【7月19日/高校二年生】


好きになっちゃいけない人っているのかな。


そもそも恋愛って一体何なのか、私にはまだよくわからない。

だけど今、頭の片隅にはある人がちゃんと浮かんでいる。

私の身体のずっとずっと奥深くでは、ちゃんと理解しているのかもしれない。


ただ、私がいうその恋愛は、周囲は決して理解してくれないと思う。


「……ん?どした唯」

「……あ、ううん。何でもないよ」

「で、唯はどう思う?やっぱ先生と生徒なんて御法度だよな」


悩みなんていう言葉から掛け離れていたはずの私が今持っている唯一の悩み。


「う……うん、そうだよ。駄目…だよね」


これも全部、恋とか愛とかいうよくわからない感情のせいだ。

よくわからない感情のくせに、いつも私を本能的に動かそうとする。

ほら、今だってそう。


「お―い唯、どこ行くんだよ。お前の家そっちじゃないだろ」

「あ、あのね。ちょっと憂に買い物頼まれてるんだ」


不意に会いたくなった。

どうしてなんて聞かれてもわからない。

だけど、どうしてその人に会う必要があるのかって聞かれたら、きっとうろたえてしまう。


「みんなごめんね。また明日」

「おいおい、明日も学校に行く気なのか?」


澪ちゃんが呆れたように言う。


「明日からは夏休みですよ」


そして、あずにゃんの言葉で思い出した。

夏休み。

こんな大それたイベントさえも忘れていた私は、よっぽど頭の中が他のことでいっぱいだったんだ。


「じゃあ、また集まる日とかあったら連絡するからな」

「うん、わかった」


みんなと別れたあと、夕焼けに染まる道を逃げるように一人歩いた。


どうしてこんなに悔しいんだろう。


苦しい時もある。

幸せって感じるときよりもずっとずっと多く。


恋愛ってもっと、きらきらしたものだと思ってたのに。


********************

みんなとの他愛ない会話がいつまでも私の胸に引っ掛かってとれないでいた。

その不安を埋めるように傍らの白い肌に頬をくっつける。

温かい、人肌の温もりが伝わってきた。

「もう……甘えんぼね」

私よりずっとずっと余裕のある大人の声が返ってきて、少し安心する。

すごく心地いい。

お母さんに抱かれてる赤ちゃんってこんな感じなのかな。
私もそんなときがあったんだと思うけど、そんな昔のことは覚えているはずもなくて。

子ども扱いしないでほしい、なんて言ってた時期もあったけど、やっぱり私はいつまでも誰かに甘えていたいみたいだ。

「ねえ、さわちゃん」

さわちゃんは休みの日とか、放課後とか、学校から離れると「先生」と呼ばれるのを嫌がる。
どうしてって聞くと、どうしてもと言われた。
よくわからないけど、私も「さわちゃん」って呼び方が好きだからそう呼ぶことにしている。

「なあに?」

「……先生と生徒って恋愛しちゃだめなの?」

顔を上げると、目が合った。
さわちゃんは少し驚いたような表情を浮かべていたけれど、すぐに目を細めて微笑んだ。
綺麗だなあ、なんて見惚れていると薄い唇が動く。

「駄目よ」

「えっ……」

「だって……先生っていう職業は生徒を平等に見なきゃいけないのよ?」

少しの期待を込めて、いや、結構大きな期待を込めて頑張って聞いたのに。

さわちゃんの馬鹿。
じゃあどうして私と一緒にいるの。

返ってきた答えに泣きそうになっていると、ぎゅっと抱き締められた。

「だけど、好きになっちゃったものは仕方ないじゃない」

くすくすという笑い声が頭の上で聞こえる。
さわちゃんらしい、いかにもな返答に笑って小さく頷いて、そっと目を閉じた。
さっきまであったはずの不安は、そのたった一言でどこかに消えてしまった。

「どうせまたりっちゃん達とくだらない話してたんでしょー。それこそ、禁断の愛!みたいな」

すごい、お見通しだ。
こういうとき、やっぱり先生なんだなあって思う。
ちゃんと見てくれてるんだ、って。

「でも、私もそう思うときあるよ。こんなことしていいのかなあって」

「んー、まあ正論ね。正直、私もそう思うわ」

「じゃあ……どうして?」

「さあ……どうしてかしら?」

「ええー、ひどいよぉ」

「ふふふ、嘘よ」

好きだからに決まってるじゃない――真剣な声でそう囁かれ、私の唇に温もりが宿った。

やっぱり幸せだ。

好きな人と一緒にいるのに、恋とか愛とか変に理解しようとしなくていいんだよね。

「さわちゃん……」

名前を呼ぶだけなのに、早くなる呼吸と鼓動。

名前なんていつも呼んでる。
学校でも、さわちゃん、さわちゃんって。
さわちゃんは止めなさいって言ってたけど、私もりっちゃんもずっとそうやって呼んでるから気にしていない。

