紬もそれを理解していたのだろう。
高校に入ってからは積極的に新しいことに挑戦していた。
辛いことがあるかも知れないと思いながらも、寧ろそれを望んでいたのだ。
今まで触れる事の無かった、傷つき挫折する経験を心のどこかで欲していた。
アルバイトを始めたのも同じ理由だったのかもしれない。
成長を望んでいてのことだったのだ。
しかし、梓の死は紬の心を抉りとるほどの衝撃だった。
幼い頃に経験する身近な者の死とはまったく異なったものだ。
死とは何かを理解する以前なら、
悲しみよりも何故居なくなったのかと疑問を抱くことだろう。
紬は違った。
死の概念を持ちつつ心が未熟なまま人の死に触れ
凄惨な事故現場を目撃したのだ。
梓の死を理解しながらも心がそれを拒絶する。
唯も、律も、澪も同じ気持ちではあった。
けれど、紬には背負いきれない現実だった。
気を抜けば壊れてしまうほどの脆い心だったのだ。
澪「唯・・・もう、いいだろ・・・」
澪は紬の様子を見て自身も胸を痛めているのだろう
悲しみを湛えた瞳を唯に向ける。
しかし、唯は首を横に振った。
律「唯っ!」
唯「聞いてッ!」
唯「私ね。今まで自分の為にバンド演奏したいと思ってた」
唯「今はその気持ちが無いなんて言わないよ。だから──」
唯「みんな自身の為に演奏して欲しいの」
律「どういうことだよ」
唯「みんなはこのまま軽音部が無くなっていいと思ってるの?」
唯「何か遣り残したことがあると思ってここに集まったんじゃないの?」
唯は涙を浮かべる紬に向けて静かに語った。
唯「むぎちゃん。むぎちゃんはこのままでいいの?」
唯「このまま軽音部が無くなって、それであずにゃんの事忘れちゃっていいの?」
唯「乗り越えなきゃいけないことじゃないのかな。 受け入れて、大切な思い出としてしまっておくために何かしなきゃいけないんじゃないのかな」
紬「梓ちゃんの為に・・・?でも、何をすればいいの?」
唯「あずにゃんが、軽音部に入部を決めた理由覚えてる? 先輩達の演奏に惹かれて──そう言ったんだよ」
紬「私達の・・・演奏・・・」
唯「そうだよ、聞かせてあげようよ。私達の演奏を」
紬「それで、梓ちゃんのこと・・・忘れるの・・・?」
唯は首を横に振って答えた。
唯「違うよ。思い出にするの。あずにゃんが確かに、ここに──軽音部に居たことを。
そのために、あずにゃんの為に最後に最高の演奏をするの」
唯「あずにゃんの事を思って。あずにゃんの笑顔を願って」
そう、唯は最後の学際ライブまで梓の顔を思い浮かべることが出来なかった。
思い浮かべようとすると、あの事故の、血に塗れた梓の顔がちらついた。
唯は梓の笑顔を取り戻すために、梓の為にギターを弾き鳴らしたのだ。
唯「約束するよ。最後の学園祭でのライブが終わったら──」
唯「きっと、私達の中に居るあずにゃんは笑ってくれるから。 最高の笑顔を見せてくれるよ。絶対!」
紬は涙を浮かべながらも、笑顔で──確かに頷いた。
紬「はい」
律が嬉しそうな表情で机に手を付いて身を乗り出した。
唯は息を呑んだ。
恐る恐るみんなの顔を見る。
紬は涙を浮かべていた。
澪は目を伏せて、ほんの少し笑みを零していた。
律は嬉しそうな顔で机に身を乗り出していた。
律「唯っ!澪っ!むぎっ!」
三人は律に目を向ける。
律「軽音部──復活だなっ!」
唯は光に包まれ現在へと引き戻された。
結局、何も変わらなかった。
ただ紬が自分達と連絡を絶った理由がなんとなく判った気がした。
軽音部のことも梓のことも楽しい思い出として仕舞ったのだ。
紬には元よりバンドへの執着はそれほど無かったはずだ。
寧ろ、唯の方が軽音部への執着が強かったため
何時までも紬のことを思っていたのだった。
紬は、最後の学際ライブから新しい大きな一歩を踏み出し
自立と成長を遂げた。
自らが進むべき道を見つけ歩んでいるのだろう
もしかしたら、何時までも過去に固執する唯を思って
連絡を絶ったのかもしれない。
そう思うと納得ができた。
それでも唯には未だに軽音部の皆で演奏したいと願う思いがあった。
こんなわがままは紬も聞いてはくれないだろうと諦めもしていたが
日記を捲りながら、もしかしたらと云う気持ちが膨らんでいった。
──最高の演奏!?
