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助手席の窓ごしに見慣れた街並みを眺めながら、手持ち無沙汰な右手をそっと隣の手のひらに重ねてみる。

さわちゃんと休日に出掛けるのはこれが初めてなわけじゃない。
だけど、一応先生と生徒なわけだからなるべく人目の多い場所に行くのは控えるようにしている。

あと、もしも他の人に見つかったときのことを考えて言い訳とかはそれなりに考えている。
まあ、さわちゃんは軽音部の顧問だから言い訳なんて作ろうと思えばいくらでも簡単に作れてしまうんだけど。
問題なのは私の演技力だ。

「ちょっと、唯ちゃん?」

「だって、外では手繋げないもん」

さわちゃんの左手をぎゅっと握りしめる。
さわちゃんと手を繋げるのは、こうやって車が赤信号で止まっているときだけだ。

「腕組んじゃ駄目かな」

「同じくらい目立つんじゃない?」

「そっかぁ」

残念だけど、色んな弊害があることは承知の上でさわちゃんと一緒にいることを選んだんだから我慢は必要だ。
ぷぅと頬を膨らませて俯いた私の指にさわちゃんの指がしっかりと絡まる。

驚いて隣を見た。

「さわちゃん?」

「ごめんね……、普通のことできなくて」

さわちゃんの横顔は少し寂しそうだった。
私はさわちゃんの指をぎゅっと握り返した。

「一緒にいられるだけで充分だよ」

信号が青に変わる。
絡めていた指先をほどこうとすると、さわちゃんは小さく首を横に振った。

「次の信号までね」

ぎゅっと強く、離れないように握り締めてくれた指先。

「……うん!」

すごく短い距離だったけど、それでも何だか嬉しかった。


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ショッピングをしたり、街を歩いてみたりしているとすぐお昼になった。
「何が食べたい?」と聞かれて「アイス」と答えれば当然の如く却下されてしまったけれど。

色々と悩んだ結果、どこにでもあるような普通のファミレスに入った。
席に通されてメニューを見ていると、さわちゃんの視線を感じて顔を上げた。

「どうしたの?」

「いやー、こう見ると誰だかわからないわね」

「え、お化粧してるから?」

「そうそう。多分、誰に会っても気付かれないと思うわよ」

その言葉で急に不安になって周りを見渡してみる。
ファミレスというだけあって、やっぱり家族連れが多い。
それに、夏休みだからか学生の姿もちらほら見受けられる。
いくら隣町だからって、ここに知り合いがいないという保証はない。

「だ、誰も居ないよね?」

「大丈夫よ。やましいことなんて何にもないじゃない」

さらりと言ってのけるさわちゃんに少し安心して、再びメニューに目を通した。

いつでも人目が気になる私とは対照的にさわちゃんはいつも堂々としている。
この違いはなんだろう。
もしかすると、私だけが『やましいことをしている』って思ってるのかもしれない。
堂々とできないのは後ろめたさがあるからだ。

ふと、隣の席を見る。
大人の男の人と女の人がにこにこと笑い合っている。
カップル、だと思う。

視線を元に戻す。
メニューに目を通しているさわちゃんを見ながら、一体私たちは周囲の人の目にどんな風に映っているんだろうと思った。

人前でキスでもしない限り、私たちの関係に気付く人はいない。
私たちにとってそれは都合がいいことだ。


だけど、

――じゃあ私たちの関係って一体何?


せっかくの休日なのに、気分が晴れることはなかった。
一年前はこんなこと思わなかったのにな。

二人で昼食をとった後、車に戻った。
アイスを食べる気分にはとてもじゃないけどなれなかった。


********************


帰り道、さわちゃんは私を直接家まで送ると言ったけど私はマンションに戻りたいと言った。
服やらCDやら色んなものを買った私たちの両手は塞がっていて、部屋の鍵を空けるのも一苦労だった。

部屋に入り、荷物を下ろして自由になった両手を私は迷うことなくさわちゃんの背中に回した。

今日、街に出てから色んな人を見た。
私の目に映ったそのほとんどが“恋人”っていう人たちだ。

私だってさわちゃんと手を繋いだり、腕を組んだりして歩きたい。
仕方ないってわかってるけど、我慢するのって想像以上に大変なことで。

だから二人きりになった途端、理性の壁が崩れてしまう。

抱き合っているだけじゃ物足りず、背伸びして口付けた。
柔らかくて温かい感触にずっと浸っていたくて目を閉じる。
まだ靴も脱いでいないのに、玄関先で何をしてるんだろう。
これじゃ、昨日の二の舞だ。
だけど、私の理性は本能に勝てない。

「唯ちゃん……、帰らなくていいの……」

うっすらと頬を染めたさわちゃんは私の頬を撫でながら言った。

「暗くなる前にはちゃんと帰る……」

それから私は溜まっていたものをぶつけるようにしてさわちゃんを抱いた。
少し高く掠れたさわちゃんの声を聞きながら、自分の興奮も高まっていく。
深く深く唇を重ねて、一緒にいることを実感した。
恋人なんだってことをもっと感じたくて、さわちゃんをきつく抱き締める。