だけど、二人きりの時だとやけに感情が昂ぶってしまうのはどうしてなんだろう。
特に、こういうことをしている最中は。

「ねえさわちゃん……明日からお休みだからいいよね」

「……やっぱり若い子ってタフなのかしら」

「さわちゃんもまだ若いよ」

「まだ、って何よ。まだ、って」

二人してくすくすと笑いながらもう一度ぎゅっと抱き締め合った。
たぶん、こういうのを幸せっていうんだと思う。



【7月20日】


ぼうっとした頭で天井を見上げてから、ここが自分の部屋じゃないんだってことを実感する。
纏わりつくような暑さに眉を顰めながら、ああもう夏なんだっけとかどうでもいいようなことを考えた。
まあ、それは季節のせいだけじゃないんだけど。

「……ちょっとさわちゃん、暑いよぉ」

「いいじゃなーい。せっかくの休日なんだから。昨日はあんなに甘えてたくせにー」

「もう……さわちゃんの馬鹿」

眼鏡を外しているさわちゃんはいつもよりもずっとずっと大人っぽくて、とっても綺麗だ。
私はどちらかというと眼鏡がないほうが好きだな。

「コンタクトにしたら?」

「えー、どうして?」

この眼鏡結構気に入ってるんだけど、そう言いながらさわちゃんは枕元に手を伸ばす。

その時、真っ白い背中が目に入って、同時に自分の恰好を確認する。
何にも身に着けていないことにやっぱりびっくりするし、何しろ――昨夜のことを思い出してしまう。

いつまで経ってもこの感覚には慣れそうもない。
恥ずかしさと罪悪感が入り混じったような、よくわからない感覚。

――行為をしている最中は、そんなこと全く思わないんだけど。

それに昨日は自分でもよくわからないくらいに動揺して、不安に押し潰されそうだった。
その不安を埋めるために行為に及んだのかどうかはわからない。
不安を埋めるためだけにここに来たっていうのは、さわちゃんに対して失礼だ。

だけど、さわちゃんに会いたくなったのは本当。

「ねえさわちゃん、お腹空いた」

「まったくもう、仕方ないわね。でもその前にシャワー浴びてきなさい」

確かに私の身体は何だかべたついている。
それがどうしてなのかなんてわかっているけれど、とりあえず暑かったからということにしておこう。

汗のせいで額にへばりついている前髪を掻き上げて、散乱している服や下着を掻き集めて脱衣所に向かう。

「あーちょっと唯ちゃん」

「んー?」

「昨日……憂ちゃんには連絡した?」

さあっと血の気が引いていく。
慌てて携帯を確認すると、憂からの着信やメールがたくさん残っていて、軽音部のみんなからも連絡があった。

昨日の私は、何にも見えていない。

「恋は盲目……だねえ」

「……そういうことなのかしら」

軽音部のみんな、それにいつも私を支えてくれている憂や和ちゃん。みんなのことは大好きだ。
大好きだけど、一つだけ隠していることがある。

さわちゃんと付き合っている――そのことだけはずっと言ってない。

『返事が遅くなってごめん。ちょっとギターの練習がしたくて、さわちゃんのところに泊ってたんだ』

本当と嘘。

その両方が混じった私のメール。
その文は間違いなく、私が打ったものだ。

部屋の片隅に立て掛けられたギターケースに視線を移す。
昨日の放課後からギー太には触っていない。
真っ黒なケースを身に纏ったギー太と今打っているメールの文面を見比べてから、送信ボタンを押した。

こうやって嘘が上手くなっていくのは、大人になっていく証なのかな。


********************


つい最近買った化粧ポーチ。
チャックを開けると、中にはマスカラ、アイライナー、アイシャドー……だけど、どれも封を切っていないものばかり。

お化粧なんて大人になってからするものだって思ってたけど、さわちゃんと一緒にいるようになってもう一年。
一緒に歩いていても、生徒だって、子供だって思われるのは嫌だ。

