#1 唯「明日は恋なきものに恋あれ」
いつも通る道に、名前を知らないあの花が今年もまた咲いている。
地面から数センチの低い草が咲かせる紫の花を見詰めていると、そこから澄んだ匂いが漂ってきた気がしたがまさか気のせいだろう。
背後から足元を撫でるように吹く風が、制服の裾とその花を揺らした。
細かに揺れるはなびらと広い葉の反射する複雑な光線が目を差す。
この花の名前はなんというのだろう。
「のどかちゃん、どうしたの」
問いかけの言葉―アイロンをあててないシャツのように気の利かないおかしなアクセントで話された―に振り向くと、幼時からの友人が持ちあげた両掌をチューリップのような形にして、こちらを見ていた。
逆光になっていて表情はよく見えない。
「ううん、なんでもない」
「その花?」
跳ねるようにこちらへ駆け寄り、身を屈めて私の足元を覗きこんだ。
きちんと整っていない髪がからだの動きに合わせて揺れる。
「毎年咲いてるよね、これ。いつからあるのかな」
「誰かがここに植えてるのかしらね。なんていう花なんだろ」
「勝手に生えてくるんじゃない?」
そう言ったきり興味を失ったのか、ふたたび跳ねるような仕草で離れていった。
私は置いて行かれないように駆け気味に唯のあとを追う。
「日陰と、日のあたってるとこを、交互に踏むんだよ」
私が怪訝な顔をしていたせいだろうか、なにも聞かないうちから彼女は説明してくれた。
街路樹の枝葉がつくる影のかたちを楽しんでいるらしい、なるほど強い陽光と歪んだハート形の黒い部分のコントラストは版画か影絵のように見えて、綺麗だ。
「和ちゃんも、一緒にやろうよ」
「遠慮しとく」
ぴょんぴょんと跳ねる唯はほんとうに楽しそうだ。
昔からこの友人はどんな時でも人と違うものを見て、自分の楽しみを見つけて、横から見ていても、飽きない。
飽きないというのは、いい意味でも悪い意味でもある。
幼いころから、こんな風にぴょんぴょん気ままに進んで迷子になった彼女を、何度探したことだろうか。
「今日の補習はどうだった?」
「休みの日にまで学校に来なくちゃいけないなんて、大変だよね」
「今日やったとこは重要なんだから、ちゃんと復習しておきなさい」
「うーん」
肯定とも否定ともつかない曖昧な答えに、すこし不安を感じる。
「唯、もう三年生なんだから、しっかりしなよ」
唯はまっすぐに前を向いたまま、こちらも見ないで、こくりと頷いた。
それから、もう影を使った遊びには飽きたのか、パタリと飛ぶのをやめて普通に歩き出した。
急に歩調がゆっくりになったので、少し前を歩く唯にぶつかってしまいそうになる。
慌てて彼女に合わせて歩みを遅くした。
何故とはわからないが、それから少しのあいだ私たちは黙った。
十年以上も連れ添った友人と、今さら大抵のことでは気まずくなったりはしない。
だけどこのときは変にのどもとのくすぐったいような、落ち着かない感じがした。
まただ。この感じ。
最近ずっとこうなんだ。
すこし、いやな感じがする。
このところの唯は変だ。
どこか、いつもと違っている。
少し前から、唯の様子がおかしいと気付いていた。
はっきり普段と振舞いが違っているわけじゃない。
唯は、いつもの唯だ。
言う言葉も話し方も、慣れ親しんだ友人のそれだと思う。
だから「変だ」というのは気のせいかと迷うときもある。
でも、やっぱり何かが違う。
なんでも知ってると思っていた少女の、見知らぬ雰囲気に、私は戸惑っていた。
「唯」
「うん」
「今日帰ったら、それから唯の家に行くから。一緒に勉強しよう?」
「うん」
唯は少し驚いたような顔をして、少し首を傾けてこちらを見た。
それからほんのわずか笑って、また元通り前を向いた。
「和ちゃんから勉強のお誘いなんてめずらしい」
「そうね」
こどもみたいに不安になって、思わず声をかけてしまった。
でも、今のでちょっとだけ分かった――違和感の正体。
あまりこちらを見ないんだ。
あからさまに、目を逸らしたりするわけじゃない。
必要な程度には目を合わせる。
けれども、以前の唯はどうだったろう。
私と歩くとき、こんなに前ばかり見てる子だったろうか。