「さわちゃん……」

縋るように首元に顔を埋めたところで、甲高くインターホンが鳴った。
私はぱっと起き上がり、さわちゃんと視線を交わす。

聞き慣れた声がしたのだ。

『……ほら、いないだろ。やめとこうよ』

『えー、さっきの絶対唯とさわちゃんだと思ったんだけどな。ほら、ここの表札も「山中」だし』

間違いなくりっちゃんと澪ちゃんの声だった。
私はさわちゃんと息を潜めて二人の様子を窺った。

『でも唯がなんでさわ子先生のマンションに?今、夏休みだぞ』

『さあな、ギターの練習でもしてるんじゃないか?あ、電話してみればいいじゃんっ』

心臓がばくばくと音を立てる。
どうしよう、どうしようとうろたえているとさわちゃんは脱いでいた服をぱっとかぶって玄関に向かった。

「そのままそこにいて」

私は頷いて玄関へと歩くさわちゃんの後姿を眺めた。

私の携帯電話が鳴るのが先か、さわちゃんがドアを開けるのが先か。
もう運に任せようと思った。
電話が鳴れば、私の負けだ。

息を潜めてシーツにくるまっていると、玄関先から声が聞こえた。

『……うわっ、さわちゃん!なんだよその恰好』

『シャワー浴びようとしたらあんたたちがチャイム鳴らしたんでしょーが』

『それにしても髪の毛ぼっさぼさだな』

『昼寝してたのよー』

それからしばらくさわちゃんはりっちゃんと澪ちゃんと何やら話をしていたけど、私の携帯電話が鳴ることはなかった。
ほっとして溜め息を吐くと、玄関先の声が消えた。
おそるおそるシーツから頭を出すとさわちゃんが戻ってきた。

「ふぅ……危なかったわね」

「何て言ったの?」

「昔の教え子が遊びに来てる、って。ちょっと無理があったかしら」

くすくすと笑うさわちゃんに、私は安堵の溜め息を漏らした。
身体の力が抜けていき、握り締めていたシーツから少しずつ指を離していく。

「ありがと、さわちゃん……」

「どういたしまして」

壁際に寄って隣にさわちゃんが来れるようにスペースを確保して、私よりも少し大きい身体に腕を回した。
二人ともさっきまでの高まりは嘘のように薄れていて、もう行為を再開しようという気分にはなれなかった。



それからしばらく他愛ない話をして、荷物をまとめてさわちゃんの車で自宅に戻った。
迎えてくれた憂がさわちゃんに丁寧にお礼を言っている間、私はぼうっとした頭で二人のやりとりを眺めていた。

憂は何にも知らない。
私のことなら何でも知っているはずの憂でも、一つだけ知らないことがある。

「じゃあね、唯ちゃん。練習頑張るのよ」

手渡されたギターケース。
ギー太の存在なんて、今日一日すっかり忘れていたような気がする。

「またね、さわちゃん」

私は生徒の顔に戻り、さわちゃんは教師の顔に戻っていた。

さわちゃんの車を見送ってから家に入ろうとした時、憂が呟いた。

「いつも思うけど良い先生だよね」

「さわちゃん?」

「うん。あんな先生に担任持ってもらいたいなぁ」

真っ直ぐな瞳で羨ましげに話す憂を見た途端に罪悪感が湧いてきた。

憂は何にも知らない。

私とさわちゃんが昨日、何をしていたのかも、

今日一日、二人で出掛けていたことも、全部。


――――私とさわちゃんしか知らない。


私たちがしていることは正しいことなのかな。
胸を張って言える関係なのかな。
答えなんて自分が一番よくわかっている。

わかっているけれど、止められないんだ。

「いい先生だよ、とっても」

憂より先にドアノブに手を掛け、震えている唇を見られないようにした。
そう、私にとっては本当にいい先生だ。

大丈夫、嘘は吐いていない。




【7月28日】


夏休みも一週間が過ぎた頃、りっちゃんから連絡を受けた私は待ち合わせ場所のバーガーショップに向かった。
到着すると既に席に座っていたりっちゃんと澪ちゃんが私に向かって手を振っていた。
だけどそこにムギちゃんとあずにゃんの姿はなかった。

「唯ー、久し振りー!」

「久し振り、元気だった?」

りっちゃんと澪ちゃんを交互に見て、ふと一週間前の出来事が頭を過ぎった。
だけど、あれから特に何の連絡もなかったから大丈夫だと踏んだ。
さわちゃんが上手くまいてくれたし、それに二人は私がいることに気付いていないはずだ。

