【9月15日】
この部屋に入ったのはいつぶりだろう。
多分、二ヶ月も経っていないと思うけど、まるで何年も来ていなかった場所のようにさえ感じた。
さわちゃんはキッチンでお湯を沸かしていた。
ティーカップを二つ用意して、片方に角砂糖を三つ、もう片方に一つ入れている。
そして角砂糖が三つ入ったほうのカップにティーバッグを入れてお湯を注ぎ、温めた牛乳を三分の一くらいまで入れた。
いつもこうだ。
さわちゃんは二つのカップを準備するくせに、私のほうから紅茶を作る。
キッチンに立っているさわちゃんの背中は何だか寂しげに見えた。
少し前までは私が何か喋って、さわちゃんがそれに対してふざけて答えて……そして二人で笑ってたのに。
「練習は順調なの?」
さわちゃんが口を開いた。
どうしてここに来て部活の話になるんだろう。
「うん。頑張ってるよ」
違う、話したいのはこんなことじゃない。
昨日の私はちゃんと覚悟を決めていた。
なのに、本人を目の前にすると途端に何にも言えなくなる。
さわちゃんは紅茶の入ったティーカップを一つ、私の前に置いた。
いつものミルクティーだ。
そう……いつもの。
初めてこの部屋にきたときも同じものを飲んだ。
紅茶が苦くて飲めない、という私にさわちゃんはじゃあ多めに砂糖を入れればいいじゃないと言って角砂糖を三つ入れた。
私は入れ過ぎだとさわちゃんを咎めたけど、実際に飲んでみると美味しくて、素直に美味しいと言えなかった記憶がある。
その記憶も全部、さわちゃんと過ごした日々の中にある。
「……、美味しい……」
涙が流れる。
私は震える指先でカップを置いた。
「ごめんなさい……、りっちゃんに……嘘吐けなかった……」
本当は、さわちゃんを咎めたかった。
「一緒にいた男の人って誰?」って、「もう私のこと好きじゃないの?」「別れよう」って、直接言ってやりたかった。
だけど、結局口を吐いて出たのはさわちゃんに許しを請う言葉だった。
私たちにとって、本当の別れの言葉だった。
さわちゃんと付き合うって決めた日、私はさわちゃんと一つだけ約束を交わしていた。
もしも誰かに関係を知られてしまったときは、“別れる”って。
――――たぶん、それが今日になる。
静寂に包まれる部屋。
壁際にある時計だけが規則正しく動いている。
「私も……唯ちゃんに言わなきゃいけないことがあるの」
顔を上げてさわちゃんを見る。
「お見合い勧められて……実際、その人にも会った」
「さわちゃん……」
「最低でしょ……、だからこれでよかったの。……唯ちゃんが謝ることないのよ」
さわちゃんはそれ以上何も言わなかった。
ただ、こんなにも冷たく話すさわちゃんを見たことがなかった。
「やだ……」
こんなに近くにいるのに、さわちゃんをこんなにも遠くに感じたのは初めてだった。
「やだよ、さわちゃん……、別れたくない……!」
我儘だってわかってる。
約束も守ろうとしない私は、さわちゃんの目にどう映ってるんだろう。
昨日までの覚悟と感情は、さわちゃんに会ったことで全て都合よくリセットされた。
好きだ。
さわちゃんが、大好き。
今更になって、改めてそう感じるなんて。
「唯ちゃん」
さわちゃんは諭すように私の指を離そうとした。
聞き分けのない子供のように、私もそれに力で対抗する。
「じゃあ、どうすればいいの?!」
「唯ちゃん……」
「どうすれば一緒にいられるの?!ねえ!」
私は掴んでいた腕を離し、さわちゃんに掴みかかった。
「さわちゃん……、その人のこと好きなの……?」
「違う……」
「私だけ……、私だけさわちゃんのことが好きだったの……?」
私は泣きながらずるずるとその場に倒れ込んだ。
「違うわ」
さわちゃんの声がいつもより強くなって、それからきつく抱き締められた。
「私は今でも唯ちゃんが好き」
初めてだった。
「私だって……、別れたくなんかないわよ……」
さわちゃんが泣いているのを見たのは。
唇を重ねられて、私はその言葉を信じた。
今までずっとキスをするときは全部私からだったから。
