼女のように暖かい憂との違いに思えた。

憂「お姉ちゃんの机だ……」

 憂も純のように、唯先輩の席におさまっていた。

 私だけ立っているのは落ち着かないけれど、

 この教室の椅子に座るということの意味を思うと、仲間外れの心地に耐えるほうがよほどよかった。

梓「……はぁ。嬉しそうに」

純「でもまあ、仕方ないよね。憂は今日から2日、一人で家に留守番なんでしょ?」

憂「え?」

 机の落書きを恍惚とした顔で眺めていた憂は、ふいに顔を上げてまばたきをした。

純「うん、だって唯先輩修学旅行じゃん……」

憂「……そうだった。お姉ちゃん、帰ってこないんだ」

純「いや、2日したら帰ってくるから」

憂「お姉ちゃぁん……」

純「泣いたー!?」

梓「……」

 憂は机に伏して、しばらくわんわん泣いていた。

 純が頭を撫でて、すぐ帰ってくるからと何度か励ましたけれど、おさまらず。

 ポケットの携帯が震えて、唯先輩からのメールだと気付いたとたんに、泣き止んでいた。

梓「……憂って寂しがりなんだね」

憂「そうみたい。……えへへ」

純「まったく、焦ったよ……梓もちょっとは手伝ってよ」

梓「ごめんごめん。……じゃ、帰ろっか」


 憂の携帯は、その後もよく震えた。

 そのたびに憂は、ちょっと待ってと足を止め、にこにこして返事を打っていた。

 ……唯先輩からの、私へのメールが少ないんじゃない。

 唯先輩からの憂へのメールが、ずっと多いだけなんだ。

 唯先輩は、憂がすごく寂しがりなことを知っている。

 ふた晩会えずに過ごすだけで憂は泣き出してしまうことも予想できるくらい、しっかりと。

 だから唯先輩は、ほとんど絶え間なく、憂にメールを送り続けている。

 憂が寂しがって、泣いてしまわないように。

 そして唯先輩は、ただ知らないだけなんだ。

 私が先輩たちにたった3日会えないくらいで、今にも泣き出したいくらい寂しがりなことを。

 それぐらいに、もしかしたら……唯先輩のことを、好きなのかもしれない、ということを。

 私とふれあった時間なんて、ぬくもりもしみつかないほど短いのだし、

 私は決してそれらを悟られないように強がってきたのだから、知らないのは当たり前だ。

梓「……ふぅ」

 罪に身を浸した心地に、私は空へため息を吐きかけた。

 特別な想いなどありはしない。

 唯先輩は、軽音部の先輩のひとりだ。

 そう弁明して、憂を振り返る。

憂「よしっ……ごめんね、おまたせ」

 憂は慌てて駆けてきた。

 それに合わせるように私も歩き出そうとしたけれど、

 手を腰に当てて止まったままの純を見てなんとか足を止めた。

純「……憂、よほど寂しいんだね」

憂「うん……」

 憂は恥ずかしそうにうつむいた。

純「……よし、決めました!」

 いやな予感がする。

 私は純をひっぱたいて、さっさと行くよと歩き出し……といきたい気持ちをぐっとこらえた。

梓「なにを……」

純「唯先輩が帰ってくるまで、私と梓が一緒にいてあげる! ていうか憂んち泊まりたい」

憂「純ちゃん……」

 本音出すの早すぎない? とつっこむ前に、憂はくすりと笑った。

憂「ありがとう。助かるけど……梓ちゃんはいいの?」

梓「私は……」

 できれば、いいかげん一人で堰を切って泣き出したいところだ。

 だけど、そうして流す涙は、本当に寂しいだけの涙なんだろうか。

 一人でいたら、そんなことを疑いだしそうだ。

 それが何より重要なことなのだ。

 きっと私は一人で泣いていれば、

 憂が今ごろ唯先輩と電話をして、寂しさをやわらげてもらっているんじゃないかと考えだし、

 もはや言い訳もつかないぐらいの嫉妬に駆られる危険性があった。

 唯先輩を好きだというのは、ちょっとした気の迷いにすぎない。

 今まで、あんな風に抱きついてくる女の子はいなかったから、1年たっても、驚きが抜けないだけなんだ。

 私は女の子で、唯先輩も女の子。

 好きになるなんてありえっこない話。

 気を確かにもって、狂気をおさえたいんだったら……

梓「……憂さえ、いいなら」

憂「大歓迎だよ! 梓ちゃんも来てくれる?」

梓「うん。私も先輩たちに会えなくて、ちょっと寂しかったところだし」

憂「じゃあ、私さきに帰って準備するよ。純ちゃんたちも2日泊まるなら、お家帰って支度しないと」

純「いやいや、買い物とかするなら量多くなるでしょ。とりあえず買い物付き合うよ」

憂「それでも夜からで大丈夫だよ。純ちゃんも梓ちゃんも、そんなに家遠くないでしょ?」

純「んー、じゃあ一旦帰って準備するか、梓」