「ところで、今日はどういったご用件で?」

「あー、ちょっと唯に聞きたいことがあってさ」

言いにくそうに眉を顰めたりっちゃんが澪ちゃんに目配せする。
澪ちゃんは私に振るのかといった表情で少し沈黙した後、私に向き直って言った。

「最近、唯の様子が変だなって話してたんだ」

直接的ではなかったものの、嫌な予感は見事に的中した。

「前は連絡つかないことなんてなかったのに、結構な頻度でメールも電話も返ってこないし……」

「そうそう、この間も憂ちゃんから『お姉ちゃんが家に帰ってこない』って私たちに連絡あったんだぞ。大丈夫なのか?」

ここで黙ってしまえば墓穴を掘っているようなものだ。
真剣な眼差しの二人を交互に見つめて、私はいつもの笑顔を作る。

「何にもないよ。何かあったらみんなに相談してるよ?」

私は今までみんなの前で嘘なんて一度も吐いたことがない。
嘘なんて吐いたところで見破られていた。

だけど、二人は顔を見合わせて「唯がそういうなら仕方ないな」と言った。

「まあ唯のことだし、嘘ついてたら一発でわかるよ」

りっちゃんはそう言ってストローに口をつけて笑った。
私も一緒に笑おうとしたけれど、たぶん口元は引き攣っていただろう。
だけど、二人はそれにさえ気付かなかった。

違和感を覚えているのは私だけだった。


********************


二人と別れたあと、私は家路を急いだ。
家に着くなり洗面所に掛け込んで、鏡の前で自分の顔を確認した。

私の顔は一年前と何にも変わっていない。
変わっていない。
変わっていないはずだ。

ゆっくりと口角を上げてみる。
その笑顔も私が今まで見てきたものだ。


ただ、瞳だけは笑っていなかった。


この瞳には今まで色んなものを映してきた。
たぶん、それは楽しいことや嬉しいことばかりだったんだ。

この一年間、私はこの瞳にさわちゃんばかりを映してきた。
そして、一緒に居たいがために二人でたくさんの嘘を吐いて、時には瞳の色を変えてきた。

私が吐いた嘘、
さわちゃんが吐いた嘘、
全部、この瞳は知ってる。

「……っ、……うぅ……」

怖くなった。
この一年ですっかり嘘が上手くなった自分は、同時に色んなものを失っていた。
子供という枠組みから外れて、大人という場所に手を伸ばした私はもう完璧な子どもには戻れなくなっていた。

大人になりたいのに、なりたくないという矛盾。
嘘が上手くなりたいのに、いざ嘘が吐けるようになると途端に感じる恐怖。

「何にもないよ。何かあったらみんなに相談してるよ?」

私は今までみんなの前で嘘なんて一度も吐いたことがない。
嘘なんて吐いたところで見破られていた。

だけど、二人は顔を見合わせて「唯がそういうなら仕方ないな」と言った。

「まあ唯のことだし、嘘ついてたら一発でわかるよ」

りっちゃんはそう言ってストローに口をつけて笑った。
私も一緒に笑おうとしたけれど、たぶん口元は引き攣っていただろう。
だけど、二人はそれにさえ気付かなかった。

違和感を覚えているのは私だけだった。


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二人と別れたあと、私は家路を急いだ。
家に着くなり洗面所に掛け込んで、鏡の前で自分の顔を確認した。

私の顔は一年前と何にも変わっていない。
変わっていない。
変わっていないはずだ。

ゆっくりと口角を上げてみる。
その笑顔も私が今まで見てきたものだ。


ただ、瞳だけは笑っていなかった。


この瞳には今まで色んなものを映してきた。
たぶん、それは楽しいことや嬉しいことばかりだったんだ。

この一年間、私はこの瞳にさわちゃんばかりを映してきた。
そして、一緒に居たいがために二人でたくさんの嘘を吐いて、時には瞳の色を変えてきた。

私が吐いた嘘、
さわちゃんが吐いた嘘、
全部、この瞳は知ってる。

「……っ、……うぅ……」

怖くなった。
この一年ですっかり嘘が上手くなった自分は、同時に色んなものを失っていた。
子供という枠組みから外れて、大人という場所に手を伸ばした私はもう完璧な子どもには戻れなくなっていた。

大人になりたいのに、なりたくないという矛盾。
嘘が上手くなりたいのに、いざ嘘が吐けるようになると途端に感じる恐怖。

ポケットに手を突っ込んで、震える指で携帯電話のボタンを押す。
今の私がきっと今一番会ってはいけない相手。

だけど、会いたい。
会いたくて仕方がない。
助けてほしい。

『唯ちゃん?』

一番好きな声が聞けたことに私は少し安心した。
電話口から私の嗚咽が届いたのか、さわちゃんは『何かあったの?』と慌てたように言った。

「さわちゃん……っ、私……どうすればいいのかわかんないよぉ……」

りっちゃんと澪ちゃんに嘘を吐いてしまったこと。
憂に嘘を吐き続けていること。
何より、嘘が上手くなっていく自分自身が一番怖かった。

このままじゃ、何もかも失ってしまうような気がした。
大切な家族も、大切な友達も。

何より、自分自身も。


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最終更新:2011年08月28日 23:09