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 なぜか私には、そこがいつもの唯先輩と違う匂いを吸い込んでいることが、近づく前に簡単に悟れた。

 純はその匂いが特別なことすら知らないで、ここに寝たのか。

 いまさらになって、嫉妬の情念がめらめら炎を吐いた。

 そしてその火を、私は知っているという優越感が覆い消し、

 なにをくだらないことを考えているんだろうと平静が冷まし、

梓「っ!」

 そしてまた、憂への嫉妬が体をぶわっと震わせた。

梓「……」

 ふわり。

 唯先輩が背中から抱きついて、私はひざまずいた。

 やめてくださいって、いつも言っているのに、唯先輩はちっともやめてくれなかった。

 それどころかもっと愛しそうに、かわいいかわいい言って私を抱いてきた。

 もし、私の言うことをきいて、やめていてくれたら。

 私は唯先輩の柔らかい匂いも、声の甘さも、ほおずりの幸福も、

 腕の中の居心地さえも本当の意味で知ることはなかったし、愛することもなかったはずなのに。

 いくつもいっぺんに教えられて、唯先輩のことがどんどん気になるようになって。

 すぐ。ほんとうにあっという間に、唯先輩の全てが愛しくなっていた。

 こんな情けない理由で好きにさせるから。

 私は素直に、唯先輩に大好きだって言うことができないんだ。

梓「……」

梓「やめてくださいよ……」

 言うと、唯先輩はショックを受けたような顔をして、なおも抱きすがってくる。

 ……唯先輩のことはすきじゃありません。

 心の中で強く、願うように言いつけると、唯先輩の重みが、息をのむ気配とともに消えた。

梓「……ふぅ」

 私はバカか。

 好きなはずがない。

 唯先輩は女の子なのだから、これを恋と呼べるはずがない。

 これは尊敬と、親愛と、安心と、あと何かが混ぜこぜになった感情だ。

 唯先輩とは、そういう相手に過ぎない。

 だから私はのっそり立ち上がって、毛布をぐっと引っ張った。

梓「失礼します……」

 どこかにいるような唯先輩の気配に向けて言い、

 私は初めてふれる唯先輩の香りに包まれて目を閉じた。

 とても心地よい香りは、唯先輩とともに液体になり、ともに溶けていくような夢に誘った。

 びしょびしょの体で、唯先輩が私に抱きつく。

 私の体の中に唯先輩がしみこみ、私の体は唯先輩に溶かされていく……

憂「梓ちゃん」

梓「うわっ!?」

 唐突に現れた憂に名前を呼ばれ、びくりと体が跳ねた。

 反射的に体を起こし、腕があることに驚く。

憂「ご、ごめんね起こしちゃって……」

梓「いや……いいけど、どうしたの?」

憂「ちょっと、純ちゃんがね……」

 まさか純、襲ったのか。

 完全にただれていた私の頭は、純を私と同じような人間に貶めて、そんなことを考える。

憂「……寝相が、ひどくって。ベッドを追い出されちゃったから、梓ちゃんと一緒に寝ていい?」

 そりゃそうだよね。

 いくら純でも、レズじゃあない。

梓「別にいいよ。……ほんと純って遠慮ないよね」

憂「純ちゃんはそこがいいところなんだよ。悪いところでもあるにはあるんだけど」

 私は憂のほうに枕をずらし、壁ぎわに寄ってまた横たわった。

梓「……まあ私だったら、今日憂の家に泊まるとは言い出せなかったかも」

憂「うん、すごく嬉しかった」

 憂は枕を突っ返して、部屋から持ってきたらしいクッションを置くと、そこに頭を乗せて毛布に入る。

 顔に乗せられた枕から、唯先輩の使っているシャンプーの匂いがした。

梓「ぷは」

 枕をひっくり返して敷きなおすと、私は毛布の位置を調節した。

憂「梓ちゃん、もうちょっと近くに来ないと毛布足らないかも」

梓「そうかな……じゃそっち行くよ」

 私は体を起こして、また枕をずらし、おしりを憂のほうに動かした。

 ふと、憂の顔を見る。

 ポニーテールをほどいた表情は、きょとんと私を見つめ返していた。

憂「どうかした?」

梓「……うーん。何でもない……と思う」

 たった今、憂でもいいからこの匂いの中、口付けてしまいたいと思った私は、

 よほど最低な欲望にとりつかれて、しかもそれを愛と呼ぼうとしているようだった。

憂「変な梓ちゃん」

梓「そうかも」

