翌週末、律のバイトするライブハウスに3人は集まった。
律「いよっ」
紛れも無い律の顔。
変わらない元気で明るい笑顔。
唯「りっちゃ~ん」
唯は思わず律に抱きついた。
律「おいおい、どうしたんだよ」
記憶の中にはあっても、いざ本人を前にすると
感動は抑え切れなかった。
唯は懐かしさと律の暖かさに触れ今にも泣き出しそうになっていた。
律「なんだよ。澪が相手してくれなくて寂しかったのか?」
澪「ばかっ。私はちゃんと唯の面倒をみてるんだぞ」
律「ほほう、面倒なのか・・・可哀想になぁ唯~」
澪「ち、違うっ。ああもうっ馬鹿律っ!」
澪は怒って外方を向いた。
律「そう言えば、和と憂ちゃんはまだ来てないのか?」
唯「さっき連絡があって、もうすぐ来るって」
律「そうか。二人は私達の演奏聞くの初めてだっけ?」
唯「うん。二人とも楽しみにしてるって」
律「憂ちゃんは唯しか見ないだろうけどな」
唯「そうかな?」
律「そうだよ。見せてやれよ、唯のギターをさ」
唯「うん」
唯は目を輝かせて頷いた。
3人は一通り、リハーサルを終えると
到着した和と憂を出迎えた。
和「お待たせ」
憂「みなさん、こんばんは」
唯「和ちゃん、久しぶりっ」
和「何言ってんのよ。この前あったばかりじゃない」
唯「そうだっけ?」
唯の記憶の中では先週の初めに和と会って
ライブのチケットを手渡したのだった。
和「そうよ。それにしても、随分立派になったものね。 まさか本格的にバンド活動するなんて思っても見なかったもの」
澪「まあ、それも律のお陰ではあるんだけどな」
澪は照れくさそうに言った。
律「なんか煮え切らない言い方だな。 ホントのところ私は唯のお陰だと思ってるぞ」
澪「唯が何か言ったのか?」
律「唯、覚えてるだろ?卒業式の日。 私に言ってくれたよな。一緒にバンドしようって」
唯は頷く。
和「へぇ、唯がねぇ」
律「それでさ、私も決意できたんだよ。やってやろうってさ」
唯「じゃあ夢は武道館っ?」
律「夢は大きく、だな」
澪「それも悪くないな」
澪は時計を見る。
澪「そろそろ本番だな」
律「緊張してんのか?」
澪「もう、慣れた」
律「なんだよ、詰まらないな。 さっきの唯みたいに私に抱きついてきてもいいんだぞぉ」
憂「お姉ちゃん、そんなことを・・・?」
和「相変わらず甘えてるのね」
唯「だってぇ~」
唯が照れ笑いを浮かべると皆の表情も和やかになる。
律「いくか」
唯と澪が頷く。
憂「お姉ちゃん、がんばって」
和「みんな、がんばってね」
3人は振り返って和と憂に力強い眼差しを向けて大きく頷いた。
その日のライブは大いに盛り上がった。
チケットが完売したこともあり客の入りは申し分なく
ライブハウスの店長も満足気な表情だった。
ライブ終了後は5人で祝杯を挙げようと云う事になった。
ライブの成功と、武道館への夢を願って。
唯は居酒屋と云う場所に初めて足を踏み入れて戸惑っていたが
和は慣れた様子で酒と肴を注文していた。
話しによれば大学の付き合いでよく立ち寄るそうなのだ。
唯「女の子同士で?」
和「大学の教授がね、学生達と飲みたがるのよ」
和も大変なのだと唯は思った。
澪はビールを一杯飲んだだけだったが酔いが回って律に猫なで声で甘えていた。
澪「りぃつぅ~だっこぉ~」
律「誰だよ澪にこんなに酒飲ましたのは」
憂「ビール一杯しか飲んでませんでしたよ」
律「うはぁ。こいつこんなに酒癖悪かったのか?」
唯「澪ちゃん、今までお酒なんて飲まなかったよ」
律「マジかよ。誰かお冷もらってきて」
憂「私がもらってきます」
憂はそう言って立ち上がると座敷を出て行った。
澪「りぃ~つぅ~」
律「ああっもう、気色悪いぞ澪っ」
途端に澪は泣き出してしまった。
律「あぁ悪かった悪かったよ。だっこな」
律は仕方なさそうに澪を抱くと澪は安心したのかそのまま眠ってしまった。
律「ちょ・・・重い・・・」
和は座布団を二枚重ねると律から澪を引き離してそこに頭を乗せて寝かした。
律「和、慣れてるんだな」
和「まぁね」
和はそう言って溜息を吐いた。
そこに憂がお冷をもらって帰ってきたが
澪の様子を見て必要ないのだと思ったのだろう、
コップをテーブルの上に置くと
唯の隣に座った。
憂「お姉ちゃんはお酒大丈夫なの?」
唯「私もそんなに飲んだこと無いけど、今日くらいはね」
唯はそう言って日本酒をあおった。
律「唯、お前は酒強いんだな」
唯「りっちゃんも飲みなよぉ」
唯は律のコップに日本酒を注いでいく。
律「まぁ、今日くらいはな」
律も日本酒の注がれたコップを傾ける。
律「和は何飲んでるんだ?」
和は茶色い液体の注がれたグラスを手にして言った。
和「ウィスキー」
律は氷の入ったそのグラスの中身をみて水割りか何かだろうと思っていたが
和は、ロックよ──と言った。
唯「和ちゃん、大人だねっ」
和「唯はまだまだ子供よね」
唯「そんなこと無いよ。私だって」
唯は店員を呼ぶと和と同じものを注文した。
憂「お姉ちゃん、無理しないで」
