#2 和「どうしたの?」唯「私は悪い子だったようです」
時々どうしようもない思いに捉われる。
それは初め、心の表面に発生した思いつきに過ぎなくても、時間が経つにつれて精神の奥深くに食い入って、最終的には私という存在の中心に居座ることになる。
悩みというほど深刻なわけじゃない。
その思いは異物で、のどの奥に何かが引っ掛かっていて咳が出そうな感じ、というのに一番近い。
咳が出てその何かが吐き出されてしまうまで耐えるしかない。
心の表面に発生した思いつきはたいていの場合、根を張らずに流される植物の種子のように消え去ってしまう。
その中で、本当にさっき言ったような状態にまでなるのは本当にごくわずかだ。
そういう時々しかあらわれないやつは、決まってしつこい。
自然な解消を待つならば、少なくとも一週間はそいつと付き合わなければならない。
効率よく、それを消してしまえる手段も心得ている。
誰か話をよく聞いてくれる人に、その思いをすべて打ち明けてしまえばいい。
異物は身体の中から抜け出て、二人の会話の空間の中へと溶け込んで、無害な物質に変わる。
ただ、それが案外難しい。
話す相手は慎重に選ばなければいけないからだ。
そうでなければ、引っ掛かった思いを解消するどころか、よけいに気持ち悪い思いをしかねないことになる。
これには二つの理由があって、一つにはたぶん私が悪い。
頭の中に収まってる思いは常にもやもやとしていて、自分ではちゃんと把握できているつもりなのに、相手に説明しようと思うと言葉がつっかえて、その形をうまく伝えることができない。
ちょうど雲の形を眼でははっきり分かっていても、言葉で表そうとすれば困惑してしまうのと同じことだ。
聞き手は、私のことをよくわかってくれて、私の曖昧な言葉を整理し、話の向かう先を先回りして待ち構えててくれるような人でなければならない。
そんな夢のような人は親しい人の中にも、指で数えるほどしかいない。
もし私がもっとうまく言葉を喋れたなら、そうはならないだろう。
頭で思うことよりも、口で話すことはずっとむずかしい。
もう一つの理由は、話の深刻さを取り違えられると、たとえうまく話すことができたとしても、相手には本当のことはなにも伝わらないから。
あまり真剣な悩みとして受け止められて、心配されたりすると、話しながら次の言葉を探すのも困難になる。
かといって、ジョークのつもりで聞いてもらうのも困る。
前者には憂やあずにゃんが含まれる。
彼女たちは真剣に話を聞いて、私の「悩み」を真剣に共有しようとしてくれる。
私のことを気遣う彼女たちの暖かさは本当にありがたいし、愛おしい。
しかし、話を聞いてくれる彼女たちの深刻な顔を見ていると、初めはちょっとしたひっかかり程度のつもりだった思いが、次第に人生の一大事と言ったような様相を呈してくるのには困る。
話し終えたときには、話す私と聞く彼女たちの上に共通して大きな重圧がかかっている、ということになる。
後者の代表はうちのお父さんとりっちゃんなんじゃないかと思うが、お父さんは中学生の時に見切りをつけてから三年間こういった話相手には選んでないし、りっちゃんの方は一度もこういう話題を振ったことがないので、ちゃんとはわからない。
その思いについての私のまじめさというのは、ひじょうに微妙なもので、私自身にもよくわからない。
そこらへんの匙加減をうまく捉えてくれるくらい気のきいた相手じゃなくちゃ、この話の聞き役は務まらない。
二つの条件を満たす人、それは和ちゃんだ。
和ちゃんがその人だということに気付いたのは、ようやくこの数年のこと。
けれど、それに気づいてからは、私はいつもうまくいっている。
表面に発生した思いつきが徐々に成長していっても、それに焦ったりはしなくなった。
かえって、和ちゃんに話す時を楽しみにして、それが充分なところにまで成長するのを心待ちにするくらいだ。
たとえば、ひとけのない夕方の教室で。
つっかえながら話す私の言葉を、和ちゃんは聞き洩らさないように、けれど重苦しさを感じさせるような態度でもなく、ごく自然な姿勢で聞いてくれる。
時々茶化すようなこともあるし、まぜっかえしたりもする。