そうだ、あの時も記憶が途切れていた。
記憶の無い間の唯の演奏を、皆は凄いと言っていた。
もう一度だけ、これで最後にしようと
唯は日記を見つめた。
紬は困惑顔でさわ子を宥めようとするも
子供のように駄々をこね始めたさわ子を
律はしょうがないと云った表情で見つめる。
律「むぎ、とりあえずさわちゃんにお茶淹れてあげて」
さわ子「あ、ありがとぉ~」
さわ子は目に涙を浮かべて感謝の言葉を口にした。
律「何も泣くことはないだろ」
紬「そうだわ、ついでに私達の演奏も聞いてもらえませんか?」
さわ子「うん、聞く聞く」
律「変わり身はえぇな~」
紬はさわ子に紅茶を淹れると
キーボードの前に立ち、律に目配せする。
律はそれに頷いてスティックを打ち鳴らす。
律「ワン!ツー!スリー!」
唯の左手はギターの弦を押さえ
右手にはピックを持ち
今まさに振り下ろさんとしている瞬間だった。
「ふわふわ時間」
忘れもしないあの曲だ。
体に染み付いて一生落ちることはないだろう。
唯の指が、手が、腕が、体が躍る。
自由に──今までより、もっと自由に
唯はギターを弾き鳴らす。
聞こえる。
澪のベースの音
律のドラムの音
紬のキーボードの音
懐かしい、梓のギターの音が。
唯は横目で梓を見る。
梓も唯に視線を送ったような気がした。
楽しそうだった。
嬉しそうにギターを弾く梓の笑顔が眩しかった。
守りたい──取り戻したい。
唯は決意した。
梓の笑顔を守る決意を
梓に、本当に本当の、本物の笑顔を取り戻してあげたいと。
──助けてあげるからね。あずにゃん。
唯は梓を救う決意を胸に最後まで演奏を続けた。
最初で最後、最高の演奏を──。
演奏を終えた後、唯は自分が息を切らしていることに気づいた。
先ほどの演奏の記憶が抜け落ちていることは理解できていた。
しかし、記憶が途切れたことによる不安よりも
自分の中にある達成感に喜びを感じていた。
素晴らしく気分がいい。
ライブを終えた後のような感動が胸の裡を震わせていた。
みんなの顔を見る。
一様に驚いた表情を唯に向けていた。
澪「唯・・・すごく・・・良い」
梓「唯先輩!凄いですっ!どうしたんですか!?」
紬「本当、なんだか感動しちゃいました」
律「最高だったぞ、唯っ!」
唯はさわ子に視線を移す。
さわ子はケーキにフォークを刺したまま固まっている。
何かを言いたそうに口をぱくぱくとしているが
上手く声にならない様子だった。
さわ子は声を出せない歯がゆさから
目に涙を浮かべると
何も言わずに、大きく頷いた。
何度も何度も。
現在に引き戻された唯はすぐにその項を開く。
──あずにゃん
そう題した日記の項は涙に濡れて縮れていた。
酷く読みにくい文字で所々擦れている。
梓が事故にあった時の日記だ。
唯はあの時の記憶を思い起こす。
自分はどこに居たのか、梓はどこに居たのか
クラクションが鳴ったとき、視界に車は無かった。
間に合うだろうか──間に合わせてみせる。
唯は全身に力を込めて日記を見つめた。
眩い光に包まれた瞬間、既に唯は足を上げていた。
紬「偶にはいいかもしれませんね」
唯「あずにゃんも一緒に行こう?」
梓「はい、いいですよ」
5人はそろって、唯の行きつけの店でアイスを食べた。
決して特別なことでは無かった。
月に何度かは5人そろって、同じようにアイスを食べに来る事があった。
普通のことだった。日常の風景だった。
変わらぬ日常の──。
そこからの帰り道。
梓は買い物があるといって商店街の方へ向かうために
横断歩道を渡る。
梓が皆に向かって手を振っている。
唯も手を振り返す。
梓が笑う。
唯も笑い返した。
歩行者用の青信号が点滅を始めた。
突然、けたたましいクラクションの音が鳴り響いた。
鳴り響くクラクションの中
梓は未だに笑みを浮かべて手を振っていた。
唯は走った。
梓に向かって。
唯は視界の隅に迫り来るトラックを捉えた。
──間に合えっ!