 笑う憂に笑顔を返して、枕に頭をうずめた。

 そして目を閉じると、液体の唯先輩を何度も蹴飛ばして拒絶しながら眠った。

 その夜みた夢は覚えていないけれど、とにかくひどく暑くて、起きてすぐシャワーを借りた。

 髪をかわかしていると案の定、

純「あこがれの唯先輩のベッドの寝心地はどうだった?」

 と純がにやにや聞くものだから、

梓「澪先輩のベッドぐらいには心地よかったよ」

 と答えてやったら、本気で信じて悔しがっていた。

 憂と純と過ごす丸一日は、かくして始まった。

 ごろごろして動かない純と、ぐったりして動かない私に、

 憂は当たり前のように朝食を作って出し、にこにこして箸を渡した。

 憂はきっと、唯先輩だけを愛しているのではない。

 だけど憂は、唯先輩だけを特別に愛しているのは間違いないな。

 なんて味噌汁を吸いながらぐちゃぐちゃ思った。

純「ごちそうさま」

 早々に純が食べ終えると、ぱしんと手を合わせて頭を下げた。

 憂を見てみると、嬉しそうにしながらきゅうりの漬物をかじっているところだった。

 それだけの、普通の顔だ。

 ごちそうさまと言ったのが唯先輩だったら、憂はきっとなにか言う。

 なにか言ったら、唯先輩は負けないくらいの笑顔でなにか返す。

 そうなんだろう。

 じわりと、食べた朝食が胃で嫉妬に変貌するのを感じる。

 私が欲しくてたまらない日常は、いま憂が独占しているのだ。

 そこまで考えがいって、思い直す。

 私もたいがいではあるにしろ、憂は私が欲しくてたまらない非日常は、決して手に入れられないのだ。

 悪い心はおさまってくれて、私はほどほどに冷めたごはんをぱくりと食べた。

純「このあとどうするー?」

 退屈そうに純は言った。

憂「んー。どこか遊びにいく?」

梓「どこかと言ってもね……雨の予報出てるから、外はどうかな」

 携帯の予報を見ながら答える。

 今日はいよいよ、先輩たちみんな夢中になっているみたいで、メールは1通もなかった。

 お土産を忘れやしないだろうか。

 もちろんそのくらい忘れたって、ちゃんと4人揃って部室に戻ってきてくれたらそれでいいけれど。

憂「じゃあ家で過ごそっか。傘持っていくのもめんどうだしね」

純「だねー。もう一眠りするかあ」

 純がソファにのぼって、ばたりと倒れた。

梓「……え、まだ寝るの?」

 純に安眠を妨害された憂か、ろくに眠れなかった私が言うならわかるけれど、

 豪快に寝ていたはずの純が言うと、なんていうか引く。

純「そりゃあ女子高生がろくにすることない時にやることといえば、昼寝しかないでしょ」

憂「確かにお姉ちゃんもよく昼寝してるけど……」

梓「純、いまは人んちに泊まらせてもらってる立場なんだよ」

純「……じゃあ憂、あそぼっか」

 しぶしぶといったご様子で鈴木女史は起き上がりになられた。

憂「なにして遊ぶ?」

純「私にまたがれ」

梓「やめろよ!」


 あやうく純にグーパンかますところだった。

 憂は憂で、ちょっと照れたような顔しちゃってるし。

 キャラは守ろうよ、憂。

純「冗談冗談。んー、考えてみりゃ、家の中で遊べることってないよねー」

梓「あるでしょ、折り紙とかトランプとか」

憂「ごめん、どっちもうちには……え、折り紙?」

純「まあ……あったとしても、トランプでこれから10時間以上潰すのは厳しいっしょ」

梓「……」

 折り紙って今はもう遊びにならないんだ……覚えておこう。

 それはそれとして。

 話はまた振り出しに戻ってしまった。

純「はー。こんなときその辺の萌えアニメだったらツイスターゲームとか出てくるのに」

梓「あれ手足短い私が不利すぎてやだ」

憂「あるけど……ツイスターゲームのボード」

純「いや、ノーサンキューで……」

憂「……じゃあ普通にお茶飲んで、お話しながら過ごそうよ」

純「おっ、いいね。休日ティータイム! 優雅なおぜうの午後……」

梓「純、まだティータイムに変な憧れ持ってるんだ」

純「先輩に変な憧れ持ってる梓に言われたくない」

梓「それむしろあんたでしょ」

 頼むから日常会話に織り混ぜてこないで。

憂「……とりあえず、お茶わかしてくるから待っててね? 軽音部と違ってティーパックだけど」

 憂はいたたまれなさそうに、とことこ台所に走っていってしまった。