でもそういうのも、話をちゃんと聞いてくれてる、というのがちゃんと私に分かるようにと、必要な分だけしてくれているのだ。
やがて私が黙ると、静かになる。
和ちゃんはすぐには話さない。
たぶん、私の言ったことを反芻して、頭の中で勘案している。
それから一言ずつ、確かめるような慎重さで、私に言葉を返してくれる。
ぽつり、ぽつり、と、静かに言葉を紡ぐ彼女の声が、やさしい表情が、私には好ましい。
そんな時の彼女を思い出すと、おなかの辺りに生まれるじくじくとした感情に名前を付けるなら、恋と呼ぶべきだろう。
★
へんな自信がある。
私がいちばん和ちゃんのことをわかっている。
和ちゃんには家族がいて、私以外の友達もたくさんいて、みんなから好かれているのに、それでもそう思う。
私より和ちゃんのことを、わかってる人なんていない。
和ちゃん本人を含めても、そうだ。
知ってる、という意味じゃない。
和ちゃんのプロフィールとか、そういうことに関しては、人生のほとんどを親友として過ごしてきながら、あきれるほど知らない。
例えば、和ちゃんの生まれた場所とか、出生体重とか、そんなことは和ちゃんのお母さんの方がよく知ってる。
好きな食べものとか、そういうこと。それもよくわからない。
あの子はなんでも文句を言わずによく食べるから、嫌いな食べ物があるかすらもわからない。
お弁当のときとか、見ものだ。
草食動物が草を食べる時のような熱心さで、一定のペースで、黙々と食べる。
和ちゃん、という動物を観察してるようで、ちょっとおもしろい。
私が自分のお弁当から苦手なおかずを和ちゃんのお弁当にひそかに移動させても、文句は言わない。
やりすぎると注意されるし、トマトのヘタをあげたときはさすがに叩かれたけど。
私が和ちゃんのことをわかっていると思うのは、表面的なことじゃなくて、和ちゃんの心のうちがわのことだ。
和ちゃんには外側と内側がある。
野菜の皮と中身か、あるいは卵の殻とヒヨコみたいに。
もちろんそんなの、誰にだってあると人は言うだろう。
でもわかってないんだ。
和ちゃんのかわいいとこを見てるのは私だけ。
私だけだ。私以外知っちゃいけない。
例えば和ちゃんは泣き虫だ。
小学校の林間学校のとき、毛虫が背中に落ちてきたというので泣いた。
それから、その虫を男の子が眼の前で潰したので余計に泣いた。
その男の子は当時和ちゃんが好きな男の子だったので、そのことについてどう考えたらいいのかということを、その後一か月くらい暗い顔で私に相談し続けた。
私は「知るかい」という気持ちだったので、実際にそう返した。
あるとき和ちゃんはあんまりつらくなったのか、また思い出して泣いた。
非常に悪いことをしたという気がして、私は和ちゃんを慰めるのに一生懸命になった。
その時のことを話すと和ちゃんは恥ずかしそうにする。
傷つきやすくて、意外といつまでも悩みを抱えたりする。
非常にどうでもいいことにこだわる頑固なところもある。
私の話を聞いてくれたり、友達にアドバイスをしている時の和ちゃんは、やさしい母親のようでもあり、同年代の子どもには思えない。
でも、すごくナイーブな時の和ちゃんは、弱々しくて、保護したくなるようなオーラを放っている。
どうやらそのオーラが見えてる人は少ないようだ。
和ちゃんには悪いかもしれないけど、私だけわかっていればいいんだ。
こんな風に思う私は悪い人かもしれない。
実際にそう思ってしまうのだから、しょうがない、とも思う。
和ちゃんを一人占めしたい。
時々、残酷な気持ちになって、わざと和ちゃんを傷つけたくもなる。
実際にはそんなことしない。
そういうことを考えるだけでも、和ちゃんのことがかわいそうになって、かわいくて、すまない気がする。
ほんとうに申し訳ない気がする。
でもそんな時、強く実感する。
和ちゃんが好きだ。
★
和ちゃんの感じ方とか、私が一番よく知ってるなんて、傲慢な思い込みに過ぎないと感じることもある。
自分がひどく惨めで、和ちゃんにはふさわしくない人間に思える。
そういうときだけ、和ちゃんに触れるのが恐い。
近づくのもいやだ。
触れた指先から、私の中の黒い気持ちが伝わってしまうんじゃないかという気がするから。
★
それでも、はっきり、この気持ちが恋だと気付いてからは、まだ日が浅い。