最後の最後までさわちゃんは私よりもずっと大人だった。
「さわちゃん……」
さわちゃんは唇を離すと名残惜しそうに私の唇を親指で拭った。
涙に濡れた瞳が綺麗で、ぼうっと見つめているとさわちゃんは寂しそうに微笑んだ。
「だけど、約束は約束」
…………約束はやっぱり守らないといけない。
「じゃあ……」
私はさわちゃんの肩を掴んでそのまま押し倒した。
「私……、明日から生徒に戻る」
やっぱり、嘘は苦手だ。
私、何でこんなこと言ってるんだろう。
「だから今日だけ……、一緒にっ……一緒にいてもいい……?」
私の涙がさわちゃんの頬に落ちた。
上から見下ろしたさわちゃんはやっぱり綺麗だった。
さわちゃんは未だ泣き止まない私を抱き寄せ、あやすように髪を撫でてくれた。
「唯ちゃん……」
そして、さわちゃんはかけていた眼鏡を外して床に置いた。
この光景を私は今まで何度も見てきた。
だけど、それも今日で最後だ。
ねえ、さわちゃん。
明日、いつも通り笑えるかな。
【9月16日】
朝起きると瞼が腫れていた。
洗面所で顔を洗って鏡を見たけれど、それはもう酷いものだった。
今日、憂が先に登校してくれていたのが唯一の救いだった。
昨夜は自分の部屋で声を押し殺して泣いた。
本当は大声を上げて泣き叫びたい気分だったけど、憂がいたから我慢した。
泣きすぎてエネルギーを使った所為か、お腹だけは異様に空いていた。
憂が作ってくれていた朝食を胃に詰め込んでから鞄を引っ掴んで家を出る。
学校になんて行く気分じゃないのに、習慣っていうものにずるずると引き摺られている。
周りを見ると同じ制服を着た桜高の生徒が朝から楽しげに話しながら歩いている。
昨日までの私の笑顔はたぶん、その中に溶け込んでいた。
私は踵を返して人の波に逆らって歩いた。
やっぱりいつも通りになんて振る舞えそうになかった。
近くの公園のベンチに腰掛ける。
平日だからか誰もいない。
小鳥が鳴いているのが聞こえる。
携帯の時計を見ると既にホームルームが始まっている時間だった。
あと、メールが数件。
みんなはきっと寝坊か何かだと思っている。
かといって話せる理由もないからそれはそれで都合が良かった。
その中にさわちゃんの名前はなかった。
期待なんてしてないはずなのに、寂しかった。
********************
お昼ごろまで時間を潰し、何もすることがなくなった私は漸く学校に行く決心がついた。
だけど、部活のことなんてすっかり忘れていたから自宅にギー太を置いてきてしまっていることに気付く。
学祭はもうすぐなのに。
重い足取りで校舎に入り、教室のドアを開ける。
「あ、唯!」
「唯ちゃん、大丈夫だったの?」
「メール返ってこないし、心配したんだぞ!」
「憂ちゃんからも連絡あったのよ。どこ行ってたの?!」
入るや否や、色んなところから声が聞こえてきて応対できなかった。
りっちゃんとムギちゃんが私を見つけて駆け寄ってくる。
違うクラスのはずなのに、何故か澪ちゃんと和ちゃんまでいた。
私がいなかったのはたった半日なのに。
それなのにどうしてみんな、そんな心配そうな顔をしているんだろう。
「最近、遅刻することもなかったからさ、大丈夫かなって話してたんだ」
「憂ちゃんには私から連絡しておくから」
みんなの顔を見て、思わず泣きそうになった。
みんなはいつも私のことを心配してくれていた。
なのに、私はずっとみんなのことを二の次にした。
メールだって電話だって、自分の都合ばかり優先して返事もしなかった。
これは今日に限ったことじゃない。
…………最低だ。今更気が付くなんて。
「……ゆ、唯?」
「……ごめんね、みんな……、ギー太忘れてきちゃった……」
情けなかった。
これまで一年とちょっと、私は色恋に浮かれて周りを見失っていた。
その上、その事実を誰にも話すことなく、ギー太の練習もないがしろにした。
なのに、みんなはいつも私を気遣ってくれていた。
嘘ばかり吐いていた私に、いつも笑顔で接してくれた。
「いいよ、今日は休みにしよう」