ちょっとでもいいから、近づきたい。

「あら、おめかし?」

からかうような口調に顔を上げるとお風呂から上がったさわちゃんがにこにこと私を見下ろしていた。
水分を含んだ栗色の髪を後ろで一つに束ねていて、何だか新鮮。
でもそれより早く着替えてきて欲しい。どうしてバスタオル一枚で出てくるんだろう。

目のやり場に困って俯いたけれど、自分の頬が徐々に染まっていくのがわかった。

さわちゃんはそんな私に気付いているのかいないのか、隣に腰を下ろす。
ふわり、とシャンプーの香りが私の鼻をくすぐった。
いい匂いだな、なんて思ったけど、そういえばさっき自分が使ったシャンプーも同じものだ。

こういうところで、何だか嬉しくなる。

改めてポーチの中身を漁っていると、小さな不安に襲われた。
何しろ私は今までお化粧なんてしたことがない。
平日は学校に行くからその必要もなくて、休日はごろごろしてて、それに――お洒落した姿を見せたい相手が居なかったから。

初めて手に取る化粧品の数々に戸惑っていると、すっと伸びてくる手。

「やってあげるわ」

「え?」

「お化粧するの、初めてなんでしょ?」

さわちゃんは新品のアイシャドーを手に取った。

「……変なメイクしないでよ」

「大丈夫。とびきり可愛くしてあげるから」

「あ、ファンデーション買ってない」

「いらないわよ、肌綺麗だし。あーもう、羨ましいわね」

さわちゃんは私の頬を両手で挟んで笑った。
そして「目を閉じて」と言われて緊張しながら瞼を閉じる。

真っ暗な視界。
今、さわちゃんがどこにいるのか、何をしているのかわからない。

わかるのは、その気配だけだ。

さわちゃんの指が瞼に触れていく。
それからすぐに、顔の周りの温度が少し上がったような気がした。

多分、今、目を開ければ、すっごく近いところにさわちゃんの顔がある。

「……っ、」

さわちゃんの指の温度が伝わってくる。
集中しようと思ってぎゅっと目を瞑ってみたけれど、一度考えてしまった他のことがぐるぐると頭の中を駆け巡っていた。

「……唯ちゃん?」

「な、なに」

「すっごく顔赤いわよ。大丈夫?」

そんなこと……言われなくてもわかってるよ。

「……さわちゃんのせいだもん」

「え?私?」

「そう!……顔……近いから……」

ゆっくりと目を開けるときょとんとした表情のさわちゃんと目が合った。
するとさわちゃんは急にくすくすと笑い出す。

「何にもしないわよー」

「そ、そういうことじゃなくて!」

「はいはい、わかったから。はーい、目閉じて」

いかにも不服、という感じで頬を膨らませてもう一度目を閉じた。

それからしばらく、私の瞼には色んなものが重ねられていった。
そして睫毛を専用の機械――ビューラーだったっけ、で持ち上げられたのがわかり、最後に何かのケースを閉じる音がした。

「こんな感じでどう?」

ゆっくりと目を開ける。
さわちゃんがいつも使っている化粧台まで歩いて、自分の顔を映す。

「おぉ……」

鏡に映る自分は、何だか自分じゃないような気がして瞬きを数回繰り返した。
鏡とにらめっこしていると、さわちゃんが隣でくすくすと笑っていた。

「……へ、変かなあ」

不安になって縋るように尋ねれば、さわちゃんは笑いながら首を横に振る。

「すっごく可愛いわよ」

「じゃ……、じゃあ何で笑ってるの」

「本当に初めてお化粧したんだなーって思って」

私も出掛ける準備してくるわね、そう言って化粧台の前に座るさわちゃんの背中を見ながら、自分の頬が熱くなっていることに気が付いた。

さわちゃんはやっぱり私よりずっと大人だ。
一つ一つの言葉にも、仕草にも、余裕があるってわかる。

「さわちゃん」

「なあに?」

「私、さわちゃんに釣り合うように頑張るから」

鏡越しに目が合った。
さわちゃんは私を見てにっこりと笑う。

「じゃあ私も唯ちゃんに釣り合うように頑張らないとね」

そう言って慣れた手つきでファンデーションを頬にのせるさわちゃんに後ろからぎゅっと抱き着いた。

「さわちゃんって優しいね」

「あら、今更?」

「ううん。ずっと思ってたけど……そういうところ大好きだよ」

「そう……」

ありがとう、さわちゃんはそう言って抱き着いている私の腕をそっと撫でてくれた。

もう一度、鏡を見る。
ちょっとだけ年の差が埋まったかな、なんて思えて満足だった。


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最終更新:2011年08月28日 23:08