戸惑いはしなかった。
それは新しく生まれた気持ちではなく、ずっと私の中にあったものだから。
「ねえ、和ちゃん」
日曜日の騒がしい街中で私は和ちゃんに話しかけた。
その日は計画して待ち合わせたわけじゃなく、本当に偶然で和ちゃんに出会ったのだ。
私たちはどちらから言いだすのでもなく、いつのまにか一緒にお店を見て回っていた。
お店を出てすぐのことだった。
そのころ私は例の「思い」にとりつかれていて、それは成長してずっしりとした重さをすでに持っていた。
私はふと、あれを話すのにちょうどいいと思った。
その日はいつもよりは上手に話せそうな気もしていた。
おかしなことに、その日の和ちゃんがどんな返事を私にくれたのかは思いだすことができない。
こんな大切な日の、大事なことなのに忘れてしまったことが、くやしい。
「こういうことさ、考えたことない?」
「どんなこと?」
「あのね、私、軽音部ってね、大好きなの」
「うん」
「ムギちゃんもりっちゃんも澪ちゃんもあずにゃんも、大好きな友達だし、部活に入って何かをするって、中学校の時はなかったから、毎日すっごく楽しいし、お茶もおいしいし。うーん、だけどね、へんだなー、ってすっごく最近思うことが……ううん、へんってわけじゃないんだけど。
あのね、私が軽音部を好きだっていうとき、私が好きなのって、軽音部のみんななのか、それとも軽音部っ、ていう場所を好きなのか。どっちだかわかんなくなるんだ」
「その二つって違うのかしら」
「うん。例えばね、りっちゃんの代わりに、ぜんぜん別の知らない人が軽音部の部長だったら、どうなってただろうとか。たぶんやっぱり、その人のことを大好きになるかもしれない。それともその人はすっごく嫌な人で、軽音部は今みたいに楽しくなくって、私は軽音部に入部しなかったかもしれないけど」
「あまりにも『もしも』の話ね」
「そうなんだけどさ。逆に、私が軽音部に入らなかったら、ってことも考えるんだ。私じゃなくて別の誰かがギターを弾いてて、その子が私みたいにみんなと仲良くやってるって想像をはじめると、なんか、ちょっとだけ怖くなるよ」
「こわい?」
「怖い。私がみんなのことを好きなのは、私たちが同じ軽音部だからで、軽音部って場所に私がいなかったら、みんなと友達になってないかもしれない。ムギちゃんが軽音部にいなくて、ムギちゃんの代わりに別の人がいたら、その人のことを好きになって、ムギちゃんのことなんかどうでもいいのかもしれない。だとしたら、私が好きなのはムギちゃんという個人じゃなくて、ムギちゃんの立場ということになるし、そもそも好きになったのも、私が部員という立場を持ってて、相手が仲間だったから、ってことにならないかな」
和ちゃんは頷いた。
肯定の意味ではなくて、私の話を聞いている、というメッセージだった。
「軽音部だけじゃなくってさ、憂が私の妹じゃなかったらどうか、とか、和ちゃんが幼馴染じゃなかったとしたら、とか。好きって気持ちってものすごいふわふわしたものなんじゃないかなあ、って気がするんだ」
私がおおむねこんなようなことを話し終えると、和ちゃんはいつもの流儀で、少し沈黙した。
そして歩きながら考え込む和ちゃんの顔を見て、『ああ、私は好きだなあ、この顔が』と思った。
そしてその感情が特別なものだと知った。
今まで話したことと矛盾するようだが、この感情は確かだと思った。
和ちゃんとどんな出会い方をしたとしても、たとえ和ちゃんに出会ったのが今日このときだったとしても、和ちゃんがこんな顔をする子である限り、和ちゃんのことが好きだと思った。
街の喧騒が遠く聞えた。
私がおおむねこんなようなことを話し終えると、和ちゃんはいつもの流儀で、少し沈黙した。
そして歩きながら考え込む和ちゃんの顔を見て、『ああ、私は好きだなあ、この顔が』と思った。
そしてその感情が特別なものだと知った。
今まで話したことと矛盾するようだが、この感情は確かだと思った。
和ちゃんとどんな出会い方をしたとしても、たとえ和ちゃんに出会ったのが今日このときだったとしても、和ちゃんがこんな顔をする子である限り、和ちゃんのことが好きだと思った。
街の喧騒が遠く聞えた。
最終更新:2011年08月15日 01:06