頭上で一つ、声がした。
澪ちゃんの言葉に「えっ、マジ?」というりっちゃんのいかにも嬉しそうな声が聞こえて、すぐさま澪ちゃんが「喜ぶな」と制している。
久し振りに見た、いつもの光景。
「唯、何があったのか知らないけど……私たちならいつでも頼っていいんだぞ」
顔を上げると澪ちゃんが優しく笑っていた。
その日の放課後はみんなで他愛のない話をした。
いつもの放課後だ。
そうだ、こんな感じだった。
みんなといる放課後ってこんなに楽しかったんだ。
みんなといる空間の心地良ささえも忘れていた私は、よっぽど周りが見えていなかったんだと思った。
帰り道、いつもの場所でりっちゃんと澪ちゃんと別れようとしたら、りっちゃんが澪ちゃんに両手を合わせて何か言った。
澪ちゃんはりっちゃんを見て頷くと「じゃあ唯、また明日な」と言って一人帰って行く。
それを見たムギちゃんとあずにゃんも私たちに手を振って背中を向けた。
「りっちゃん?」
「今日は唯とデートしたい気分なんだよ」
意味ありげな含み笑いを浮かべながら、「別れたんだろ」とりっちゃんは言った。
「なんか……ごめん。私が別れさせたみたいになって」
「ううん、仕方ないよ。それに……さわちゃん、お見合いしたんだって」
「……お見合い?!」
閑静な住宅街にりっちゃんの声が響く。
りっちゃんは慌てて口を手で塞いだ後、「それってマジなのか?」と聞いた。
頷くと「まあさわちゃんもいい年だしな」と言ってりっちゃんは笑った。
しばらく歩いていると、不意にりっちゃんが口を開いた。
「……だけど、唯」
りっちゃんの真剣な表情に思わず言葉が詰まった。
足を止めるとりっちゃんも立ち止まり、そして私に言った。
「唯はもういいのか?」
「え?」
「諦めるのか、ってこと」
どういう意味だろうとりっちゃんを見ると、困ったように笑っていた。
「別れさせたくせに、って思ってるだろ」
「……思ってなくはない」
本音を言うと、りっちゃんの言葉がなければあのまま関係を続けていたと思う。
それが良いことなのか悪いことなのかはわからない。
少なくとも、当人同士の問題ならば前者で、他人から見れば後者なんだろうけど。
複雑な気持ちに何にも言えないでいると、りっちゃんは悪戯気に言った。
「んー、だけど私は『最低でも唯が卒業するまでは』って言ったからな?」
その言葉にはっと顔を上げるとりっちゃんは微笑んだ。
「言わなかったけどさ、今日、さわちゃん学校休んでるよ」
「……え?」
「部室にも来なかっただろ?」
確かに今思えば今日、学校で一度もさわちゃんを見なかった。
私に周りを見るそんな余裕がなかったっていうのもあるけれど、りっちゃんの言葉に気付かされる。
「私はそれでお二人さんに何があったか確信したんだけど」
そう言って空を見上げるりっちゃんにつられて私も上を向いた。
もうすっかり日が暮れてしまっていた。
昨日、さわちゃんのマンションから帰るときも同じ色の空を見た。
別れ際に見たさわちゃんはいつもと何にも変わらなかった。
私はずっと泣いていたけど、さわちゃんはそんな私をただ宥めるだけだった。
あんなに私のこと子供扱いしてたくせに。
さわちゃんのほうがずっと子供じゃん。
やっぱり大人の心は読めない。
急に橙色の空が滲みだして、これじゃダメだとぐっと目頭を拭う。
「さわちゃんも辛いのかもな」
りっちゃんはそう言った後、ぽつりと続けた。
「卒業するまで待っててもらえよ」
りっちゃんは足元に落ちていた小石を蹴った。
ころころと転がって、数歩先で止まる小石を満足気に見下ろした後、私を見て笑った。
「じゃないとさわちゃん、誰かに盗られちゃうぞ?」
私はりっちゃんが蹴った小石を、少し強く蹴った。
「……それは嫌だ」
自惚れてもいいのかな。
吹っ切れていないのは、私だけじゃないって。
そしたらまた少し、頑張れる気がする。
「りっちゃん……、ありがと」
「おう」
昨日と同じ夕焼け空の下を歩きながら、昨日とは違う気持ちの自分を見つけた。
最終更新:2011年08月28日 23:11