梓「そうだね」

 あまり気の進まない私の前で、これからのことはどんどん決まった。

 走っていく憂をぼうっと見送り、私たちは一度家に帰って泊まり支度を整え、憂の家の近くで落ち合った。

梓「あれ、純の荷物少ないね」

純「ああ、着替え削ったんだ」

梓「削ったって……裸で過ごすつもり? やめてよね」

純「いや、洗濯させてもらおうかと」

梓「遠慮ってものがないね」

 まあまあ、と笑った純に付いていき、憂の家へとやってきた。

 ……唯先輩の家か。

 純がインターフォンを鳴らすと、足音が駆けてきて、普段着の憂がドアを開けた。

憂「いらっしゃい。待ってたよ」

純「ごめんね。寂しかったかいお嬢ちゃん」

憂「お姉ちゃんがメールくれてたから、大丈夫」

純「あ、さいですか……」

梓「……とりあえず、お邪魔するね」

 私の携帯には、律先輩の楽しそうな返信があったぐらいで、唯先輩からは朝の1通以来なにもない。

 唯先輩が知っている私は、気が強くて抱きつきやすい普通の女の子だし、私はただの後輩だ。

 だから、それでいい。

 そうでなければ困ってしまう。

 私たちはリビングに荷物を置いて、純をすこしくつろがせてから買い物に出た。

 憂と献立を相談しながら食材を選ぶ。

 一緒にいるのが憂と純じゃなく、唯先輩だったらと心から思う私は最低だ。

 家に帰って調理を分担し、みんなで夕ご飯にして、お皿を片付ける。

 別々にシャワーを浴びて、他愛ない話で盛り上がっているうちに、あくびが漏れるようになった。

 もちろん、そのうちにも唯先輩の憂へのメールが、少し頻度は下がっても止むことなかったのは言うまでもない。

純「ふわああぁ……そろそろ寝ようかあ」

憂「そだね……おねえちゃんにもおやすみって言う」

 憂もあくびを噛み殺しながら、ぽちぽちとメールを打った。

梓「それで憂、私たちはどこで寝たらいいの?」

憂「ん、お母さんたちの部屋はさすがに怒られるから、私の部屋とお姉ちゃんの部屋だね」

梓「唯先輩の部屋は使っていいんだ?」

 できるだけ冷めたように言ってみせるけれど、言い終えたとたんに、肌を熱いものが走った。

純「うん、去年は合宿のときに泊まらせてもらったんだけど、私そのときも唯先輩の部屋で寝たから」

梓「そうなんだ」

 からかわれるかと身構えたけれど、純は指を振って言っただけだった。

純「もしかしたら、私だから唯先輩はベッドを許してくれたのかもしれないけどね……」

梓「自分が何言ってるか理解してるの、あんた」

憂「まあまあ……だけど、今回はベッドが足らないね」

 のらりくらりと憂は言う。

 わざわざ数えないでも、ベッドの不足はわかりきっていた事態だ。

純「だったら」

梓「じゃあ純がソファか……かわいそうに」

純「遮んな」

純「なにもベッドは一人ひとつって決まってる訳じゃないじゃん。憂、一緒に寝よ」

憂「うん。梓ちゃんはお姉ちゃんの部屋でいい?」

 口を挟んだもむなしく、二人は手を繋いで立ち上がった。

梓「……まあ、かまわないよ」

憂「明日は、梓ちゃんと一緒に寝るから」

梓「そんな気の使い方しなくていいって……まあ、ありがと」

 はじめから結託していたような流れだ。

 私の、曖昧な想いを知っていて……?

 まさか。誰にも伝えていないのに、バレているわけがない。

 純の言う、私が唯先輩を好きだなんて説も妄想の果ての悪ふざけにすぎない。

 本気で同性愛者を応援しようなんて、私にはとてもできない。

 いやそもそも、私は同性愛者ですらないのだけど。

 私は憂について階段を上がり、トイレの場所を示された後、唯先輩の部屋へと通された。

 部屋に入ったとたん、ふわりと軽くて透明な唯先輩に抱きつかれた気がした。

 鼻で記憶した、言葉にできない唯先輩の匂いがする。

 憂が電気をつけると、唯先輩の腕に絡めとられている幻想は消え去った。

 代わりに、ありありとした唯先輩の痕跡が、現実となって視界に現れた。

憂「それじゃ、何か困ったことがあったら私は隣の部屋にいるから言ってね」

梓「うん、ありがとう……」

 あのめくれて、ぐちゃぐちゃにされた毛布に、唯先輩はいつも包まれているんだ。

 皿のようにへこんだ枕にいつも頬を乗せ、眠っているんだ。

 憂が、おやすみといって扉を閉めた。

 私は、唯先輩の痕跡と、二人きりになる。


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最終更新:2011年08月13日 22:27