梓との間にまだ距離がある。
唯は必死に脚を動かし梓の許へと駆けていく。
梓はきょとんとした表情で唯を見た後
目前に迫るトラックに目を移し恐怖に顔を引き攣らせた。
──今、助けるよっ!
唯は梓に飛び掛る様に跳躍し
手を伸ばして、梓を歩道へと突き飛ばした。
──やった。
次の瞬間に衝撃を感じ、唯の体は宙を舞った。
一瞬の事だったが随分長い時間に思えた。
唯は地面に叩き付けられると
自らの左腕が黒い塊に轢き潰される瞬間を目撃した。
肉が潰れ皮膚が裂ける。
裂け目からは血と赤い小さな肉片が飛び散り
骨の砕ける音が体を伝わって聞こえた。
黒い塊が過ぎ去り束の間、
同じ黒い塊が、
唯の、潰され轢き千切られた左腕を巻き込んで行った。
甲高いブレーキ音と
ガラスの割れる音、
鉄板が叩き付けられた様な鈍い音を聞いた。
唯は眼球だけを動かして音の聞こえた方向へ視線を移す。
アスファルトには黒いブレーキ痕と赤い血の跡
それを辿ると黒い大きなタイヤが
そのタイヤとトラックと思しき車体の隙間に
赤く染まった細い人間の腕がぶら下がっていた。
唯は光に包まれた。
柔らかな感触を背中に感じる。
唯はベッドの上で寝ているらしいことが判った。
鈍い頭痛が唯を襲う。
一瞬にして新しい記憶が唯の脳に詰め込まれて行く。
変わったのだ。あの時からの未来が、現在が。
いや、捻じ曲げてしまったのかもしれない
より残酷な未来へと。
和「唯、起きたの?って鼻血っ・・・」
和はティッシュを手に取り唯の鼻から滴る血を拭った。
唯「ここは・・・」
唯は記憶を探る。
唯は事故により左腕切断、下半身不随の重症を負った。
唯の左腕は二の腕の辺りから下が無かった。
事故後、長い間入院生活を送っていたが、
期末試験などは病室で受けることができ
進級には問題が無かった。
大学への進学も多少の不安はあったものの
和の助けを借りて、和と同じ大学に入学、
同じアパートの一室で共同生活を送っていた。
唯は残された右腕を見つめる。
自分の体重を支えるために
トレーニングに励んだ結果の隆起した筋肉。
視線を足先に向ける。
薄い掛け布団に浮かぶ細い脚
何ともアンバランスな体だ。
唯は梓の記憶を探った。
記憶の中の梓は生きている。
昨年卒業した梓は唯や和と同じ大学に進学して
同じアパートの隣へと越してきたのだった。
理由は判っていた。
唯の介助をするためだ。
毎日隣からこの部屋へ通って
唯の為に色々と世話をしてくれていた。
唯は一人でも起き上がることが出来るし
トイレも、シャワーを浴びることも出来る。
電動車椅子を使って大学へ行き、買い物だって出来るのだ。
唯は梓に心配は要らないと言っていたが
梓は事故の原因が自分にあるのだと思い込み、
唯の体が不自由になってしまったことに
罪悪感を覚え自責の念を感じていた。
唯「そっか・・・」
和「唯、どうかしたの?」
唯「なんでもない、なんでも」
和「そう?ならいいけど。 実は今日、憂ちゃんが来てくれてるのよ」
唯「本当?今何してるの?」
和「唯の為に夕食作ってくれてる」
唯「あずにゃんも?」
和「ええ、梓ちゃんも一緒よ」
唯は上体を起こすと掛け布団を取り払い
右手を使って右脚と左脚をそれぞれベッドから下ろすと
ベッドの脇に置いてある車椅子に手を掛け体を持ち上げる。
右腕で体を支えると、器用に車椅子に腰を移した。
唯「いこっか」
和は頷くと唯の乗った車椅子を押して部屋を出た。
リビングの扉を開けると、丁度夕食の支度が調ったところだった
テーブルの上には白い蒸気を漂わせた料理が並んでいる。
憂と梓は椅子に腰掛け、唯が来るのを待っていたらしかった。
二人は唯の顔を見ると笑顔を向けてきた。
最終更新:2010年01月22日 22:57