まっすぐ前に歩きながらも、まるで進行方向がこちらであるかのように私の顔ばかり見てるような子じゃなかったろうか。
そうだ、やっぱりなにかおかしい。
「ねえ、唯。最近なにかあった?」
「なにかって?」
「ちょっと、へんだよ。いつもと違う」
「ええ? へんって……ひどいよ和ちゃん」
「だってへんなものはへんだもの」
「だから、どうへんなのさ?」
そう言われて、言い返せずに黙ってしまった。
自分のことを見てくれないから変だなんて、それこそおかしくて言えない。
もしかしたら私の気のせいかもしれないっていうのに、おかしいのは私の方なんだろうか。
話をはじめた私が口を閉ざしたので、またもや沈黙が場を満たした。
私がへんなのか、唯が変わったのか。
だけど、いらいらしてるのは、私の方だけみたいだ。
それがいやだ。
やるせない思いがして、少し前を歩く唯のうなじを睨みつけてやった。
するとその視線が形になったかのように、一羽のチョウが舞い来たって唯の頭にとまった。
あの花と同じ鮮やかな紫色。
おかしかった。
手近な電柱につかまって、声を出して笑った。
「ぷ……ふふっ、あはははは」
どうして私が笑ったのか分からなかったろうけれど、唯もまた立ち止ると少し困ったような顔をしながらも、一緒に笑ってくれた。
立ち止った拍子にチョウはふわりと飛び立ち、今度は頭のてっぺんにとまった。
なおさらおかしくて、私は笑いをとどめることができなかった。
水の音が聴こえた。いつの間にか川沿いの道にまで来ていたのだ。
黄色い服を着たおじさんが腰のあたりまで水につかって釣りをしている。
向かい岸のグラウンドでは、小学生のチームが野球の試合をしていた。
ようやく息が落ち着いてきたころ、唯が私の手を引いた。
「座ろっか」
草だらけの河川敷に向かう階段を指さす。
「どうして?」
「うーん、座りたいからかな」
「よく分からないわ」
「うん、私も」
と言ったのに、手を引いてそのまま私を座らせてしまった。
二人で座って、空を眺める。
また会話が途切れる。
なぜだかさっきと違って、いやな感じはしなかった。
楽しい気分がまだ残っていた。
唯もこの気持ちを感じてくれているだろうと思った。
金属を叩く音がした。
少しして歓声が上がる。
一方のチームのバッターがホームランを決めたようだ。
「和ちゃん」
「うん」
「私たちもう三年だね」
「そうね」
「思えばずいぶん一緒にいるよね」
「うん」
「すごいね」
「すごいって、なにが?」
「分かんないけど、すごいよ」
「わからないよ」
後ろの道路を自転車が鈴を鳴らしながら通り抜ける。
その音に驚いたのか、先程から頭の上で休み続けていたチョウが飛び立っていってしまった。
群青の空に溶け込んでいく紫を見送る。
その飛び方は危なっかしげにも、力強くも見えた。
鮮烈な色が眼の底に焼きついた。
まるで自分の上からチョウが飛び立つのを待っていたかのように、スカートの塵を払いながら唯が腰を上げた。
地面に焼きつく唯の影が、身の動きに合わせて形を変えていく。
黒い色の中に、空の青と、焼きついた紫と、淡い水色が混ざっていて、目を奪われた。
「なにを見てるの?」
立ちあがろうともせず地面に俯く私に声をかける。
見上げると、私の顔を覗き込もうとする唯の顔のなかにも同じ色が映っている気がした。
「ないしょ」
ゆっくりと膝を伸ばして答える。
不満げな声を出しながら、それでも顔は楽しそうに少し角度を変えて川向うを眺める彼女の顔に、今度は明るい薄桃の色がさした。
またふたりで歩き出した。
先程までの不安な気持ちはどうしてか消えていた。
こんな風に心の中が変わっていくのは愉快だと思った。
自分の心の子どもっぽさを感じて面白かった。
隣を歩む唯の前髪が視界の端でゆれる。
ふと、帰ったらあの花の名前を調べてみようと思い立つ。
そして、唯の家に着いたら、その名前を教えてあげよう。
それとも唯はもう知っているだろうか。
それとも唯に、今すぐ、その名を訊ねてみようか。
額には汗が浮かび、太陽の光が水滴を空気の中に溶かしていく。
季節は初夏。
これから暑い夏がはじまる。
斜め後方で、またすばらしい金属の音が響いた。
おわり。
最終更新:2011年08月15日 01:03