梓「ちょっと……憂怒ってたよ」

純「だってねぇ」

梓「今日……っていうか昨日からだけど、なんか純おかしいよ」

梓「純って、まさかほんとにレズなの?」

純「だったらどうする?」

 純のこの意地悪な笑顔が、すごく苦手だ。

梓「べつに、だったらどうとかじゃないけど……」

梓「と、とりあえず自分を棚にあげて人を同性愛者扱いするのやめてよ。唯先輩とは普通に部活の仲間なの」

純「唯先輩が単純にそうは思ってないとしたら?」

梓「え……!」

 何を言っているんだろう、純は。

 唯先輩が私を好きってこと?

 なんでそんなこと純が知ってるの?

純「なにキラキラ目輝かせたまま俯いてんの? 仮定の話だよ」

梓「えっ……あっ、へっ!?」

純「もし相手に好かれてるって分かってたら? 私に言うように、やめろ気持ち悪いって言うわけ?」

梓「そ、そこまでは、言えないよ……私に、その、好意をもってくれるなら……ふつーに、嬉しいし」

 なにを私はもにょもにょしているのか。

 だいたいこんなくだらない仮定の話、どうしてまじめに付き合ったりするんだ。

 もしかしたら純のことだし、仮定と言いつつ仮定じゃないかも、なんて可能性に懸けてるの?

純「そんな煮えきらないことを聞いてるんじゃないの。だっから梓ってイライラするんだよなあ」

純「付き合うか付き合わないかだけ聞けたらいいの、私は」

梓「な、なんでそんなこと聞きたいのさっ」

純「だって私も同じだから、梓の気持ちすごくわかるんだもん」

純「だからこそ、きちんと答えを出さないといつまでも辛いままだってわかるんだよ」

梓「……」

 同じ、ということは、やっぱり純もレズビアンだったというわけか。

 正直、昨日今日で予想はしてたことだけれど、正面切って言われるとなんとも返せない。

純「梓……わかるでしょ。今の自分がすごく辛いの」

純「好きなのかさえわからないことにしてる。だから諦めることも踏み出すこともできないでいるじゃん」

純「そういう思春期のバカによくあるんだよ。ておくれになってようやく、好きだったことに気づくとかさ」

梓「……そう」

 私はいつもより低く結んだ髪に触れた。

梓「……でも、好きじゃない」

純「……後悔するとしても?」

梓「好きだって言って、軽音部にいられなくなるほうがずっと後悔するよ」

 ため息をつくと、外でざあざあ雨が降りだしていたのに気付いた。

純「……私には、軽音部がその程度で崩れるとは思えないけどな」

純「私も憂も、梓のこと大好きだし、唯先輩も澪先輩も律先輩も紬先輩も」

純「みーんな、梓の性癖なんか関係ないところで、梓のことを好きなんだよ」

純「……うらやましいところだよ? ほんと、軽音部って」

 少し泣きそうに純は言った。

梓「でも、ほら。それと、私が唯先輩を好きなのかって話は関係ないし……」

 私は確かに、唯先輩を好きなふしはあるのかもしれない。

 純がこれだけ言うのだから、外から見てもそうなのだろう。

 だけど、だったらなんだっていうんだ。

 好きなら、傷つくこと、壊すことのリスクも背負って、告白しないといけないんだろうか。

 繊細に築き上げた砂の城を土台から突き崩してまで、この恋は成就させなければならないものなのだろうか。

 付き合うって、そんなことが許されるほど尊いことなのだろうか。

純「……梓。あのさ」

 純は重たそうに言った。

梓「なに?」

純「梓は一度、唯先輩でオナニーしてみたらいいと思う」

梓「……」

純「たぶん梓がもってる、面倒な倫理観だとか理性だとか全部すっとばして、素直になれると思うよ」

純「梓みたいなバカは、そうでもしないと自分のこと認めたがらなそうだし」

 バカみたいだ。

 いや、純はまごうことのないバカなんだ。

梓「……そんなことで、ハッキリする?」

 だけど、ちょっとばかりやってみたいと思うのは、なぜだろう。

 私は前から、そうしてみたいと思っていたのかな。

純「少なくとも、今よりはね」

梓「じゃあ、帰ったら……試す」

純「うん。ガンバ」

 純が親指を立てるのを、私は苦笑して眺めた。


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最終更新:2011年08月13日 22:28