唯はこの時ばかりは憂の言葉に耳を傾けることはなかった。
憂も口では言っているものの
先ほどの澪の姿を唯に重ねてもう少し酔って欲しいと密かに願っていた。
唯は運ばれてきたウィスキーをちびちびと飲みながら
昔の思い出話に耳を傾けていた。
和「そう云えば、学際ライブ。あの時は凄かったわよね」
律「あぁ、みんな大泣きしてたな」
憂「私も感動しました」
和「でも、よく軽音部再開する気になったわよね。 あの頃はすっかり元通りだと思ってたけど、 多分、もう演奏は聴けないんじゃないかなって」
律「まぁ、梓のこともあったしな」
思い出すのも辛い過去だったはずだが
今ではすっかり懐かしい思い出となって梓はみんなの心の中に居る。
暗い顔をするどころか、皆笑顔で梓のことを口にしていた。
律「確かあの時──そうだ、唯が私達に何か言ったんじゃなかったか?」
律は唯の顔を見る。
唯は、あの記憶の途切れた日のことを思い出した。
律が軽音部に皆を集めて今後のことを話し合おうと言ったのだ。
そこで──そうだ、私の記憶の無い間に・・・。
唯「私なんて言ったんだっけ?」
律「私に聞くなよ。唯が言ったんだろ?」
律が言うからにはそうなのだろう
しかし、唯には記憶が無い。
そのことをここで口にするのは駄目な気がして適当に誤魔化した。
唯「わすれちゃったなぁ」
律「唯らしいよホント」
和「そうね。そう、あれ以来かしら。みんな吹っ切れたみたいだった」
律「かもな、私もあれから梓の事に正面から向き合えるようになった気がする」
和「いいことね。あの子もきっとそんな貴女達に惹かれたんだと思うわ」
和「今日の演奏も聴いてくれてたわよ」
和「だって・・・天国に届くぐらい・・・いい演奏だったもの・・・」
唯「和ちゃん?」
和はテーブルに顔を伏せて寝息を立てていた。
顔色をまったく変えずにいたためわからなかったが
相当酔っていたらしい。
律「そろそろ帰るか」
最初に酔いつぶれて寝てしまった澪を律が
和を唯と憂で送ることにした。
唯「りっちゃん、これ鍵」
唯は律にアパートの鍵を渡そうとしたが
律は首を振った。
律「私のアパートに連れてくよ、近いしな」
唯は親指を立てて、がんばってねと合図する。
律「ばかっ酔いつぶれてる奴になにもしねぇ・・・って私は別にそんなんじゃ」
どぎまぎする律に唯は、冗談だよ──と笑って言った。
律の住むアパートは歩いても時間は掛からない距離だったが
澪を抱えて行くわけにもいかず、結局タクシーを呼んだ。
律はタクシーの後部座席に澪を押し込むと
またな、と手を振ってドアを閉めた。
律と澪の乗るタクシーを見送ってから
唯達もタクシーを呼んで和を自宅まで送り届けると
憂とはその場で別れ、
唯は同じタクシーで帰路に着いた。
翌朝、唯はベッドから体を起こすと
今日は休日だと云うことを思い出しもう一度眠りに着いた。
夢なのか昨日の記憶を思い返しているだけなのか
律の言葉が唯の頭の中を巡っていた。
──唯が私達に何か言ったんじゃなかったか?
──そうだ、
──確かあの時
あの時?
そう、記憶の途切れたあの時だ。
唯の頭の中で何かが形作ろうとしていた。
──日記。
──記憶の途切れる症状。
そうだ、卒業式の日。
過去に戻れたあの時も記憶が途切れた時だった。
唯は勢いよくベッドから跳ね起きると
ダンボール箱から日記を取り出した。
項を捲って日付を追う。
唯「あった」
──軽音部復活!
大きな文字で書き記してあった。
その題名の下には軽音部復活の喜びと
記憶の途切れた症状が書いてある。
唯は大きく息を吸ってから日記を凝視する。
文字が蠢き風景が歪む
日記に吸い込まれる感覚の後
眩い光に呑み込まれる。
律「率直に言うぞ。軽音部、どうする?」
暫しの沈黙の後、澪が口を開いた。
澪「私は、諦め切れない。もちろん、皆の気持ちを優先するよ」
律「むぎはどうだ?」
紬「私は・・・申し訳ないけど・・・」
律「わかった。唯は?」
唯「私は、私はね──」
軽音部の部室、律、澪、紬の3人が唯に注目していた。
唯の言葉を待っているのだろう。
唯は紬に顔を向ける。
唯「むぎちゃん、理由を聞かせて欲しいの」
紬は顔を伏せて言った。
紬「だって・・・辛いの・・・ここに来ると・・・」
紬「さっきね、紅茶を淹れようとして・・・そしたら・・・」
紬「気づいたら、5人分淹れてたの」
梓の分なのだろう。
紬「居ないってわかってる。でも、もし梓ちゃんが居たらとも考えるの」
紬「でも、やっぱり居ないのよっ。居ないの・・・居て欲しいのに・・・居ないの・・・」
唯はこの時初めて紬の苦しみに気がついた。
多分、同年代の中では紬が一番幼いのだ。
お嬢様育ちで、無垢な心のまま生きてきたのだろう。
それは、周りの大人たちが紬に悪い影響を与えるものを
徹底的に排除してきた結果でもあったのだ。
紬の怖がるもの、不安にさせるもの、苦しみを与えるもの
時として人の成長に欠かせないものさえ奪ってきたに違いない。
最終更新:2010年01月22日 22:57